第1部 燃える氷柱 1章~7章
♯ 1
「美しい夜ですわ」
夏の夜の海風の甘さにアヤメは思わずつぶやいた。
「んー、やっぱ涼しくていいね、海岸て」
アヤメと並んで暗い波打ち際を歩いている少女マクラは両腕をストレッチしながらこたえる。
「みてみて、満月だぜ。おまけにオレンジっぽい色で、なんかドキドキじゃん。ひひ」
もうひとりの同行者ムクゲは月をあおぎながら、やや目立ちすぎる八重歯をのぞかせながらニヤニヤしたが、もの思いにふけるアヤメはふたりの返事を聞いていなかった。
赤城小路アヤメ。
スカートが波に濡れてしまわないようにその白く長い足で注意深くおりはさんで浜辺にかがむと、流れるような栗色の細い髪が彼女の背中をおおいかくした。
カチューシャでとめた髪は十六歳の少女の横顔に月光を招きいれる。
月の青い光はまだあどけなさを残したひいでたおでこからピンと形よく上を向いた鼻すじをすべり、ちょっぴりほどよくそったあごのラインでいったん止まったかと思うと、そこからノースリーブの肩に当たり豊かなバストラインを滑走したあと美しく浜辺に飛散する。そこには行き来する海水の薄い膜の下で桜貝たちがまどろみ、その安らかなしとねにアヤメは夢見るような乙女の視線を注ぐ。
またももれ出たアヤメの吐息はまるでこう言っているようだった。
(波に月明かりが踊るさまはまるで妖精たちが集う舞踏会のよう。これでお月さまの色がもっと青ければことさらロマンチックでしたのに)
国道と並行した白い海岸線。通る車もまばらになった深夜、ときおりヘッドライトが三人の少女の影を砂浜から海へと扇状にふりまわすようにして投げかける。
景観保全のために適度な間隔で植えられた松林のひとつの端まで来たところでかがんだまま、アヤメはほおづえをつく。
(それでもやはりわたくしは朝の海のほうが好き。ひと気のない夜の砂浜は寂しいですわ。いくらお月さまが明るくても)
夜の散歩の連れが歩みを止めたことに残りの二人がようやく気づく。
「そんなとこでどうしたの。アヤメちゃんったらまたメランコリー? せっかく寮を抜け出してきたのに、もっと楽しまなくちゃ」
セミロングの緑の髪を磯風になびかせたミニスカートのクラスメート二階堂マクラがはげますように言った。
「あ、すみません。マクラちゃん」
いつもの律儀さでアヤメが反応すると、勢いよくもうひとりの子が彼女の前に飛び出してくる。
「あやまんなよ、いちいち。どうせまた『わたくし夜は寂しいですわ』とか思っちゃってんだろ? いいじゃんか、夜。オレ、夜が大好きだぜ」
「そうですね、ムクゲちゃん。素敵な宵ですわ」
立ち上がったアヤメは自分にカツを入れた如月ムクゲを見つめた。
(いいな、ムクゲちゃんは。思ったことをストレートにポンポンお口に出せて。わたくしもあんなふうに喋ってみたいですわ)
へへへ、とハスキーに笑って得意そうに人差し指を鼻にやる如月ムクゲは黄色のショートへア。毛先がほおのあたりでクルリと巻いていていたずらっぽいウインクを一層ひきたてている。元気な赤いタンクトップは小ぶりの胸をきっちりと包み込み、まるで少年のようなシルエットを白い浜辺におとす。細身ながらはちきれんばかりのショートパンツに堂々とした腕組みの仁王立ちがなんとも頼もしい。そんなムクゲをアヤメはうらやましそうにながめる。
(ああ、もう少しムクゲちゃんのように強くならないと、わたくしが舞台に立つことなど夢のまた夢……)
「夜が好きじゃない子もいるさ。自分の趣味をヒトに押しつけんの、よくないよムクゲちゃん」
こう言ったのは腰に手を当てきれいに足をそろえたポーズを決めた二階堂マクラだ。
「オレのことムクゲって名前で呼ぶなあ、マクラ!」
「アヤメちゃんだってそう呼んでいるじゃない。なのにどうしてわたしだといけないわけ?」
「アヤメはいいんだよ。このホンワカとした春みたいな声なら許せる。だけどマクラのキツめの声だと如月っていう方が似合ってる。だからさ、いつもみたいにキサラギって呼べよな」
「わかったわよ、ム・ク・ゲ・ちゃーん」
「こらー待てー、一年紅組二階堂マクラ! 捕まえて髪の毛ボサボサの刑に処す!」
相変わらずふたりの動きに取り残されたアヤメはまたため息をもらす。
(このお二人ほんとに仲がよろしいですわ。砂浜をかけるお二人は互いを求めて自在に飛び交う蝶のよう。わたくしもあのように自由に走りまわれたらどんなにか心はずむことでしょう)
ふう、と目を閉じたアヤメだが、目を開くとすぐに異変に気づいた。
(おや? どうなさったのでしょう? お二人とも急に立ち止まってうつむいてしまって。ご気分がすぐれないのでしょうか)
「ア、アヤメ~。こっち来てみて!」
(ムクゲちゃんが声を震わせている?)
アヤメは驚いた。
(いつもしっかり者でクラスをまとめてくれているあのムクゲちゃんが取り乱すなんて。 急がなくては)
アヤメは駆け出そうとしたが白いコルクのサンダルが一足ごとに砂にうずまるので、たった数メートルを走るのにかなり苦労した。
「ふーふー、すみません。息が切れてしまって」
「あやまっている場合じゃないぜ。アヤメ、これどう思う?」
「きゃあ! し、死んでる! すすす、砂浜の上に男の人がうつぶせに倒れています!」
その若い男はところどころ砂に埋もれているもののシャツは着ていないようで、月明かりがそのむきだしの肩をやけに鮮明に照らしだしていた。
「死んでるなんて、アヤメがそんなこと言ってどうすんだい。どう見ても生きてるよ。そんな手のひらの間からうす目あけて見てるからよくわかんないんだよ。よし、オレが砂を払ってやるぞ。ほら、体あったかいよ。え? うっひょー、やったあ。こいつ海パンもはいてないぜ。全裸じゃん」
(全裸ですって! わたくしもう見ていられません。うわあああ)
アヤメは手のひらのすき間を完全に閉じて目を固くつぶった。
「ひひ、ころがしてあお向けにしちゃおうか?」
「や、やめてください、ムクゲちゃん!」
「あ、見てアヤメちゃん。ほら目を開けて、しっかり見て」
回れ右しようとしたアヤメの肩をマクラがつかんでいた。
「マ、マクラちゃんまで何ということを!」
アヤメはもがきながらふたりの悪友に心の中で抗議した。
(ああ、そんな。わたくしの手を顔からはがさないでください。アヤメは高校一年生、まだまだ清き身なのです。ほえ? す、砂だらけの指でわたくしの目をこじ開けようとしているのはムクゲちゃんですか! このままでは目が開いてしまいます! というか見る前に砂が目に入っちゃいますよぅ! み、見えちゃいます、ああっ! は?)
アヤメはこじあけられた自分の目を疑った。
「うそっ! ですわ」
アヤメはその若い男の子の背中を見てゾッとしたのだ。
信じられないといった感じで頭を左右にふってからアヤメはもう一度よく見てみた。
(砂をとってもらい月光に輝くなめらかな白い肌。その肩の上には素敵な夢にまどろむような穏やかなお顔が。ほおの輪郭がとても美しい……。けれども、この背中の異常さはなんですの? だって、そのお背中には……)
「翼がない、です?」
アヤメははっきりと口に出してそう言った。
「ねえムクゲちゃん、どういうこと? このヒト背中に翼がないよ」
マクラの声もうわずっている。
「オレにふるなよマクラ。し、下に気をとられてオレ肩を見落としてたんだよ。まさか翼が切り取られてるってことなの? それじゃ猟奇事件じゃん! オレそういうのだめなんだよー、アヤメ~」
猟奇事件!
この単語でアヤメの目つきが劇的に変化した。
背すじはピンと伸び、その栗色の瞳はまたたく間に冷静さを装着した。
アヤメはまるで検視官のような冷めた態度で砂浜に横たわる若い男性の前にしゃがみこむ。スカートはその長い足にはさみこまれることもなく無造作に砂に落ちた。
「どう、アヤメちゃん? 血とか出てんの?」
「いいえ、マクラちゃん。何もありません。なさすぎます。背中から切り取られた痕跡さえないのです。あたかも最初から翼などはえていなかったような、そんな感じです」
「まさかあ。翼がないなんて、そんなヒトこの世の中にいるの?」
「ね、ねえ、このままじゃオレたちやばいよ。警察とか救急車とか呼んだ方がよかね?」
「だ、だめだよムクゲちゃん」
「き、如月って呼べよな、マクラ」
「だって警察なんて呼んだら寮から抜け出したことバレちゃうでしょ。こんな夜中に学園長室に呼ばれたいの?」
「やだ! オレ、あそこ行くのだけはカンベンして。アヤメー、どうしよう?」
「しっ、お静かに。ほらムクゲちゃん、この男の方は息をしていますよね」
「そ、そんなのオレわかんないよ。なんだってアヤメはそんなの聞こえんだよ? どうしていつもこんなときだけ落ち着けちゃうんだよ!」
「しっ。ほら、聞こえませんか? 息はしているんですけれど、なんだかふつうに寝ているわけでもないみたいなんです」
「だからなに言ってんだよ? オレなにがなんだか」
「わたくしも見当がつきません。だからこうなったらおじさまにおすがりするほかございませんわ」
「ええーっ! あの和服エロおやじに? やっぱそうなるのか……苦手だなぁ、オレ」
「おととい大きな事件をお片づけになったばかりですから、おじさま今日は洋服をお召しになっているかと思いますよ、ムクゲちゃん」
「ほんと洋服? そんなら、まあいいか」
「でもこんな時間にアヤメちゃんのおじさん来てくれるかしら?」
「マクラちゃん、だいじょうぶですわ。おじさまはマクラちゃんとムクゲちゃんの大ファンですもの。あ、ムクゲちゃん、そんなにお逃げにならないでここにいてくださいね? それにねマクラちゃん、こんな大事件をおじさまが見逃すはずないですもの、きっと来てくださいますわ」
「いたたた、腰つかむなよ。おい、アヤメ。あんた、どうしてこういう時だけバカヂカラ出せるんだよ。いいかげんその手を離してくれないとオレのパンツもちぎれてこの男みたいに丸裸になっちゃうだろ」
「まるはだか? きゃー!」
アヤメはまた弱々しげなお嬢さまに戻ってしまい両手で自分の体をぎゅっと抱きしめてひとりの世界に入った。
(そ、そうでした。この男の方、何もお召しになっていらっしゃらないのですわ。忘れていました。ま、回れ右ですわ。お、おじさまに早く電話しなくては。アドレスは、えーと、これですね)
「う、うーん……」
「アヤメちゃん聞いた? いまこのヒトうなったよ!」
あわててふりかえるとアヤメの胸はドキリと高鳴った。
砂の中の男の子が一瞬自分にむかって微笑みかけたように見えたのだ。
(ええ? あれあれ! ど、どうしたのでしょう。わたくしの背中の小さな翼がピクピクンと小刻みに震えている? みんなよりずっとちっちゃくて、動いたことなんて一度もなかったわたくしの翼がこれほど元気よく震えるなんて……。こんな経験、初めてなのです。いったい何が?)
苦痛とも快感ともつかぬそのあまりの違和感に呆然とし、手の中の携帯が自分の名前を呼び続けていることにすらアヤメはしばらく気づけないでいた。
♯ 2
門から玄関まで百メートル以上も続くアプローチ。もはや森林ともいえる敷地内の木々。それら樹木の陰から英国チューダー様式で部屋数が五十を越える巨大な館が優雅な庭灯に照らされてぼんやりと浮かび上がる。
ここがアヤメの叔父・江奈裕一郎の住まいだ。
いくら当代随一の名探偵として世に聞こえた男とはいえ江奈裕一郎がこれほどの豪邸に住んでいるのには理由があった。
彼はもともと江奈財閥の唯一の後継者なのだ。
「おじさま。こんな夜分にわがまま言ってすみません。アヤメはいつも迷惑ばかりかけてしまって」
ゆったりと快適な居間のソファにも座らずその傍らで立ったまま顔を赤らめ頭を下げる姪を見ると江奈はつい考えてしまう。
(なぜこの子はこんなにも謙虚に育ったのだろう。エナグループの底なしの財力のおかげで苦労知らずだから? 輝くばかりの美しさに自分でも満足しているから? いや、そんなことはない)
「いや、そんなことはないよアヤメ。夜に美女たちと海のドライブを楽しめたなんて僕のほうこそ願ったりさ」
アヤメはますます恐縮して何度も頭を下げた。
(これがアヤメなのだ。持って生まれたおだやかな性格。慎ましやかで思いやり深くて。やさぐれた探偵稼業の俺にはもったいないくらいの姪だ。それにしても)
江奈は姪のアヤメをあらためて見つめた。
(それにしても男嫌いのはずだったアヤメが男の子のことでこんなに献身するなんて。そうか、もうそういう年頃なんだなあ。そういえば、知り合ったときのクリスもこのくらいの年だったじゃないか)
クリスとは江奈の妻の名だ。ロンドンで通り魔的なテロに巻き込まれて江奈の妻が死んだのはもう十年以上むかしだった。
江奈は思い出したように背広のポケットから懐中時計を取り出して文字盤をながめた。それは当時彼女が身につけていた形見だ。
(今夜はあのときを思い出させるようなことばかり起こるな)
辛かったこの十数年のすべてがそこに刻み込まれているかのように江奈の目は時計の文字盤をさまよった。
「あの、おじさま? 何か心配事でも?」
江奈は、おっといけないというふうに顔をあげた。
「どうせ女のことにきまってるさ。な、エナオヤジ」
正面からしんらつなハスキーボイスが江奈を直撃した。
「きたな、如月ムクゲ」
ソファに腰掛ける江奈はショートパンツに両手をあてて得意顔の少女を上目づかいに見あげた。
あわてたアヤメと横にいた級友の二階堂マクラは、だめじゃないのというぐあいにムクゲに向けて手をパタパタさせた。
しかしそんなことを気にするムクゲではなかった。
「なんだい、レディをいきなり呼び捨てとはやっぱり紳士じゃないね、江奈おやじは」
「ムクゲちゃんは、と言いかけたところじゃないですか。話の途中ですよ」
「下手ないいわけ。じゃ話の続きとやらを聞かせてもらおうじゃん」
「だからさっきからムクゲちゃんがね、部屋のあちこちでその赤いタンクトップのすそを派手に上げ下げしておへそやらみぞおちやらをチラチラさせるものだから気になってしかたないんだよ。それはぼくへの何かのメッセージなのかな?」
「そうよムクゲちゃん! さっきから何やってんの!」
良識派の二階堂マクラが声をあげた。
「エロおやじのとこ行くのはいやだって騒いでたのはムクゲちゃんでしょ。それをここへ着くなり自分から何やってんのよ!」
「だってぇ、こんなスーツを着ているときのエロおやじって全然エロくないんだもん。和服のときとまるで違うじゃん? だからオレがちょいと目をさましてやろうかと思って」
和服探偵。
世間では江奈裕一郎のことをこう呼んでは面白がる向きもあった。大事件の現場にきまって和服で現われる江奈の姿は好奇なマスコミカメラマンのかっこうの餌食だった。
しかし実際には普段の生活は洋服で、今も和服を着てはいない。それも今日は何か公的な会合の帰りだったのか、かなりフォーマルなダークスーツをスリムに着こんでいる。
髪型もそれに似合ったきっちりしたもので、今どき珍しくポマードのような整髪剤でおそらく長髪だと思われる黒髪をオールバック気味にびしっときめている。ただ一すじの黒髪がいつもパラッとはぐれておでこにかかってしまうのだが。
まだ三十代の半ばだが眉間のしわだけがやけに深い。しかしまなざしは温厚で笑い顔も屈託のない人なつこいものだ。鼻すじ通って目もと涼しく、唇の両端がいつも微笑んだよんにクイと上がり気味になっている。その横顔はおでこから高い鼻へかけてのラインが姪のアヤメとよく似ていた。あまり目だちはしないがよく見ると耳たぶがけっこう長い。
江奈は背の高い男だがそれ以上に印象的なのはその翼だろう。
なにしろでかい翼を背負っている。それはもはや普通の人のようなコウモリ状のものとは言えず、むしろプテラノドンの翼といってもいいくらいだ。アヤメ、マクラ、ムクゲの少女たちのようにまるで翼の形など外に見えない若い世代とは大違いだ。この巨大な翼が江奈を大人物のように演出しているのは確かだ。
だがその翼の押し出しも旧知のムクゲたちには効果がないらしい。
「えーと、エロおやじって……まさか僕のことじゃないだろうね?」
「へっへーだ。違うというならさっき何をボンヤリ考え込んでたのか言ってごらんよ。どうせ女のことなんだから」
「違うね。社会的なことだ」
「ほお、大きくでたじゃん。じゃ何?」
「新聞社の妄信について頭を悩ましているのだよ」
(お、少し黙ったな。みんな目を丸くして)
江奈はみなに気づかれないようにほくそえんだ。
(今は彼のことに質問が集中するのは避けたいからな。
もし彼、アカリくんと俺がすでに知り合いなんだって知れたらこのおしゃべりスズメたちのピーピーキャーキャーは朝まで止まらんだろうし。
よし、これでいくか。
にしても、なんだってよりによってアヤメたちがアカリくんを発見したりするんだ。天網恢々粗にして漏らさずとは言うものの、間が悪すぎるよ。これでは計画が狂いかねん。
これもみんなアヤメの悪友のせいだ。特にムクゲちゃんの)
「ふん、どうせ口からでまかせなんだろ」
何を言うか見てろよ如月ムクゲ、とばかり江奈は一枚の紙を差し出した。
「このメールを見なさい。きょう来たものだよ」
「夕日新聞? へえ、大手じゃん。タイトルはと『名探偵・江奈裕一郎の真実』? ちぇ、また自慢話かい」
「あら、確かおととい解決なさったという大きな事件の武勇伝がもう? アヤメも読みたいですわ」
「いや、事件ではなくて人物紹介ってやつだね。ところが興味本位の記事でねえ、困っているんだ。アヤメから電話をもらったときも校正中だったのさ」
アヤメはあわてたように立ち上がってまた何度も頭を下げた。その頭をムクゲが軽くたたく。
「アヤメもそうペコペコすんなって。だいたいさ、興味あってのマスコミだもん、興味本位って結構なことじゃん。ちょっと貸してみなって。どれどれ『名探偵として世に名高い江奈氏の正業はエナ・グループの特別顧問である。世界有数の複合企業体エナ・グループを実質的に統括しながらの探偵業はいかにも道楽臭が強い』だって。ほらほら道楽だってさ、はは、痛いとこ突かれたね」
「問題はそこじゃない。その後だよ」
「えーと、『いかにも道楽臭が強いが、実はその裏に悲しい由来があったのをご存知だろうか』ときたもんだ」
「おじさま! まさかあの件では? ちょっとムクゲちゃん、そのコピーをわたくしに!」
「うわ、バカヂカラだすなよ、アヤメ」
「ああ、おじさま、やはりそうですわ! 『ロンドン旅行中に悲劇は起こった。犠牲者二百数十人を出した例の列車爆破テロで江奈氏は両親と夫人を一度になくしたのである』……おじさま」
「アヤメ、続けて。今夜中に僕のチェックを返信しないと、これがそのまま明日の新聞にのってしまうのだよ」
「はい……『大英博物館での所用が長引き別便で家族を追うように予約を変更したためひとり難を逃れた江奈氏だが、彼はその涙のなかで復讐を決意した』。なんだかスキャンダラスな書き方ですね。悲しい出来事なのに」
「まだ良心的なほうさ。僕がそれまでビジネスには無縁の学究の徒で、母校の考古人類学教室に在籍したまま世界中を放浪して、その間に彼女にめぐりあったことも書いてないし、なによりあのときが実は彼女との新婚旅行だったことにも触れていないしね」
「エナ……おやじ」
(ほお、ムクゲちゃんまでしんみりしたか。よしよし、乗り切れるかな)
江奈の唇の端がさらにクイと引きあがる。
「もっと続けますか、おじさま?」
「うん、たのむ」
「はい。『このロンドンでの復讐劇が探偵・江奈氏の初ケースだったことは実はあまり知られていない。しかしわずか二か月でテロ組織は一網打尽となり、その際にニュー・スコットランド・ヤードがおこなった勝利会見でわざわざユーイチロー・エナの名をあげて当局が謝意を表明したことを見れば、捜査の裏側での江奈氏の活躍が容易に想像できはしまいか。こうして江奈氏は事件を解決に導いて一族の無念に一矢報いたが、突然にトップを奪われたエナ・グループは崩壊の危機にさらされた。
ところがこれも江奈氏が救ったのである。経営にはしろうとだと思われた江奈氏によるあの奇跡の再建成功談については何十冊も本が書かれているのでご存知の向きも多いであろう。
かくしていちやく経済界のホープと脚光を浴び、またその独特の口ぐせである『フフ、困ったものだ』が流行語大賞をとった江奈氏だが、グループ再建のわずか一年後に発表した経済界引退の宣言ほど近年世情を騒がしたものはない。しかも探偵になるというのだから世間は首をひねったものだ。
どうせ裏から財界を支配するためのかくれみのに過ぎないと揶揄された探偵業だが、しかしその後の犯罪界への大胆な挑戦と輝かしい戦果とが世間の目を変えた。人々はついに江奈氏の決意を真実のものと認めたのである。だが彼は一体どこでその探偵の素養を体得したのか。わが社が独自に調査したところによると』いたいっ、ムクゲちゃん! 腕をつねらないでください!」
「あー、もういいよ。やっぱ自慢話じゃん! なあアヤメ! オレたちは今こんなことしてる場合なのか?」
「あっ、そ、そうでしたわ」
「ね、マクラ!」
「そうそう。過去の栄光より現在の人助けでしょう、江奈探偵?」
ふう、やはり逃げ切れなかったかと江奈はため息をつく。
「ねえ、あの子をもう一度ちゃんと見てあげてよぉ。身元とか調べなくていいのかよぉ。あ、そうか。女体じゃないから興味ないんだ? やっぱエロおやじ」
「ちがうよ! わかったわかったムクゲちゃん」
俺の腕に爪をたてて引っ張るな。ちゃんと爪を切っておけよムクゲちゃん、と言いかけて江奈はハッとした。もう一本の腕のほうも引っ張られているのだ。
(おお? アヤメまでが俺の手を引っ張るとは。ほんとにめずらしいな。フフ、困ったものだ)
アヤメとムクゲに手を引かれマクラに背中を押された江奈はペルシャ絨毯を敷きつめた廊下を小走りにせかされ、隣の部屋に入った。
さきほどの居間より小さいとはいえ、それでもけっこうな広さのあるスペースのほぼ中央に大きな天蓋つきのベッドがある。その中で少年がひとり寝息をたてていた。
三人の少女はパラパラとベッドの周りに散ると少年の寝顔に見入った。
「おじさま、いかがでしょうか」
「彼かい? ふうん、よく眠ってるなあ。こんなにぐっすりと寝ているのを見たのは初めてだよ」
「え? あの、おじさま。もしかしてこの方をご存知なのですか?」
「まあね」
「やっぱ知ってんのか! こーのタヌキおやじ。どおりで落ち着きすぎだと思った。翼もないのにまるで調べようともしないなんてさあ、変だとわかってたんだ。さあ、知ってることを洗いざらいゲロしちゃえよ!」
「ムクゲちゃんやめなよ、ゲロだなんて」
「別に隠してなんかいないさ。僕だって彼を探してたんだよ。帰宅してみたら彼の姿がないけど、なにせ部屋数の多い家だろう? 在宅なのか外出なのか判断が遅れてね」
「部屋を五十五も造るからだろ! デカすぎなんだよ、このお屋敷」
「七十七室プラス地下礼拝堂」
「ぴゅー(ムクゲちゃんの口笛)」
「実はちょっとあせっていたんだ。この時間には部屋にいてくれる予定だったのに気配もないときてる。でも君たちが見つけてくれてよかったよ。こんなこともあるんだね」
「おじさま。いつからこの方とお知り合いでしたの?」
「いつからと言われてもひとくちで説明するのはちょっとむつかしいな。学校で直接きいてみればいいじゃないか。どうせ明日から君らは深い知り合いになるんだし」
「学校で? 深い知り合い? 明日から? なに言ってんのさ」
「あれ、ムクゲちゃん、先生から聞いてないのかい? 彼は明日から君たちのクラスの先生だよ」
「えええーッ!」
(ハハハ、三人そろってとびあがったか。さすがにあわてているな)
江奈は心の中で笑顔をつくる。
(高一のくせして俺のことをエロおやじだ、変態だといつもぞんざいに扱いおって、この三人娘めが。どうだ、少しは驚いたか。演出成功だな。体をプルプルふるわせおって。まったくこいつら体の発育だけはいいんだから。フフ、困ったもんだ)
「お、おじさま! ああ、いけないわ。考えを整理しなくては。このままではパニックですわ。そうです! だから、おじさま、この方はいったい誰なんです」
「まあ座んなさい。話せば長いし、あまり騒ぐと彼が目をさますし。コーヒーでよかったら入れてあげるよ。みんな、一杯どう?」
「あら、この音は?」
「インタホン?」
三人の少女はインタホンの画面にとびついたが江奈はこの二階の窓から直接門のほうをうかがった。夜間に何十メートルも離れた場所を。
(こんな時刻にくる連中といえば……ふーん、やはり警察のようだな。どうも知らない顔ばかりだが)
「はい、どちらさま?」
「夜分にどうも。わたくし警察庁テロ対策室室長補佐の加賀谷夏海審理官と申します。こちらは警視庁捜査一課の大田原警部です。大切なお話が」
「あすにしてもらえませんか。家人もおりませんし、今日は疲れて」
「そちらに女子三名ならびに他一名がいらっしゃることも承知しております」
江奈の眉間のしわがほんの少し深くなった。
(なるほど、アヤメの携帯を盗聴したな。それとも俺の方を?)
「おはいんなさい。玄関まで着いたら階段を上がって左のつきあたりです。勝手に進んで結構ですから」
「おじさま、どういうことでしょう?」
「心配しなくてもいいよ。何者か知らんが狙いはそっちの坊やにきまってる。君たちじゃない。それに令状をもっているわけでもなさそうだ」
「だからぁ、この子誰なんだよ。早いとこオレたちに教えてよ。だいいちこの子、なんで翼がないんだ? 普通じゃないだろ、大事件じゃないか」
「ムクゲちゃん、後で話そう。あいつらもう階段を駆けあがっている。どうやらお茶を飲みに来たわけでもなさそうだよ」
「失礼する!」
ドアはもっと静かに開けろ! と江奈は怒鳴りかけた。
(まったく無粋な男だ。この子たちが怖がっているじゃないか。女の子をこういうぐあいに脅かすのは俺の好みじゃないんだ)
「あ、こやつです。いました審理官! こんなとこに寝ております。間違いありません」
江奈たちに見向きもせずベッドまで駆け寄ったひとりの刑事が声高に言った。熱帯夜の脂汗にまみれた白のワイシャツを第二ボタンまではだけて、薄汚れた上着を乱暴に近くの椅子に投げかけた三十がらみのこの男は、いかにも現場の刑事でございますという空気をまわりに押し付けていた。
「お客さんならそれ相応の作法をわきまえてくださいよ。あなたがたはお客さん、そしてここの主人はこの僕」
「む、じゃまする気か」
刑事がようやく江奈に向き直った。
「おやめなさい大田原くん」
女は刑事より背が高かった。
たっぷり腰まである赤い髪の毛、浅黒い肌、大きく輝く瞳、きつい角度の細いフレームのメガネを内側から持ち上げてしまいそうなほど長いまつげ、肉感的な唇にひかれた濃いルージュ、あまりにスタイルが良すぎてまるでミツバチを連想させてしまうくびれたウエスト、めりはりのあるボディをさらに強調するぴっちりと体に密着した水色のビジネススーツ、胸元を大きく開けた白いブラウス、短めのスカートから流れ出る日本人ばなれした長い足の先には威圧的な高いヒール。
だがそれよりも目を引くのはその華麗な翼だ。
まず色がまるで違う。普通の黒っぽいものと違いきれいに透けていて骨組みのところあたりがうっすらとピンクがかっている。これがなんだかフワフワとした羽毛でできている印象を与えている。
次にその大きさ。女性にはほんとにめずらしい超大型の翼だ。アヤメなどは自分の叔父を除けばこれより大きい翼など見たこともなかった。これに比べたら隣に立つ刑事の翼など強風でおしゃかになったコウモリ傘同様のみじめさだ。
誰がどう見てもこれは自分に自信たっぷりのタイプだ。
三人の少女は気後れし、ムクゲまでが道をあけてしまった。
「この人、おたくの上層部にお友達が多いんでしょ。どうも失礼しました江奈さん。加賀谷です」
思いっきり艶っぽい笑顔を女は江奈に向けた。
「ファング?」
江奈のこの一言に女は固い姿勢をとった。
(む、この女、顔色をかえたな。ではやはりこの女があの有名な「牙」なのか。もっとバアさんかと思っていたのに、結構イケるな。燃えるような赤毛でスラリとしたモデル体形、まだ三十前ってとこか)
「令状をお持ちでないお客様はどうぞ客間のほうへ。ここは僕の寝室なもので」
三人の少女をかばいつつ江奈は二人連れの警察官をじりじりとドアのほうへ押し出そうとしている。
(あの牙が出てくるとは、坊やめ、何をしでかしてくれたのかな。こいつは初手からつまずいたか)
江奈はちょっと考え込んだがすぐに唇の端をクイと上げた。
(フフ、まあいい、いつものことさ。どうせ俺はいつも出遅れる。だが挽回がきかない勝負はないのだからな)
「なにが客間か! そいつは元総理の傷害犯だぞ。早く引き渡しなさい!」
汗まみれの刑事が必要以上に吠える。
「たしか盗聴はまだ違法捜査でしたよねぇ」
男の刑事は歯をむきだして黙ってしまった。
(おやおや、そんなに身構えるとは。わかりやすい男だな)
「いや、そんなに固くならなくもいいんですよ。あちらでゆっくりコーヒーでも。さ、どうぞ」
自分の背広を椅子からひったくると刑事はブツブツ言いながらドアに向かった。女のほうも江奈に一瞥をくれるとやはり廊下へ出て行った。
「おじさま………」
やっと息をついたアヤメがおろおろとすがるように言う。
だが江奈がアヤメに向ける視線には信頼の光がともっていた。
(アヤメ、俺は知っているよ。おまえはこんな時こそいつだってしっかりやってくれる。そうだね?)
江奈はアヤメの肩に手をかける。
「坊やをたのむぞ、アヤメ。もしも目をさましたらすぐ僕に知らせるんだ。君らもさっき海岸で感じたようにその眠り方は通常のものではない。だから彼が欲しがっても水や食べ物を与えてはいけない。みんなもいいね。すぐに僕を呼ぶんだ」
そして江奈は心の中で少女たちに強くこう呼びかけた。
(そうだ、すぐに俺を呼ぶんだぞ。
余計なことを坊やが話す前に!)
♯ 3
牙とおそれられているわたしを見てニコリと微笑みをかえしてくる男どもはたいていが虚勢をはるカッコつけよ。
居間のドアをあける江奈のにこやかな顔を見てファングことナツミはそうひとりごちた。
(だが……この江奈という男の笑顔はどこかちがうな。なんと言うか、どこかゾッとするものがあるわ)
ナツミは思い出していた。
(変だな、なぜ今そんなこと思ったのかしら。さっきテロ対策室でもわたしのボスは言ってたじゃない。彼は江奈財閥のカネとチカラをたてした探偵道楽にすぎないって)
ナツミはピンクのファッショングラス越しにもう一度じっくりと江奈を吟味した。
(ダークスーツの襟元に紫のスカーフか、やだ金持ちっぽい。え、右袖はカフスで左はプラチナのブレスレット? あ、ベストのポケットに金の鎖たらしてる。じゃ懐中時計? 靴もいかにもイタリアものね。なんだ、耳にピアスの穴もある。プッ、大きい耳たぶ)
成金趣味と判定したナツミは安堵のような軽蔑のような笑みをもらした。
(にやけたセンス。ああ、やだやだ。こんなポマード男にどうしてさっき不安なんて感じちゃったのかしら。イヤな感じ)
イヤなことの連想でナツミはつい先週のイヤなことを思い出してしまった。先週の昇進試験で採点ミスをされたおかげで話がこじれている最中なのだ。
(そうよ、あれは絶対に試験官のミスなんだから! いずれにしてもこんな所で無用なミスをしてわたしのキャリアに傷をつけることはない。ここは慎重にいくとするか)
ナツミは再び笑顔モードに戻った。
「大田原さん。やはりわたしから説明します」
「え? しかしこのヤマはオレが」
「警部! 資料一式をすみやかにテーブルの上に!」
「は? ははっ!」
(少年の迅速なる確保が第一。でないとあの番組に間に合わない。まあ、令状がないんだから江奈が十分に納得する程度の説明はしなくちゃね。ああ、せっかく今日はあのテレビを生で見ようと思ってたのにギリギリになっちゃう)
今夜のナツミはまったく本腰を入れていなかった。元総理が関わる案件だからというだけのいい加減な理由でテロ対策室に協力要請のきた「他人のヤマ」だったからだ。初動捜査に参加できなくては意味がないのだ。
(まったくなんだってこんなヤツに犯人が拾われたのかしらね。手間ばっかりかかるじゃないの。あれ? ビデオ予約してあったかな。いけね、もう!)
やる気のないナツミは出動などせず対策室のセンターにどんと居座って電話会社の通話をロボット検索モニターしていただけだったのだが、ありがた迷惑の「ビンゴ」でここまで足を運ぶはめになったのだ。
「警察の内情にお詳しい江奈さんならもう事件のことはご存知かと思いますが」
江奈の実力を推し量る威嚇偵察の意地悪さをこめてナツミは言った。
「いえ全然。事件なんですか?」
「ご謙遜はほどほどに願えますか。夜もふけました。時間節約でまいりたいので」
「あの、ほんとに何も知らないんですよ。あの少年が何かしたのですか?」
フッ、とナツミがうつむき加減になりピンクフレームの眼鏡を中指で押し上げる。
(やはり事件への関与は希薄かな。じゃ余裕で間に合いそうね、今夜の番組)
「今日の午後に中田元総理が自宅で襲撃され負傷したのです」
江奈の右の細い眉毛が一瞬はねあがるのを見たナツミは、江奈が事件と無関係なのを確信した。
「彼がそれをしたと?」
江奈は素直な驚きを声にこめて聞き返した。
「そうだ! おれの目の前でな!」
吠える大田原のズボンを乱暴に引っ張ってソファに沈めると、ナツミは資料を見るふりをして携帯で時刻を確かめてから江奈に言った。
「ではかいつまんでご説明いたします」
江奈は合わせた両手を口のところに持っていき、やや前のめりで謹聴の構えをとる。
これを見たナツミはやや勝ち誇ったような笑みを浮かべて話し始めた。
「今日の正午ちかくに銀座の時計台の真下にミイラ化した死体が三つ転がったのです。明らかに何かしらの挑発的犯行であり、犠牲者のひとりが中田元総理の秘書だったため警視庁は特別捜査本部をもうけ中田邸へ急行しました。こちらの大田原警部もです」
大田原刑事はなぜか歯をぎゅっとくいしばり床をにらんだまま怒りの表情をあらわにした。
「当然でしょうが中田元総理はたいへんお怒りのご様子だったそうです」
ナツミは冷ややかな横目視線を飛ばし今度は大田原を笑った。大田原から聞いた中田邸の様子が生々しく思い出されたからだ。
開口一番、中田元総理は大田原たちにカミナリを落としたそうだ。
「ばっかもーん!」
そう怒鳴られたのは捜査陣全員だったのだが、
「す、すみません。し、しかしおまかせください。すぐに犯人検挙を」
と大田原がフォローしてしまったものだから、それ以後は大田原にカミナリが集中したのだ。
怒り狂った中田元総理に捜査陣が呼びつけられたのは午後一時だった。
「警部! どういうことだ! どうしてワシの秘書が干物にされた!」
九十歳と老いたとはいえ白い眉毛の下で獰猛な人食い熊のように目をぎろつかせる中田のけんまくに捜査陣はただうろたえる。
「変質者のしわざなのか、警部! 無差別通り魔殺人の犠牲になったのか、それとも何だ? 世間のバカな連中はカニバリズムの復活だなどと騒いでおるそうじゃな。それとも、まさか本当にそうなのか?」
「いえ、とんでもございません閣下!」
この平成のご時世に閣下はないだろう? と他の捜査陣は大田原警部のこの返答にはさすがに苦笑したが、今でも政財界を牛耳るキングにはそれだけの風格はあった。
「閣下! それにただの変態犯罪者の犯行というわけでもありませんので」
「ふん、どうしてそう言い切れる?」
一息つきたくなったのか、ガウン姿で本皮張りの椅子に深々と座った中田元総理は太った右手を宙に遊ばせ、かしこまった翼を卑屈にたたんでいる男性秘書に葉巻の催促をした。
「で? 何か根拠があるのか」
葉巻の煙がもろに大田原警部の顔に吹きつけられる。
「ウエッ、ごほっ。じ、実は犯行声明がネットに出ておりまして」
「では誰なんだ、いったい?」
「それが……サピエスです」
「何だと! あの家畜が? サピエスとはウシのことだぞ? いいかげんなことを言うな!」
中田元総理は立ち上がる反動をすべて椅子にぶつけたのでキャスター付きの本皮椅子は後ろの壁まですっ飛んでいった。ガタン、と音を立てて自分の肖像画が壁から落ちかける。
さっきまでだらしなく床にたれさがっていたシワだらけの翼が怒髪天を衝く勢いで上へ広がった。中田はたるみきったほおの皮をブルドックのように波うたせながら大田原警部の胸倉をつかむ。ただでさえ静脈が目だった老人の手の甲で血管が最大限に膨張する。
「ひい。ネ、ネットにはそう出ておりますので」
「警部! 君のいすを狙っている後任希望者がだな、いったいどれほどいるのか知っておるかね。わしの前では言葉を選びたまえ。サピエスなんて家畜のウシがだよ、人間の血を吸い取って真っ昼間の盛り場に転がすと思うかね」
「獣はおまえたちで我々の方が人間だ」
「な、なんじゃと! バカもん!」
「す、すみません閣下。ネットの犯行声明にそう書いてあるんです。ほかにも長々とばかげたことを書き連ねていまして。そうだ、ハードコピーを用意してありますがお読みになりますか」
ようやく椅子に戻った怒れる老ブルドックは眼鏡担当の秘書を指で呼んだ。
「警部かしてみろ。はっ、何だこのたわごとは。昔は自分たちにも文明があっただと? 家畜の文明か、泣かせる声明だな。これではっきりした。明らかに愉快犯だ。でなきゃわしの大牧場の乗っ取りをたくらんどる連中のしわざだ。どっちでもいい、早く捕まえろ」
そこへ突然に開くドアの音。
入り口には男がひとり立っている。
それを見て大田原警部はびっくりした。そこに立つのはよわよわしそうな少年だったから。
「子ども? 中学生か? これこれ、こんなとこへ入ってきちゃいかんぞ。ほれ警部、その子を外へ出してやりなさい。何しとるんじゃ、早くせんか」
孫のことでも思い出したのか、意外とやさしい調子で中田は少年をさとした。
しかし捜査陣はそれどころではない。警察関係者の間でも有名な中田邸の強固きわまりないセキュリティーシステムを突破してきた不審人物なのである。
警官たちは気色だった。
中学か高校くらいの男の子を本気の警官たちが険しい表情で取り囲んだ。
と思ったら、どういうわけか大田原警部を含むその全員が何か弾き飛ばされたみたいにいっせいに後退した。中にはしりもちをついてころぶ者まである。そしてそのままやたらに手足や首筋をさすっている。まるで火の粉を浴びて懸命に払いのけているか、あるいは猛烈なじんましんが出たみたいな光景だ。
このすきに少年は元総理の老人に歩み寄っていた。
「外に出て行きなさい。これ、聞こえんのか」
さすがに大物というべきか、中田は落ち着いたものだった。
ところが少年がポケットから何か出したとたん、中田は恐怖の色を浮かべた。
「ヒッ! じゅ、十字架! おまえの首に十字架がかかっとる! ど、どうして……」
少年は口を開く。
「これでわかったか。ボクこそ人間だ。ボクこそ本当のカトリック信者だ」
大田原警部が床にはいつくばったまま後ろから叫ぶ。
「あっ、こいつ翼がありません。家畜です! サピエスだ!」
「撃ち殺せ! 早く撃ち殺さんか、警部!」
「それが、お屋敷に入る前のボディチェックで武器はすべてお宅にお預けしまして」
この場にそぐわない間の抜けた調子で大田原がこたえる。
それをみすかしたように、少年はゆっくりと自分の首から十字架をはずして元総理の額に押しつけた。
「ぎゃあああ!」
元総理はおでこをおさえて床に倒れ七転八倒している。
かすかに肉の焦げる匂いが部屋にたちこめ、見ると老人のおでこから煙のようなものがあがっていた。
冷ややかな目でそれを見おろしながら少年は言う。
「キリスト様の十字架に怯える信者なんてあるものか。この吸血鬼め!」
やっと立ち上がった警官たちにも腕高く十字架をふりかざす少年。
近づけない警官隊を尻目に少年はそのまま部屋の外へ。
部屋から十字架が消えたとたんに警官たちがドアに殺到すると、今度はいきなり大きな十字架がドアの向こうから突き出された。
先ほどの小さな十字架ですらてこずったのにこれではたまらない。警官隊は叫び声をあげ顔を手でおおいながら次々と倒れ、床にのたうちまった。
その十字架の陰から顔を出した少年が言う。
「吸血鬼どもめ、ざまあみろ。次は東京タワーだ。まってろよ」
ようやく立ち上がった元総理がブヨブヨの足で大田原警部を蹴とばしながら怒鳴る。
「警部、しっかりせんか。あれはうちの礼拝堂に安置してある大切な時代物の十字架だぞ。どうやってあの小僧がこれを持ち出したんだ。おい、逃げていくじゃないか。早く追え! いつまで寝そべっているんだ、おまえたち! 早く起きろ、こいつ。えい!」
「いてえっ!」
大田原は昼間の痛みを思い出してわき腹を押さえながら、ついこう言ってしまった。それを正面からまともに江奈に見られているのに気づいて、恥ずかしさと怒りでまた顔を赤くした。
「以上です。わたしは現場にいなかったのですが、大田原警部、目撃者としてこの説明を正しいと承認しますか」
ナツミはこう言いながら携帯で時間を確かめた。
「ああ、認めますよ。いてて、くそっ!」
ナツミは傍らの男をにらみつけた。
(何なのよ、大田原警部のこのふるまいは? 自分の体面だけを気にして部外者の前で必要以上に威嚇したり落胆したりする小心者。なぜ私がこのような男と行動しなければならないのよ。テロ対策室の受付嬢だってこの男よりは頼もしいわ)
「このケースになぜ加賀谷さんが?」
江奈のこの言葉にナツミはドキリとした。
意外で、しかも核心をつく質問だったからだ。
(なによ、どうして「証拠はあるんですか」とかうろたえた質問をしないのよ。なんでわたしのことなのよ)
「事件の性格と直接の被害者である元総理の要請により特別捜査班の人員はおもに対テロリズム・ユニットから集められましたので」
「しかし、JCTU(ジャパン・カウンター・テロリズム・ユニット)の『牙』といえば最終兵器と聞いていますよ」
「部内でも何人かが私のことをそのようなばかげた名前で呼んでいることは承知しています。しかし私がそれを歓迎していると思われたら大間違いです」
やおら江奈は立ち上がると、いきなり膝を折ってナツミの前にかがんだ。
ナツミは面食らった。
(まあ、なに! この男ったら、こんなことして。これって謝罪の仕草かしら? 中世ヨーロッパの騎士きどりね。芝居がかってるわ)
そう思いつつも初めて自分のほほが自然とゆるんでくるのをナツミは感じていた。
(でもなかなかサマになってるな、このヒト。それにこの大きな翼はどう? まるで古代ギリシャ彫刻の軍神マルスじゃない。それともルネサンスの画家たちが描く大天使の羽根ってとこかしら。どっちにしてもこの翼なら十分に中世の騎士として映画に出演できるわ。どうして俳優にならなかったのかしら、このヒト?)
ナツミは資料ファイルを閉じた。
「どうぞ席におもどりになってください。今回は単にプロファイリング専門家としての参加です。テロ対策室でこの専門家は私一人ですので」
ここでナツミは、はっとした。
(あれ? なんでわたしったらペラペラ余計なことしゃべってるんだろ。いけない。いつの間にかペースを乱されている?)
ソファに戻った江奈の物腰はあくまで柔らかい。ナツミは最初この男の笑顔を見たときのイヤな感じを思い起こした。
(やっぱりこいつの紳士ヅラは仮面だぞ。警戒態勢に入れよ、ナツミ)
「さっきみなさんが寝室でご覧になった彼はもちろんサピエスです」
(ええ? なによなによ、いきなりそっちから。わたしまだ何も尋問してないでしょうに。それにこんなにあっさり認めてしまうなんて……これは手ごわい)
「それみろ! やっと白状したな! 観念したならさっさとあいつを引き渡せ!」
黙りこんだナツミのかわりに大田原がとびだした。
「白状って何がです? 確かに彼は話すサピエスだが、これはすべて公開された情報じゃないですか」
「なにおう?」
「最近では世間もみんな忘れてしまったらしいが、彼が発見された当時はちょっとしたセンセーションだったでしょう。覚えていませんか? そして彼の身柄を引きとったのがこの僕だっていうこともかなり騒がれたものですよ」
「そんなこと覚えとらん!」
「いやはや人間の忘却力というのは凄まじいものですねぇ」
「なにをくだらんことをうだうだと!」
「まって警部。確かにそんなことがあったわ」
大田原が大失策をしでかす前にナツミは止めに入った。
「ほらね警部。世の中にはどんなささいなことの経緯でもそれを体系立てて頭に残していく人もいるんです。だから加賀谷さんは最初から僕に狙いをつけて電話を盗聴していたんでしょ?」
「はあ、なんのことやら」
(チッ、まずい受け答えをしてしまった。ナツミのアホ!)
ナツミは自分の口をのろい思わず目をつぶり唇をかんだ。
(これじゃ認めたも同じじゃないの。新人研修の時だってこんなミスを犯したことはないのに)
ナツミはこっそり目をあけて江奈を見た。
(あら、ニコリともしていないな。わたしみたいなプロからこんな一本をとったら誰だって普通ニヤリとしてみせて勝利感を味わうものだが。それともこれくらいのこと日常茶飯事ってか?)
自分の相手の大きさがわかってきたナツミの額にうっすらと汗が浮かぶ。
「カン違いされてはこちらも困りますのではっきりしておきますが、僕は常に警察に協力的ですよ。警察は僕のパートナーと言ってもいい。で、彼の嫌疑は何です?」
「きまっとる。三名の殺害容疑ならびに中田元総理の傷害現行犯だろうが」
これはまずい応答だ、とナツミは思ったが大田原はすでに沸騰点を越えていた。
(いくら目撃者といってもこの男を連れてきたのは痛い失敗だったなあ。この貧弱な翼をみればこの男が使いものにならないということくらいすぐにわかったはずなのに。近ごろの男たちの翼ときたら私の半分もありゃしないんだからイヤになるわ)
次の手を考えあぐねているナツミは、彼女にはめずらしくぐずぐずとぐちっていた。
「ぐずぐずしている暇はないんだ! 犯行声明からしても東京をターゲットにした大規模テロが実行される可能性はきわめて高いんだぞ。早くあの若造をあげてイモづる式に組織をたたかんとえらいことになる。そんなこともわからんのかね」
大田原は力で江奈をねじふせようと必死だ。
「でも彼は殺人などしてませんよ」
「なんだと!」
「僕は今日ある人と昼食を共にしたのですが彼も一緒だったんです」
「立証できるのか。どこのどいつと昼メシを食ったというんだ」
「警視総監と」
「うっ?」
「おとといちょっとしたヤマにケリがついたんでおたくの里見警視総監がご馳走してくれたんですよ。警部、これは事実です。その席で里見総監から新しい相談ごとを一つ受けたのですが、その見返りに僕も総監からある許可をもらったんです。つまり彼のことでね。彼もそろそろ就職させたいと計画したので里見総監にその相談をしたってわけです」
(警視総監のカードを切ってくるなんて)
ナツミは江奈のことをはっきり対等の相手だと認識した。
大田原をソファに押さえつけるとナツミは立ち上がった。
「さしつかえなければ警視総監からの相談ごとの内容をわたしに教えてもらえませんか」
「いいですよ。例の人工衛星の件です」
座ったまま江奈は答える。あくまで世間話の気さくな態度で。
「衛星? ああ、老朽化してほどなく大気圏に突入してきそうだというあの人工衛星のこと? 変だわ。そんなことをなぜ警察が?」
「まあそれ以上は僕の口からはちょっと。なんなら総監に直接問い合わせてくれませんか」
(ふん、甘く見ないで。警視総監のスケジュールなら私の携帯から直接アクセスできるのよ)
もはや隠すこともなくナツミは携帯を取り出してこれ見よがしに操作した。
(そら出た。うん? 今日の正午は本庁にて連絡会議となってるわ。じゃあ江奈がウソをついてる? いや、それはありえない。こんなすぐにばれるようなウソなど問題外よね。だとすると)
ナツミの顔色が変わった。
(だとすると情報がブロックされているっていうの? つまり身内よりも江奈との関係を警視総監は優先させているってこと? まさか、そんな)
携帯を握るナツミの手のひらが汗ばんでいく。
(それに人工衛星ってなによ。私のボスは公安情報のすべてにアクセスできるし、重要案件はみんな私にも伝わることになっているのに………
何かおかしい。何か重大な情報が欠落している。この男と総監が知っていて私が知らない事実。
まさかわたしの知らないところで知らないゲームが進んでいる? わたしはそのゲームの渦中にいるのにルールさえわからない。このヒトはそんなに大物なの? 身分はあくまで民間人のはずでしょ? 総監はこいつに何を相談した?)
「総監の相談はごく私的なことなんですよ。そんなに気にすることありませんよ」
びっくりしたナツミは携帯を落としそうになった。
(え? 江奈は今なんと言った? 私の心が読まれている?
いやだ、私ったら動揺を顔にだしたのかしら? いや、そんなはずはない。
ああ、なんだかこの状況では時間が経つほどこちらが不利になる。令状なしでなんとかあの少年の身柄を確保する口実をたたき出さなくては。それも今すぐに!)
そのときナツミは江奈があくびをかみ殺しているのを見た。
(いや待って、あせるなナツミ。こいつはそれを待っているのじゃなくて? もしも我々に無理矢理あの子を連行させることが江奈の狙いだとしたら?
そうか、待ち伏せか!
連行途中で奪還でもされて彼を隠されたら、それこそここへは二度と踏み込めなくなってしまう。江奈に絶好の口実を与えてしまう。
しまった。外には通常の囚人護送車しか用意してきていない。こんなことなら軍の装甲車両で来るべきだった。甘くみていたわ)
穴があくほどの目つきでさっきから江奈をにらみつけていることにナツミは自分で気づいていなかった。その視線の燃えるような激しさは隣の大田原さえびびらせて席に釘付けにするほどだったのに。
「すみませんナツミさん、この部屋は冷房きいてませんか? たしかに蒸し暑い夜ですね。そうだ、冷たいの一杯いかがです。わが家の特製でね、レッドキャッスルの八〇年物を開けますよ、ナツミさん」
(冷房がどうしたって? あっ)
汗があごからしたたるほどになっていることにナツミはやっと気がついた。
(う、いつのまにわたしこんなに汗をかいたのかしら? 顔中べったりじゃないの)
「汗っかきなんです、どうぞおかまいなく」
(きゃあ、『汗っかき』ってなによ、ナツミ! 最低の返答だわ。せめて『多汗症』ぐらい言えなかったのかしら)
ナツミはジタバタした。
(ちょ、ちょっとまって、今このヒトったら私のことナツミって名前で呼んだ? 何なのこの押しの強さは?
うー、息苦しい。まるで尋問されてるみたいに息がつまってきた。こんなことではいつわたしが江奈の都合のよい駒にされてしまうかわからないわ。こんな得体の知れないゲームからは早く離脱しなくては)
最後の決断力だけはまだナツミに残っていた。
「帰ります。ただし……」
「信用してくれてありがとう、ナツミさん。もちろんあの子は僕が責任を持って面倒をみます。町から出したりしません。あなたたちがいつでも身柄をおさえられるようにね」
「くっ」
ナツミはすぐにでも反撃に出たい衝動にかられたがなんとか思いとどまった。
(この際あの少年のことは後回しだ。これ以上へたに動けない。想定不能の事態に包囲されているような気分がする。
う、めまいがした? なんて恐ろしい所なの、ここは。ここまで私を追いつめる男がいようとは。この牙を!)
「夜分に失礼しました」
ナツミの鋭い敬礼に江奈はにこやかな会釈を返す。
玄関へ着くのを待たず階段の途中でナツミはブラウスのボタンを次々とはずした。横で目のやり場に困っている大田原のことなどもう存在すら忘れていた。
(やってられるか! ああ、のどが渇いてしかたがない。こんなところ早く出て新鮮なアレを一杯やりたい。レッドキャッスルなどという高級ブランド品でなくていい。今の私にはコンビニで売ってるレギュラー血液で十分よ。早く真っ赤な血をゴクゴクと思い切り飲みほしたい!)
ヒステリックにきしむ囚人護送車のタイヤの音が江奈邸に茂る深夜の木々に吸い込まれていった。
#4
福岡ドームの開閉式屋根のように少しずつ開いていく空間から誰かが自分をのぞきこんでいる。いったい誰だろう、と柴咲アカリはぼんやりと考えた。
「ああ、吸血鬼の少女たちだな……」
なんとなくアカリはそう思った。
亜麻色の長い髪をゆったりとカールさせて少し眠たげな瞳で心配そうにボクを見つめている子、クリーム色のショートヘアーを指でせわしなくつまみながらくるくる変わる子猫の目で好奇心たっぷりにボクをながめる子、セミロングの緑色の髪を頬にたらして口笛でも吹きそうに口をつぼめて大きく目を見開いた子……
寝ぼけながらもしっかりと観察を続けるアカリ。
(ンなバカな! 三人ともすっげえかわいい子じゃん! よく目を覚ませよ、アカリ。こんなロリフェイスをちょこんとナイスバディにのっけた美少女たちが吸血鬼なわけないでしょ?)
吸血鬼という現実離れした考えがアカリの頭からどんどん遠のいていく。
(だいたい吸血鬼ってなんのことさ? そんなのホラー映画だけのお話でしょ。おまけにこんな美少女がてんこ盛りで枕元にはべってるなんて、ふう、ありえねえ。もうやんなっちゃうぜ、ボクまだ寝ぼけてんだな)
アカリはまた目を閉じた。
(いっそのこともう一度ちゃんと寝ちまうか。どうせすぐにママが起こしに来るだろうし)
部活の朝練もだるいな、そうだ、さぼっちゃおうとアカリは決めた。
しかしさぼるにはひとつ問題があるなあ、とアカリは気づく。クラスの池田君から本を借りっぱなしで今日こそ返すと約束してあったのだ。そうしないと今度こそあいつマジギレるし。
いや、それだけじゃない。河合さんにもあやまらなければならなかった。なにしろ彼女のたて笛を間違えて持って帰ってしまったのだ。
(河合さん怒ってんだろうな。きっとボクが河合さんの笛に変なコトしたとかなんとかみんなの前で言うんだろうなぁ。返してあやまる場所はよく考えんとクラスのヘンタイ殿堂入り確定だぞ。くそっ、なんで間違えるかなあ。
あ、思い出した! 山本のアホのせいなんだ。そうだったそうだった。
あいつがボクの目の前にケータイを押しつけて「ほれ柴咲、新しい萌えゲーム見つけてやったぞ。アカリだなんて女の子みたいな名前のやつはこういうので修行して男を磨かにゃイカンのだ。ほらこのイラスト正視しろ」なんて言ってボクを追っかけてる時に女子が教室に戻ってきたのでパニクッて笛をまちがえちゃったんじゃないか。
ああ、月曜日っていやだなあ。あれ? そんなわけないや、火曜日だっけ? え、金曜日か? おっと、今日の宿題はもうやったっけ。まずい、やった覚えねえや。あ、でも何の宿題が出たんだっけ。いや、ほんとにきょう学校へいく日だったかな……ママ、遅いな……これじゃ……ちこ、く……)
再びぼんやりと霧がかかってきた自分の頭を抱えこむようにしてアカリは寝返りをうった。
「ねえアヤメ、この子いま目を覚ましたよね? また目つぶっちゃったけど」
え? この声は? アカリの耳はぴくっと反応した。
「ええ、そうですわ。すぐにおじさまをお呼びしなければ」
女の子の声? アカリの耳がぴくぴくぴくっ。
「待った待った! アヤメったら従順すぎッ。まだ呼ばなくてもいいじゃん。な、マクラ?」
アヤメ? マクラ? アカリは目を開けようかどうしようか思案に入った。
「そうねえ、ムクゲちゃんに味方するわけじゃないけど、もう少し様子見た方がいいんじゃない?」
ムクゲちゃん? なんて変な名前なんだ、どんな顔なんだ? ひくひくとアカリのまぶたが起動し始める。
「そうなんですか? お二人がそうおっしゃるなら……でも、起きたら興奮なさるかもしれないっておじさまがいってたでしょう?」
「だからぁ、オレたちでさぁ、興奮を抑えてさぁ。でもってじっくりねっちり落ち着かせてあげなきゃ」
じっくりねっちり? いきなりアカリの汗腺が活発化する。それまで自分をさえぎっていたモヤが徐々に晴れてくるようだった。
アカリの頭脳はようやく現実モードに入ろうとしていた。
「ムクゲちゃんの方が興奮してるよ。わ、いやーねぇ、ヨダレたらさないでよ」
「だってさ、ちょっとばっかしかわいい子じゃん。こんな子がオレたちの先生になるなんて考えただけでオレもう……ひひ」
アカリはやっと目が覚めた。
(よ、よだれをたらすとは、こいつらボクの血をすう気だな! ボクは寝ぼけてなんかいなかったんだな。吸血鬼どもの世界。ちくしょう、こっちの方が現実か!)
「そうはさせるか、吸血鬼め!」
こんなシーツはじゃまだ。それっ!と、アカリは相手にぶつけるつもりで勢いよく掛け布団をはねのけた。
「きゃあ!」
「いやあ!」
「うひょお☆」
(なんだ、こいつら。両手で顔を覆ってしゃがみ込んだりして。吸血鬼のくせに弱虫だな)
強がりながらもアカリはほっと一息ついていた。どうやら自分の身は守れたようなので。
「ふん、いくら隠してもダメだぞ吸血鬼どもめ。お前らの背中のふくらみはちゃんとお見通しだ。そこに悪魔の翼が生えてるんだろ、へん!」
アカリはベッドの上に仁王立ちになり胸をはった。
(あれ、あのショートヘアーだけやけにジロジロとこっちを見てるな。何だい、顔を真っ赤にして。いったいどこ見てんだ……)
と自分の下半身に目をやったとき今度こそほんとうにアカリは目が覚めた。
(ぎゃっ、ボ、ボク、パンツはいてない?)
あまりの恥ずかしさに逆上したアカリの大声が響く。
「いやあー、エッチー! 見るなあー!」
アカリは絞ったタオルみたいに体をよじる。この年頃のわりにはきゃしゃな体だが、中学時代の三年間テニスで鍛えた右腕だけには筋肉が浮かび上がる。
長髪というほどではないが短いとも言えない髪が赤く染まったほおとギュッとつぶった目のあたりにフワリとかかる。
口はわりと小さく、ちょっぴりとんがったあごへ流れるほおのラインは海岸でアヤメにもほめられたとおりクラスの女子の間ではけっこう評判(本人は知らない)だった。
涙目にしながらもやっと開いた瞳はどこかしらネコのまなざしを思わせる。
急いでシーツをつかんだ手を、指が長くて女の人の手のようにきれいだなあとアヤメは感じて見つめていた。そのシーツにかくれてどんな足(と下半身)かはわからない。
服装はといえば……今現在ナッシング。
アカリは混乱しまくった。
(なんでまっぱだかなんだよ、ボク。こいつら吸血鬼のうえにサディスト? 血を吸う前にボクの服を脱がしたな!)
アカリは抗議しようとしたが声がうわずっていた。
「ボ、ボクの体に何をするつもりだ。そ、それとも何かしちゃったのか。すでに? うわあああああ」
アカリは目線をとばし服をさがしてさがしてさがしまくったが、どこにもない。
(あ、ここはボクの部屋じゃないぞ。江奈さんの寝室じゃないか。なんでボクがここに寝てんだ? くっそう、しょうがない、このままこのベッドシーツで)
アカリはシーツを腰巻にしてなんとか活動できる体勢をとった。出てきた足はすらりと長く、身長は百七十センチ台なかばというところだろうか。
「ああ、着ちゃったあ!」
「ほ、ほんとうですかムクゲちゃん? ほんとにお召しになっていますか? アヤメのことだましていませんか?」
「うん、着てる………オレ、がっくり。って、アヤメもさっきからきっちり見てるくせに」
「そ、そんな妄想はやめてください!」
(は? 十字架がない! ボクの首飾りはどこだ?)
アカリは胸も裸であることに今さらながら気づいた。
「ボ、ボクの十字架をどこへやった!」
「え、なんですの、あなたの十字架とは?」
「いや、そうか、お前たちなわけないな。お前ら吸血鬼にあれが触れるわけがない。するといったいだれが、どこへ……」
アカリはつい考え込んでしまった。なぜこんなに記憶が途切れてしまっているのか。それが猛烈に気になった。
落ち着いた三人の少女はあらためてアカリに見入った。
思い切ってアヤメが話しかける。
「あのう、さきほどからわたくしたちをキューケツキとお呼びになっていらっしゃいますね。すみません、キューケツキとは何ですか?」
「ええッ?」
アカリは驚いた。
(嘘を言っているようには見えないな。するとほんとうに江奈さんのいう通りなのか。ほんとにこの子たちも吸血鬼という言葉をまるっきり知らないのか。たしかに牙も見えないし、そこの壁にかかっている大鏡には三人ともちゃんと映ってるし、それにみんなかわいいし……)
そのときヒソヒソ話し合う少女たちの背中がチラチラ見えた
みんな服の背中のところはグッと下まで切り込んである大胆なファッションだ。
(だけど見ろ! ちゃんと翼があるじゃないか! よく見たら服なんかに隠してやしない。三人とも背中の翼がむき出しになっている)
アカリは鼻息あらくつぶやき続ける。
(確かにすっごくちっちゃい翼なんだけど、でもこれこそが動かぬ証拠なんだ。隠そうとしてもダメだぞ、丸見えなんだから。って、ほかの部分も丸見えじゃないか。なんて露出度の高い服を着ているんだこの子たち。いくら暑い八月だからってセクシーすぎるよ吸血鬼にしちゃ。えと、この子たち幾つぐらいかな? あの子の胸のふくらみからするともう成人? でも顔立ちが小学生って……)
アカリはいつしかアヤメをじっと見ていた。
あら、とアヤメは思った。
「あの、だいじょうぶですか。お熱があるのかしら? お顔が赤いですわ」
「あー、この子アヤメの胸をのぞいてるぅ! きゃは☆ そいで赤いんだ」
ムクゲの指摘にアカリは顔から火が出た。
「ちがう! だ、だれが……」
アカリは言葉につまった。
(ちくしょう、だれが吸血鬼の胸なんか見て赤くなるもんか! ってはっきり言ってやれよ、アカリ。なぜ急にだまっちゃうんだ、ボク?)
「もうやめてください、ムクゲちゃん」
「そうだよムクゲちゃん、そんな場合じゃないよ。よくわかんないけど何かタイヘンなこと言おうとしてたんだよ、彼氏」
「そうだよ、それそれ」
マクラの言葉を受けてムクゲは言った。
「なあ、大事なことっていえば名前だろ。ねえキミ名前なんていうの? オレ如月ムクゲ・十六歳。スリーサイズはー上から、むぐぐぐー、ふぇほふぁなふぇー!(手ヲハナセー!)」
「静かにしてんのムクゲちゃん。わたしね、二階堂マクラ・同じく十六歳。ひゃうッ! やめッ、ムクゲちゃん。わたしの手のひらなめないで!」
「あの、わたくしは赤城小路アヤメです。このお二人と同級生なんです」
アカリはハッとした。
「え、赤城小路? ていうと確か江奈さんの親戚の………」
「はい。江奈はわたくしのおじです。だからご安心なさってください。けっして怪しいものではございません。あのう、よろしければお名前を……」
「ボ、ボクは柴咲アカリ」
アカリの舌はもつれたが、そのわけは彼の名前にあった。
(なに照れてんだ、アカリ。ていってもこの名前いうときはいつもイヤなんだよな。いかにも女の子みたいな名前で。くっ、カッコつかねー)
「アカリ! へえー、かっわいー」
ほらきたでしょ、かわいいだもんな、いつもの反応だよ。どうせボクの名前なんて……
「なんか勇者って感じだよね。グッときちゃうなオレ。そう思わね? ねえマクラちゃん」
え? 勇者? この子は、えーと、ムクゲだっけ?
「そうだね、なんか骨っぽい名前よね」
骨っぽい? この子はたしかマクラ、だったっけな。
「とても勇ましいお名前ですわ。アヤメ、そういうお名前聞くのは初めてですもの」
この子アヤメちゃんかあ。で、まさか受けてる? ボクの名が勇ましい?
「でさ、アカリくんはいくつなの? オレ十六歳」
「それもうさっき聞いたって。ちょっと静まりなよムクゲちゃん」
「十五歳……でももうすぐ十六なんだから!」
「イエーイ! オレたちと同じじゃん。はい握手!」
あ、と不意をつかれアカリは手を握られるままにベッドにしゃがんだ。
「ほら、アヤメもマクラもご挨拶ご挨拶」
「よろしくね、アカリくん(握手)」
「アカリさんよろしくお願いいたします(握手)」
(あたたかい手? 池田やアホの山本やママやパパと同じあたたかい手……)
初めて触れたこの種族の手の感触にアカリはとまどい考えこんでしまった。
「ところでアカリさん?」
「え? ああ、なに?」
「さきほどのキューケツキのお話ですけれども、アカリさんもキューケツキさんなんですか?」
「ち、ちがうよ。ボクは人間さ」
「はい? あのう、それってどういう」
「そのとおりだよ、アヤメ。彼は人間だ」
「あ、おじさま!」
江奈裕一郎がドアのところに立っていた。
「彼が目を覚ましたらすぐに僕を呼べと言ったはずだがね、おてんばさんたち?」
チッチッチッと、江奈は人差し指をワイパーのように動かして首を横にふる。
「そんなことより江奈オヤジ、どういう意味さ? アカリくんは人間でオレたちはキューケツキって。まるでわけわかんねえじゃん。キューケツキって何?」
「だからムクゲちゃん、いまもいったとおり彼は人間だよ。ただし別世界のね。ここの世界では彼はサピエス、つまり家畜のウシだ」
ベッドの上のアカリがむっとした。
(いつ聞いても頭にくるなあ、この呼び方。家畜のウシだなんて、いくら江奈のおじさんだってもう一度言ったら許さないぞ。それに別世界ってことはないでしょ。
そうだよアカリ、忘れちゃいけない。江奈さんの背中をよく見てみろ。ひときわデッカイ翼があるじゃないか。江奈さんだってもともとは吸血鬼の仲間なんだぞ)
「ええッ? アカリさんがサピエスですって? うそです! どうしておじさまはアカリさんにそのようなことを」
アヤメがほおを紅潮させて抗議する。
「なにふざけてんだよ江奈オヤジ。アカリくんがウシなわけないじゃん。なあマクラ?」
ムクゲは江奈のすぐ胸元までつめよる。江奈は苦笑いを浮かべながら防戦一方だ。
「そうよ。たしかにキューケツキという響きもあまり良くはないけどアカリくんをウシ呼ばわりするのはすこしひどすぎると思います」
いやあ、と江奈は頭をかきかき愛想笑いをふりまいている。プンスカ顔の美少女に囲まれる江奈はかなり情けないおじさんという感じにおさまっていた。
(かばってくれてる?)
目の前の光景にアカリは心を動かされていた。
(この三人が、ボクのことで江奈さんに怒ってくれている? どうして? だって吸血鬼なんだろ……)
江奈はあわてて言い訳でもするみたいな仕草で自分のナイトテーブルの引き出しからゴソゴソ何かを引っ張り出していた。
「三人とも落ち着いてよ。ほら、あった。この紙を見てごらん。みんなもう憶えてないかなぁ。これは三年前の新聞記事だけど、ここに大きな写真が出ているだろう? それがすなわち氷の中から発見されたアカリくんそのものであってだねえ、それを発見したグループというのがあろうことか……」
江奈はアカリと知り合ったいきさつを話し始めた。これは長くなるな、とアカリは思った。
三人の女の子たちは小さな翼をアカリに向けて江奈がさしだす古新聞に熱心に見入っている。大きく背中の開いた夏服の間から三人とも翼がチョコンとはえている。それはどこか赤ちゃんの手のひらを思わせる愛らしさでとってもお行儀よく並んでいた。
さっきからアカリにはそれがなんだかまるで天使の羽のように見えてきてしょうがなかった。
(あんなにかわいらしい翼なんて天使のものとしか見えないよ。ああ、なんでボクはこんなふうに感じちゃうんだ。そんなの変じゃないか。彼女たちはボクの仇なのに。ボクら人類を滅ぼした敵であるはずなのに……)
自分が裸なのも忘れてアカリはいつまでも少女たちの翼に見入っていた。
♯ 5
「如月。如月ムクゲ! 来てるのか?」
「ほーい、先生」
ちょっぴりお腹の出た小柄な担任の遠藤先生に呼ばれて制服姿のムクゲは起立しながら返事をした。
「ようし、今日は遅刻じゃなかったな。おまえ夏休み中の登校日に定時出席できるなら九月からもちゃんと来いよ」
「オレ、今日は説明当番っすから」
「そうか、おまえやるのか。よし、みんなも聞くように。夏休みもまだ二十日以上あるが
学園長の発案により当クラスだけ特別スクーリングを受講できることになった」
「ええーっ? そんなあ!」
いっぺんに学園の教室が騒がしくなる。
ここはアルカディア東京歌劇団付属高等学校。美少女歌劇で超有名なあの歌劇団が次世
代スターの発掘と養成を目的に大正時代に設立したという由緒ある名門校だ。
月謝が高いことで有名なこの小中高一貫私立学校だが、たしかにそれに見合った設備も
整えている。たとえばこの教室だ。
二十数名のクラス全員の机にはネットに接続したノートパソコンがビルトインされてお
り、しゃれた手元灯までついている。
黒板ボードは3D立体画面にもなり、その画像は自分の机のパソコンにも取り込める。
教壇はボタンひとつで可動式の簡易舞台にもなり、そこを照らす照明器具一式も天井か
ら出てくる仕組みだ。もちろんカーテンは自動開閉、空調はいうまでもない。壁の色も十
色の範囲で即チェンジできるし、床暖房ときている。
女子高なので特にセキュリティーは行き届いており、学園の警備センター直通の防犯モ
ニターはもとより、各自の机にも超小型護身用スプレーが配備してある徹底ぶり。
学校全体のキャンパスは都心にもかかわらず緑ゆたかな広大な敷地を有し、普段は鳥の
さえずりさえもが大きく耳に響くほどの静謐さ。
しかし今その静けさが一年紅組の叫び声によって派手に破られたのだ。
きょうは夏休みただ一度の登校日なので、連絡事項が終わったら皆すぐに帰宅して夏休
みを続行するつもりでいた。それが明日から登校すべきと聞いたからたまらない。みなは
爆発的に抗議した。
「まぁまぁそんなに騒ぐな。特別スクーリングはだな、基本的に出席にはカウントしない。
つまり自由参加なんだから。あとで如月から説明があると思うが、なにしろ今回の講師は
特別なんだぞ。先生だって明後日からのイギリス研修旅行さえなけりゃカブリつきで聞き
たいくらいなんだ」
「そうだそうだ! 特別なんだぞ!」
「まだ黙ってろ如月!」
この「黙ってろ」でクラスはようやく少し静かになった。
「ゴホン。さあみんな、声をそろえて言ってみろ。日本最高峰の演劇アカデミーであるわ
がアルカディア東京歌劇団付属高校のモットーはなんだ?」
クラスメート同士たがいに顔を見合わせ、やれやれという表情で全員がやる気のうすい
声をそろえた。
「さん、はい。『つどえアルカディアの旗のもと、もっともっとファンタジー』」
「それだ! これ以上そのモットーにふさわしい講師はめったにお目にかかれるもんじゃ
ない。そらっ!」
太ったお腹をポンとひとつたたくと遠藤先生は教室の一番後ろのすみにひっそり隠れる
ように立っている柴咲アカリを指さした。
だがアカリは返事をしない。その態度を見て説明当番の如月ムクゲは思わずこう心の中
でつぶやいてしまった。
(あっ、アカリくん。先生が紹介してるんだからみんなに一礼しなきゃ。ソッポなんて向
いてちゃダメなんですよ)
男まさりの口調で知られるムクゲだが、その心の声は話すときよりもずっと乙女口調だ。
昔からいつもそうだった。それなのにしゃべるとき、ムクゲはいつもつっぱってしまうの
だ。このギャップは自分でもどうしようもなかった。
しかし、ムクゲの心配をよそに、初めてアカリの存在に気がついたクラスの大半は彼に
少なからず興味を持ったようだった。
手ごたえありとみた遠藤先生は、たたみかけるように続ける。
「ゴホン。なにしろ講師は 〝別世界から来た究極のストレンジャー〟だ」
「オーッ!(クラス全員のどよめき)」
ムクゲはほっとした。
(これならなんとかいけそうね。にしても遠藤先生ったらやけにほめちぎりますね。どう
せ学園長へのこびへつらいでしょうけど、でも助かるわ。これで説明がやりやすくなるも
の。よーし、説明がんばりますわよお。だってわたしがヘタな説明をしたらアカリくんが
大変なことになっちゃうもの)
「年齢はだな十五歳ということでお前たちとほぼ同年齢だが、前回ウクライナからやって
きた講師・天才チェリストのスシチェンコ様おんとし八歳よりはマシだろう」
「ベーッ!(思い出しブーイングの声)」
「将来の舞台の花形をめざすお前たちを指導する者に年齢など関係ない。実力だ。お前たちが吸収できる才能を持ってきてくれる者だけが当学園の特別講師に選ばれるのだ。年齢に関わらず十分な敬意を払うように、いいな? では如月たのむ。先生は研修旅行の準備が残っているんでな、先に失敬する」
急に自分にふられてムクゲはあせった。
「え? でもカリキュラム表とかオレまだもらってないんすけど」
出席簿を小脇にかかえてドアに向かっていた遠藤先生は立ち止まって言った。
「そうか、まだ一年生だからお前たち知らなかったか。夏休み中の特別スクーリングは生徒たちの自主運営でやることになってんだ。説明が終わったらお前が参加人数を確認して今日の午後にでもカリキュラムを作ってみろ。じゃあ如月、たのむぞ」
ムクゲはあきれた。
(なーんだ、ここまであおっといてあとは丸投げですか。ったく遠藤先生らしいな。でもいいわ、わたしの自由にやっていいってことよね。歓迎よ。とっとと研修旅行へお出かけなさい。チャオ、担任さん。ヴォン・ヴォヤージュ。さてと)
「じゃ、先生もいなくなったんで、みんな適当にオレのまわりに集まって」
ムクゲは堂々と仕切りだした。
その姿を級友のアヤメとマクラが見つめている。
「ねえねえアヤメちゃん。ムクゲちゃんてこういうのうまいね」
「本当にそうですわね、マクラちゃん。ムクゲちゃんのジャケッツ姿で号令されると、やらなくちゃってつい思ってしまいますものね」
アヤメの言うジャケッツとは制服のことだ。
演劇の殿堂らしくアルカディア学園(アルカディア東京歌劇団付属高等学校では長ったらしいので普段はみんな学校のことをこう呼んでいる)の制服は芝居がかっていて他校の制服とかなり違う。そこで学園の生徒たちはいくぶんの誇りをこめて自分たちの制服のことをジャケッツと呼んでいるのだ。
セーラー服とは似ても似つかないこの制服の最大の特徴は肩をおおっている部分だろう。シャーロック・ホームズが着るような古い英国インバネスコート風の肩おおいがちょうどバストラインが始まる部分までかかっている。ただしきれいな色の二重ラインで縁取りされていてけっして重くやぼったい印象を与えない。そしてこのラインの色は学年別になっている。ムクゲたちはパープルだ。
この肩おおいの下は冬はブレザー(その下はブラウス)夏は厚手のシャツ(その下は下着)で真ん中のボタンに沿って幅広い色のラインが入り、これと同じラインが袖にもストライプではいる。
上着の色はブルー基調とホワイト基調のふたつのパターンがある。
シャツの場合もブレザー同様にインにはせずにスカートの上にかぶせて着る。
袖は基本的に長袖で夏は七分袖。半袖は不可で首回りは固いカラーでぴっしり閉じるという伝統で、上半身のデザインはどこか修道院のシスターを思わせるところがある。
スカートがまた変わっている。後ろの部分はたけがけっこう長くひざ下まで届くくらいなのに前の部分が膝上の相当高い位置までカットされているのだ。
前後のたけが違う燕尾服のようなこのシルエットは、かつて女子でも大きな翼を持っているのが普通だった時代の名残りだというのがもっぱらの噂だ。たしかに豊かな翼が背中から伸びていればこのカットは勇壮な印象を与えるに違いない。
でもアヤメやムクゲのように申しわけ程度の翼しかはえていなくて背中にも翼用の切れ込みなど初めからない服を着るのが当然の今の世代ではこのスカートのデザインがやけにセクシーな印象を添えることになってしまっている。おかげでシスター系の上半身とのミスマッチが生じ、そのせいかアブナイお兄さんたちによって常に盗撮対象都内ナンバーワンにランクされている。
登校時にはセーラー帽状の学園特製の帽子をかぶること。また靴下はホワイトのハイソックス厳守。(ルーズは校則違反です)
なぜか靴だけは自由なのだがブーツなどはくとジャケッツのイメージはかなり変化する。だからここが各自のセンスの見せ所となっている。ムクゲは青いギリシャ風のサンダルで決めていて、アヤメいわく
「勇ましいですわ、なんだかアマゾネスさんみたいで」
という具合だった。
「ほんとに人を率いる才能があるんですわ。ムクゲちゃんはどうしてクラス委員に立候補しなかったのでしょうか」
「ダメダメ。そういうのは不向きなのよ。ムクゲちゃんて人の好き嫌いが激しいから」
「はー、確かに言えてますわ」
(アヤメとマクラめ、勝手なこと言ってるわね。ほんとうはわたしだって高一のスタートでクラス委員でもやって今度こそやる気のある学校生活にしようと思っていたのよ、知ってるの?)
「そこうるさいぞ、アヤメにマクラ! 廊下に立ちたいか!」
ムクゲがピシッと言う。
(でもね、中村さんに委員長とられちゃったから、それで……って今はそんなこと考えてる時じゃないわ。うまくみんなにアカリくんのことをアピールしなきゃ。そう簡単な仕事じゃないのですよ)
「いいかなーみんな。では始めまーす。あっと、アカリくんはまだそこに坐ってて。まずみんなにアカリくんのことオレから説明しちゃうからさ。えーとですね、あれ、あのコピーどこやったっけ」
ムクゲは教卓の上に置いた資料に指をもたつかせた。
「ちょっとお、前置きが長いよー如月さん。わるいんだけどわたし今日はまだ歌のレッスンあるんだから、あと十分ぐらいしたら出なきゃいけないのよ(近衛さん)」
「如月さん、その人先生でしょう? アカリくんなんて呼んでいいんですか。先生なのに。アハハ(桃山さん)」
「そうだそうだ。先に仲良くなっちゃって。ぬけがけ禁止!(大河内さん)」
「きゃははは(クラスの笑い声)」
クラスのつっこみにムクゲは口をへの字に曲げる。
「わかったよ。先生ですね先生。『先生』の名前は柴咲アカリ。十五歳」
「知ってる知ってる!(クラス全員)」
「あっそう。じゃあ先生に翼がないってことも知ってる?」
一度にクラスはざわつき、ムクゲは優越感まるだしにニヤリとした。
「ちょっと如月さん」
「なーに〝クラス委員〟の中村さん」
やっぱりきたわね、とムクゲは身構えた。
(詮索好きでなんでも一番病のあなたからすんなり白紙委任状がとれるなんてこっちも思っていませんことよ。さあ、いらっしゃい)
「いろいろな役作りをするうえでは翼が小さいほど有利だということは常識でしょう。だから特に翼が小さい私たちが選ばれてこの学園に入学できたんじゃないの。それに最近は翼の大きい子なんてほとんど生まれないでしょう? 翼が小さいからっていったいそれが何の特徴になって?」
鼻でせせら笑ったのを気づかれないようにムクゲは元気にこたえる。
「そうでねえっつうの。アカリ先生はまるっきし翼がねえの」
「え?」
「だってサピエスだもん」
ドンガラガッタガーン!(教室内でイスがいくつもひっくり返った音)
げへへ、とムクゲは歯をむき出して笑ってみせた。
「サピエスって、家畜……ウシの? なに言ってるの如月さん。先生に対して不謹慎じゃないの」
「まあ坐ってよ委員長さん、さあみんなも。はい、ではこの資料パンフを順番に配って」
教卓の資料をムクゲは今度こそ手際よくさばいた。
サピエスの一語に衝撃をうけた生徒たちはこぞって資料をめくりだした。
「えー、これ新聞記事のコピーばっかり。難しそう。これってもしかして社会科の授業なわけ?(大河内さん)」
「あ、でもここにマンガも出てるよ。アハハ。でもこれ、なかなかステキじゃん(桃山さん)」
「そうかなぁ。気持ち悪いよ、このイラスト。如月さーん、今度の先生って怪奇系の人なんですかあ?(神宮司さん)」
「だからー、わたしね歌のレッスンがあってもう時間が……(近衛さん)」
「もういい! たくさんだ。ボクが自分で話す!」
教室最後部から突如ひびいた怒鳴り声に教室は一転してシーンと静まりかえった。
(ああ、せっかくペースがつかみかけていたのに! どうしたのアカリくん、熱くなったらだめなのよ。自己紹介はまだ早いって。お願いだからわたしに任せて)
「アカリくん、あのね。あ!」
アカリは女子の波をかきわけてズンズンと教壇へ近づいてくる。
(そんな怒った顔はいやだよ? そりゃあ今までちょっとばかり段どりが悪かったのは認めるけどこれから挽回するから。ああ、アカリくん、そんな乱暴に教壇に立たないで)
「はっきり言っとくけど、ボクはウシなんかじゃないからね。人間なんだ!」
(あちゃあ、やっちゃいましたね。いきなりストレートパンチじゃクラスの反感が大津波ですよアカリくーん。もうダメだわ……)
ムクゲは片手で顔をおおいうなだれる。
「あ、怒った顔がなんかりりしい。アハッ(桃山さん)」
「顔を赤くしてるとこなんて初々しいね(大河内さん)」
「せんせーい、ぜんぜん翼があるようには見えないんですけどどうやってるんですか? そんなにうまい整形外科の先生がいるなら紹介してもらえませんか? わたしちょっと大きめで悩んでるんです(神宮司さん)」
(あれ? 反感、じゃないです?)
ムクゲは一瞬ほっとしたが、その傍らでアカリは教卓をバンバン叩きだした。
「ちょ、ちょっとアカリくん」
ムクゲの言うことはアカリの耳に届かなかった。
「ちゃんと聞いてよ! ボクは人間だけどみんなはちがうんだってことなんだ! わかってる?」
「おおっ!」
クラスからあがったのが明らかに好意的な反応だったのでムクゲもアカリも驚いた顔をした。
「みんなとちがうって。アハハ、そうか先生は日本人じゃないってことですかぁ?(桃山さん)」
「でも日本語お上手ですね。わかった、ハーフなんだ。だってお顔だちが、その、ふふふ、ちょっといいかなって。ねえ、お母さんはどこの国の人ですか? それともお父さんのほうかな?(神宮司さん)」
「まあるい目を大きく開いてキョトンとした表情が初々しいね(大河内さん)」
「すみません。わたしほんとに時間がないんです。講義のカテゴリーだけでも教えてもらえませんか(近衛さん)」
「ふざけないで!(中村さん)」
今度は教室内の机をドシンと叩くものがいた。
(だれ? あ、やっぱり中村さんだわ。あのテンションの高さ、まずいなあ)
ムクゲの心配どおり、中村委員長は派手にカールした髪をかきあげながら糾弾するようにあげた右腕をアカリに向けた。まれにみる豊かな量の髪の毛がゆさゆさとゆれる。
「ちょっと、教壇の上のキミ!」
(ほんとまずいですよ、中村さんの「キミ攻撃」が始まっちゃった。これが出ないようにと作戦を立てておいたのに)
アカリのかげにかくれるようにムクゲは一歩ひいてしまった。
「な、なんだよ?」
アカリはクラス委員の髪の毛の量に圧倒されていた。
「この資料パンフにはさまってる新聞記事の『柴咲アカリ』とは全部キミのことなの? そうだと認めますか」
「そ、そうだけど。でもその記事はあまりにも偏見に満ちていて、しかも事実を正確に伝えておらず、あまつさえ……」
「ちょっとキミは黙って! 三ページ目のコピー記事にはこう書いてあるわね。『富士の風穴で氷づけのサピエス発見。無毛の古代種か』これは三年前の日付ね。夕刊のトップか。『氷づけのサピエス 解凍に成功』『現代の驚異! 解凍サピエスは言語を解するか?』これは一年前の日付だけど八面の隅っこにある科学欄の囲み記事ね。短いし活字もちっちゃくて読みにくいわ。さて次のだけど『しゃべるウシだよ 本日記者会見を希望だってさ』これってゴシップスポーツ新聞のコピーよね。記事の中身も要領を得ないし日付もはっきりしない。いったいいつの記事なの?」
「そんなことはどうでもいいんだ。大事なのは……」
「どうでもよくないわよ! わかってるの? だんだん記事の質が落ちているんだよ。それに次のコピーはなに? 『特別ロングインタビュー 吸血鬼の最後の一匹を倒すまで私は闘う 柴咲アカリ』どうやら雑誌からのコピーらしいけど雑誌名は『怪奇と妄想』? これどういう雑誌よ。創作小説なの?」
「ちがう! それはインタビューなんだ。事実が書いてあるんだ。あとでよく読んでおいてよ」
(あっとアカリくん、中村さんに向かってね、よく読めはまずいのですよ。中村さんて読書オタクなんですから)
できることなら声に出してアドバイスしたかったムクゲだが声が出なかった。
「もう読んだわよ」
(う、やっぱり)
またもやムクゲは片手で頭をおさえうつむいた。
「よ、読んだの? だ、だったらよくわかっただろう! おまえたちのせいでボクら人類は」
「キミってさあ、典型的な被害妄想だね。そんな人が先生になっていいのかしら。『邪悪な存在に滅ぼされた人類最後の生き残り、それが僕だ』なんて相当キレてますね。本気なの?」
「……事実、なんだぞ……」
「ちょっとちょっと中村さん、このパンフにそんなこと書いてあんの? そうかあ、創作系エチュードの講師なのかあ、フフフ(桃山さん)」
「もろファンタジー系だね。初々しいなあ(大河内さん)」
「というよりゴシック・ロマンではありませんか?(神宮司さん)」
「もうお願いですから、早く要点をいってください。わたし歌のレッスンが(近衛さん)」
「みんなちょっと静かにしてくれる? キミさあ、この字はいったいなんて読むのよ。血を吸う鬼って」
「吸血鬼は吸血鬼だろうが」
「キューケツキ? やっぱりそう読むの。じゃあ聞きますけどね、キミ! このインタビュー記事にでてくるキューケツキとはまさかわたしたちのことじゃないでしょうね」
「うわあ、ほんとだ中村さん。この話すごいよ。キューケツキは夜ごと美女の首に食らいつき、その先鋭な牙で余すところなく血をすする、か。なんかコワイね。アハハハ(桃山さん)」
「えー、わたしたち牙なんてないんですけど(大河内さん)」
「なになに、キューケツキは太陽の光にあたると灰になり、鏡にも姿が映らず、十字架をおそれる。なぜなら彼らは闇の存在だからである、か。ディテールも凝ってるね(近衛さん)」
「えーと、ちょっといいですかあ。わたしのお父さん神父なんですよお。そりゃあ十字架には指一本ふれないようにしていますけど、それは神聖なものだからみだりにさわったり身につけたりしちゃいけないんですぅ。それから今は午前十時半ですけどわたしたち灰になったりしませんよう(神宮司さん)」
「それよりさあ、燃えるような恋をしたら灰になる、て変えた方が絶対いいよね。それだとグッと身近に感じちゃう、ウフフフ(桃山さん)」
アカリは指を口にくわえるようにしておろおろと声のあがるほうをその都度キョロキョロ見まわしていた。
「キミ! 黙ってないで答えなさいよ。この矛盾はどういうことなの。わたしたちは毎朝鏡の前で髪を整えるしカトリック教徒も多いし牙もないのよ」
「そ、それは……そこのところがボクにも……だけど、血を、血は毎日しこたますすっているだろう! それこそ吸血……」
「なに言ってるの。そりゃ主食ですもの、当然飲むわ。でも吸血なんてしません。パックとか缶入りとかビンに詰めたものがほとんどでしょ。栄養素が最も豊富な血液を直接摂取するのが文明人の合理的食生活のあり方でしょう? 違いまして? 首にかじりつくなんて狂人だって考えつかないことだわ」
「そっちこそなに言ってる。毎日サピエスの、奴隷化した人間の血を吸ってるくせに!」
「あんな毛むくじゃらのサピエスなんて人間じゃないでしょう? それに牧舎では科学的に管理された自動装置が適量をサピエスから無痛採血しているわ。このシステムにご不満がおありかしら。牧場ではけっしてサピエスを殺したりなんかしない。それどころか毎日適量を採血されるのはウシたちの健康にとってもいいんですって。わたし牧場を見学したことあるからよく知っています」
「で、でも……」
「殺菌処理もしていない血を直接飲むなんて常識外だわ。それともキミはキューケツキに襲われた経験があるとでも言うのですか!」
「う……ないけど……」
「それごらんなさい。ここにあるのはみんなキミの妄想の産物よ。なんです、この愚劣なイラストは?」
「これはドラキュラ伯爵でしょうが。吸血鬼のシンボルじゃないか。トランシルバニアに巣くうこの悪魔の専制君主は歴史上実在の人物で、まだ人間であった当時ですらその残忍な振る舞いで〝串刺し王〟と呼ばれ……」
「キャハハハハハハ!(中村さんを除くクラス一同の爆笑)」
この反応にアカリはぽかんと口をあけた。
「な……笑うとは……」
「最高だよ、この先生。アハッ、ハハハハハ、こんなに笑える講義ひさしぶり(桃山さん)」
「ほんと、センスいいよねぇ。初々しいし(大河内さん)」
「うん、そうね。歌のレッスン……今日どうしようかなぁ?(近衛さん)」
「ちょっとみんな! 笑ってる場合じゃないでしょう!(中村さん)」
「中村さん、そんなにとんがらなくてもいいじゃない。初々しい先生じゃないの(大河内さん)」
「初々しいって、あなたこんなイラスト見せられて腹立たないの?」
「だって中村さん、ここまで描いたらギャグじゃない? プッ(桃山さん)」
「じゃこの記事は? これは本当の新聞記事なのよ。だとすれば彼は突然変異か何かしらないけれどサピエスかもしれないのよ。ウシなのよ、ウシ」
「そりゃそうかもしれないけど、遠藤先生も言ってたじゃない。究極のストレンジャーだって。ちょっとカッコイイじゃない? イエィイエィ(桃山さん)」
「そうよね、そんな講師さんならスクーリング出席してもいいかも。歌のレッスンはそれほど急ぎというわけでもないし(近衛さん)」
「それにこの話ほんとうだったらステキじゃございません? 『敵中でひとり先生として戦い抜く』というのもすっごくヒロイックですし(神宮司さん)」
「あるいは中村さんのストーリーでもいいよ。すべてこれは妄想で、気づいたら自分だけがキューケツキだったとか(大河内さん)」
「そんなのわたしの作ったストーリーじゃないでしょ!(中村さん)」
「ねぇねぇ、これって学年末の課題公演にならないかなぁ(神無月さん)」
「なるなる!(一同)」
「如月さん、早く参加人数確認しようよ。わたし参加する!」
「わたしも」
「わたしも出席する」
「早く確認、確認」
「え? ああ、そうよね。じゃオレ名簿にチェック入れるから、参加する人は出席番号と名前を言ってくださーい。あっと、それとも名簿まわしたほうが早いかな」
豊かな髪にうもれて今度は委員長がぽかんと口をあけていた。
ムクゲも驚きをかくすように口に手のひらをあてながらつぶやいた。
「まあ、これってうまくいったってこと? だよね」
ムクゲは一歩前へ出てアカリの顔をのぞきこんでみた。
(あ、アカリくんが泣いてる? いえ、ちがうわね。あさっての方向見つめながら大きな口をあけちゃって……まあ、茫然自失してるんだわ。きっと泣くよりもショックだったのね)
「あの……」
「ムクゲちゃんったら! ねえ、ちょっと聞いてる? 早く確認とってよお!」
「あ? そ、そうだよな。よっしゃあ、参加するものこの指とーまれ!」
「アハハ、なによそれ。早く紙とかまわしてよ」
「へい、毎度あり」
笑い声さんざめくクラスをよそに無表情で天井をあおぐばかりのアカリを見てムクゲは思う。
(アカリくん、あなたは女の子のことをよく知らないのよ。こんな女の子だらけの学校で先生やっていける? わたし、あなたのことをもっとうまくエスコートしてあげたかったのにうまくできなくて、ごめんねアカリくん。でも、しっかりして、アカリくん……)
そんなふたりを委員長の中村だけが燃えるまなざしで注視していた。
♯ 6
「ほんっとに、きょうはごめん! アカリくん、このとおり。オレったら……その……紹介が下手で」
ばしっと両手を合わせ、ムクゲがアカリに最敬礼していた。
「そんなことありませんわ、ムクゲちゃん。とてもいっしょうけんめいやってらしたもの」
その横でアヤメがとりなすような横目視線をアカリに投げかける。
「そうだよ。わるいのはムクゲちゃんじゃなくて中村さんだよ。それにみんなも騒ぎすぎだっていうの。ったくお調子者のクラスなんだから。アカリくんに失礼ったらなかったわ」
マクラはさっきの教室の様子を思い出し憤慨していた。
(この子たち、ボクを気づかってくれている?)
アカリはとまどっていた。
(なぜ、こんなに親切なんだ? どうして教室を出てからここまでずっとボクに気をつかってくれるんだ?)
ジャケッツ姿の美少女たちはアカリを取り囲むようにして歩いている。四人はまだ学園に残っていた。
(特にこのムクゲって子は謝りっぱなしじゃないか。教室の出口ではクラスのみんなが変な目でながめていたのに全然気にすることなく頭をペコペコして……。女子にこんなふうに気遣ってもらうなんて今まであったか? こんなにされるとボク……)
「ううん、やっぱ失敗だぜ。オレ、ほんとにアカリくんにすまなくって……」
ムクゲが悔しそうに親指の爪を噛む。
「でもスクーリングには全員参加希望だったじゃありませんの。失敗どころか大成功ですわ」
その指をアヤメがふんわりと両手で包み込みながらなぐさめる。
「そ、そうかな?」
マクラも元気になぐさめを追加する。
「そうそうそうだよムクゲちゃん。あの中村さんだって結局は参加なんだよ。ま、ひとりだけ不参加ってのも無理な話なんだけどね」
「あ、こちらの階段ですアカリさん。もうすぐですわ」
アカリはまだ学園内で行くところがあった。
「え、こっち?」
実はアカリは今日は江奈邸に帰らないのだ。
今日から特別スクーリングが終わるまでアルカディア学園にあるこの教職員棟にひとりで泊まる予定だった。これらはみんな江奈裕一郎の配慮によるものだ。
しかし泊まるといっても初めて来る場所なので、アカリはアヤメたちに道案内してもらって自分の部屋の前までやって来たところだ。
「ここですわ、アカリさん。あ、いえ、アカリ先生」
二階の廊下にある部屋の前に止まるとアヤメはにっこりとアカリに微笑みかけた。
「ああ、うん……」
そうアカリが言うとアヤメは恥ずかしそうに顔を赤らめて横を向いてしまった。
(アヤメちゃん、だよな。こんなきれいな子に先生あつかいしてもらうとボク……)
ドアの前でアカリもついうつむいてしまう。
「ああもう、ごめん! オレったら階段までまちがえちゃって。ほんとゴメン」
高等部の校舎からこの教職員棟まではアムール像に水が吹きつける噴水広場をはさんで徒歩5分の距離だったが、その間じゅうムクゲはずっと謝り続けていた。
「でもさ、オレだってちゃんとあの中村さんが文句つけてくる前にアカリくんのことを紹介しちゃおうって計画してたんだぜ。ほんとだよ。それなのに……」
白くてたっぷりとしたテニスパンツにスニーカー、青と白のストライプ模様のラガーシャツの肩に重そうなでかいバッグをかけたアカリは、つばをとばしながら早口でしゃべりながら自分に何度も頭を下げ続ける女の子に見入っていた。
「ムクゲちゃんの準備が周到だったことは誰も疑ってなどいませんわ。でもね、そろそろアカリさんにはお部屋でお休みいただいた方がよろしいかと思うんですけど。宿泊棟にも着いたことですし」
春風のようなアヤメの声にほんわかとさとされてムクゲは顔をあげた。
「あ、そうだっけ。オレが鍵もってたんだよな。ごめんアカリくん、どこまでも段取り悪くって。はい、これがお部屋の鍵」
鍵を渡しかけた手をムクゲはさっと引っ込めた。
「オレ開けたげようか! 二〇二号。ここは先生棟だけど先生たちは帰省中だから夏休み中は貸し切り状態だよ。オレたちの生徒寮からはちょっと遠いんだけどさ。それに部屋の設備の説明もあるしさ!」
「あ、いいよ。自分でやるから」
「そう……じゃ鍵。……やっぱり今日は怒ってる?」
「そんなムクゲちゃんひとりのせいじゃありませんわ。わたくしだって何かお手伝いできたはずなのにずっと黙ってしまってムクゲちゃんだけに押しつけてしまって」
「わたしも同じ。ごめんねムクゲちゃん、ごめんねアカリくん」
「アカリさん、ほんとうに申し訳ございませんでした」
三人は同時に頭を下げて、そのまま目をふせてしまい固まってしまった。
(あ、この子たちうつむいちゃった。え、動かないよ?)
ほんとうにすまないと思っている三人の心がじわじわと伝わってきて、アカリはどうしていいのかわからなくなった。
(こんなにもボクを気づかい、さっきだって教室でもボクをかばってくれようとした三人の女の子たち。この見知らぬ世界へ来てから江奈さん以外で初めてボクのために何かをしてくれようとしたこの子たち……ボクは……だからほんとうにボクは……)
「う、うれしかった!」
うわずったオクターブ高いアカリの言葉におどろいて、三人はハッと顔をあげた。
そしてその顔にはみるみる喜びの波が広がっていく。
なんともいえぬ暖かい波動がひたひたと自分の体を通り抜けていくのを感じて、アカリは思わず息をのむ。
(この子たちったら、なんてうれしそうな表情をボクに向けるんだろう。こんなに輝いた目でボクを見てくれた女の子なんて前の世界でもいなかったよ。ああ、この子たちほんとうに吸血鬼なんだろうか)
アカリは伝えたいと思った。
いま感じている自分の心のぬくもりを。
でもなかなか言葉が見つからなかった。
「だから、その、ありがと」
あまりの陳腐な表現にアカリは自分でショックを受けてのけぞった。
「え? あ、いいんだよ、そんな。あはっ、アカリくんにお礼いわれた!」
しかしムクゲにはそれが最高の言葉に聞こえた。
「そうですわ! 後でお昼でもご一緒にいかがですか、ねえアカリさん。あさってからのスクーリングのカリキュラムのことも考えないといけませんし。今日は登校日ですから食堂もやっているはずですわ」
アヤメの心も激しいくらいに弾んだ。
「そりゃいいね。資料パンフ作りで半徹夜したついでだもの、やっちゃおうよ。じゃ一時間後に食堂で」
マクラの頭には次々と楽しい予定が浮かんでくる。
「それでしたら後でお迎えにあがりますけれど」
アヤメがそこで言葉を止めて残りのふたりに目配せし、かすかな音量で「さん、はい」と言うと、
「よろしいでしょうか先生!」
きれいに三人の声がそろった。
アカリがあわてて何度もうなずくと、キャハッととびあがって三人は手をふりながら走っていった。
(ああ、行っちゃった。まるで翼が生えているような軽い足どりだな……ってマジで翼が生えてんだろ。あの子たち吸血鬼なんだよ、フゥー……)
二〇二号室の鉄のドアを重そうに開けてアカリは部屋の電気をつける。
ベッドがある。
ユニットバスがある。
机の上にはパソコンが置いてある。
その前の壁にはインターネット使用上の注意って紙が貼ってある。
アカリはつくづく思った。
(どこからどこまでボクの知っている世界のものだらけだ)
着替えの入ったバッグをすみっこに放り投げると、アカリはベッドに倒れこんだ。
「はあ、なんだか分からなくなってくるよ」
ため息まじりにアカリは言った。
(世界は吸血鬼に支配されている。人間はだれ一人としていないんだ)
淡いグリーンの天井に目をやりながらアカリは考える。
(それなのにボクが〝目を覚ました(これは江奈のおじさんの表現だ)〟そのとき以来この六カ月間にボクが見てきたものは、その全てがボクのよく知っているものばかりなんだ。
しかも今は二〇〇九年の八月ときている。ボクの記憶は二〇〇九年の四月の朝で途切れているというのに。
ということはたった数週間で人間は滅亡してしまったということ? わずか数カ月で吸血鬼が世界をのっとったの?)
アカリはごろりと体の向きを変えてベッドにほおづえをついた。
(さらにあの新聞記事がボクの頭を混乱させる。あの記事によればボクは三年前に富士山の下から出てきたことになるけど三年前のボクってまだ小学生だよ。時間の計算がまるで狂ってる。いったい何が起きたのか?)
アカリの目の前に、ふとアヤメの顔がちらついた。
うーん、とアカリはうなった。
(それにボクの回りにいるのはほんとに吸血鬼だろうか)
教室でのクラス委員長とのやりとりとさっきの三人の親切とがごちゃまぜになって頭をかけめぐる。
(も、もちろん吸血鬼に決まってるさ!
だって朝から晩まで口にするのは血液ばかりなんだから。
その点に関しては江奈のおじさんにしたって隠しようがないんだ。あの三人の女の子たちだって今朝ティーカップから血をすすって「ああ、やっと眠気がさめるわ」って喜んでたし。それなのに……見れば見るほど彼らが普通の人間のようにも思えてしまう今日この頃のボクって、あーあ)
江奈裕一郎の笑顔がちらついてきたアカリはベッドに座りなおした。
(江奈のおじさんはこの世界に慣れるためにはテレビを見るのがてっとり早いだろうと言ってくれたけど、これがまたボクの頭を悩ませるんだよなあ)
江奈がアカリと知り合って間もない頃、江奈はアカリにテレビを見ることをさかんに勧めたのだ。世界中を放浪した経験上、その国を速く知るにはテレビが一番というのが江奈の持論だった。
しかしアカリにはこれがかえって逆効果だった。
(だってえ、ニュースを見てもアニメを見ても、ボクの世界とほんとによく似ているんだもの。確かによーく見れば主人公たちの飲み物が血みたいなものだったり、「昨夜あの窓にいたのは彼じゃないわ。翼が大きすぎたもの」なんてセリフがときおり出てきたりするけれど、この翼と血さえ除けばあとの部分はウリふたつと言ってもいいくらい。かえってテレビなんかをずっと見てると、こっちの世界のほうが普通っぽいと思えてきちゃうほどなんだもんなあ)
いかん、いかんぞアカリこんなことじゃあ、とアカリはほおをピシャピシャとたたき窓に目を遊ばせた。
ここ二階のバルコニーはさっき通った噴水広場とは反対の方角に面しているが、やはり木々の緑がまぶしかった。これでは洗濯物を干したら木の枝に触れちゃうんじゃないかと少し心配になるくらいだ。なんだってこんなに健康的な環境に吸血鬼が住んでるんだよ、と考えるとまたもや頭痛がしてきたような気がしてアカリは浴室へ行くことにした。
シャワーの他にも小ぶりながら湯船もある。トイレが一緒のユニットバスにしては広いほうだ。洗面台もそこで洗濯できそうなほど大きい。
でも洗濯機はちゃんと確か備え付けだったはずだ。
浴室から顔を出して洗濯機をさがすと、あったあった。浴室の横が小さくへこんでいて乾燥機つき洗濯機がおさまっている。しかもドラム式だ。
洗濯機の横からぐるりと後ろにまわりこむスペースが台所でこんろはすべて電気プレートのオール電化住宅。冷蔵庫はやや小さめだが流しの部分はゆったりとした広さがとってある。電子レンジもあるし棚も十分ある。
流しのそばにはお客さんといっしょに食事できるくらいのテーブルがひとつと壁と一体になっているパソコンつき机がひとつ。椅子は全部で三つ。窓のほかに部屋にも青いカーテンがあると思ったらそこはクローゼットだった。
そうだ、と思いついたようにスイッチをつけたエアコンも快調。電話だけが使い込んであるすすけた感じだったがぜいたくは言えない。床はフロー式で一部がなんと畳張りにしてあるし、警備センターへの通報ボタンまである。基本的にはワンルームなのだろうが三部屋くらいある気がしてくる豪華な造りだ。気がつけばテレビとオーディオは壁に埋め込んであるスタイルだった。
「アルカディア学園て超大金持ち学校なんだよなあ。江奈おじさんの説明以上だぞ。やっぱこの服じゃちょっとな。少し服を取りに帰らなきゃなあ」
せめて顔くらいはきれいにしようとアカリは再び浴室へ行き洗顔した。
ブルルルと顔をあげると大きな鏡に自分がうつった。ヒゲなどあるはずもないアカリだが、もし自分に猛烈に毛がはえたらどうなるだろうとアカリは想像した。
(だって牧場で見たサピエスたちは全身毛だらけだったもの)
その光景を思い出しアカリはぞっと身震いした。
(こんなそっくりだらけの世界の中でもたったひとつだけ全く違う。それがあのサピエスなんだ)
アカリは江奈に頼んでサピエスの牧場へ見学に行ったことがあった。
初めてサピエスを見たときアカリはすぐに気づいた。彼らにはシッポがない。それどころか……
(この世界の住人たちはサピエスをウシとも呼んでいるが、あれが「牛」なもんか。長い毛が生えていることを除けばサピエスとは人間そのものじゃないか)
都市の人口に食用血液を提供するサピエスたちはどこにでも飼われていて、すこし郊外へ行けば大規模な牧場がいくつもあった。申し込めば見学も自由だ。
よく手入れされた公園のような緑のなだらかな丘陵でアカリが見たのは、異様な毛のかたまりのような四足で歩く動物だった。
(たしかに言葉はしゃべらないし二本足で歩くこともない。毛ばかり長くて地面をはいずり回る毛玉みたいな連中だった。でもボクにはピンときたんだ)
アカリの直感を初めは江奈もまるで相手にしなかったのだが、あまりにアカリが熱心に説得しようとするので江奈はひとつの実験を提案した。
(あの実験は明解だったな。さすが江奈のおじさんだよ。全身の毛をきれいに剃りあげてみるなんて)
そこに出てきたのは人間の姿だった。もちろん翼などないアカリのよく知る人類の姿。
これには提案者の江奈も驚いて、しばらく口をきかないほどだった。それを見て得意な気になったあの日のことをアカリはよく覚えている。
(だけどなあ、しゃべらず歩くこともしない人間なんて……)
いったいこれはどういうことなんだい? そう聞く江奈にアカリも答えられず、結局ふたりしてふさぎこんだまま牧場を後にしたのだが。
(それにあの毛深さはなんだよ? マンモスの十倍も毛が長くって、おせじにも人間なんて言えないよなあ。アヤメちゃんたちはあんなにツルツルなお肌なのに)
そう言いながらもアカリはアヤメのうなじを見たときに「あ、この栗色のうずまきってうぶ毛の列? ちょっぴり毛深いのかな」と感じたのを思い出していた。さっきドアの前でおじぎしたままじっと動かなかったときにジャケッツのえりあしから三人のうなじが丸見えになったのだ。
特にアヤメの長い髪が左右二手に分かれて下へ流れ、ふだんなら髪にかくれて見えない彼女のうなじがあらわになり、アカリの目はくぎづけになった。思い出したアヤメのうぶ毛の感触がやけに生々しくて、アカリはついドキドキしてしまう。
(な、なに比較してんだボク? あんなウシどもの長い毛なんかとは比較になんないだろうが)
思わず「ウシ」と口走ってアカリは、なんだか一瞬でも同胞を裏切ったみたいでどこか罪悪感めいたものを感じた。その嫌な感覚からアカリは逃れたいと思った。
(そうだよ、まだあれが人類と決まったわけでもないんだ)
あの牧場見学以来、江奈もアカリの言う「サピエス人類説」に興味を持ったようだった。その証拠に江奈は何日間も夜遅くまでアカリとこのことを検討したこともあったのだ。
(そうだ。江奈のおじさんとこう考えたこともあったなあ。もしも人類の文明が吸血鬼族によって滅ぼされ地球の支配者交代があったという仮説が正しいとすれば、少なくとも人類がサピエスの段階にまで退化するには数千年から数万年かかるだろうって。だからボクは富士山の氷の中でそれくらいの年月を眠って過ごしたのではないかって。でもそれって眠っていた本人のボクとしては、ちょっと実感わかないんだよなあ。ああ、ますます時間の計算が分からない!)
鏡で自分とにらめっこするのに飽きたアカリは、たっぷりした白いタオルでうなじの汗をふきながらベッドへ戻った。
ベッドへ戻るとあの三人がそのベッドに笑って座っていて自分を迎えてくれるような白昼夢が、ちらとアカリの頭に宿った。
さっき別れたばかりなのにあの三人がここにいないことがひどくわびしく感じられる。
(どうしちゃったんだよ。あんな吸血鬼の娘たちをなつかしむなんて。それにすぐまたあとで会うんじゃないか)
ドスンと、ひとりでベッドに座ると彼女たちのジャケッツ姿が目に浮かんだ。
(ジャケッツなあ。ちぇ、正直ちょっとセンスいいんだよなあ、あの制服)
アカリにとってのジャケッツの第一印象は「なんかスペース戦士みたいでカッコいい」だった。特にスカートの前後が長さの違うカットになっているのがツボだった。
(ムクゲちゃんの地中海風サンダル、きまってるよなあ。まるでギリシャ神話の戦いの女神じゃん。マクラちゃんだっけ? あの子の編み編みロングブーツもなかなか。それにアヤメちゃんの一見おとなしそうな靴も色がいいんだよなあ、まっ赤でさ。なにしろ足なげえもんなあ。アヤメちゃんの足ってなんだってあんなに白いんだろう)
鼻のあたりが急にキナくさくなってアカリはあせった。この感触は前に一度おぼえがある。そのときと同じことになったら大変だ。鼻血をたらしたラガーシャツではあの子たちに合わす顔がない。アカリは懸命にティッシュ箱をさがしたが部屋にはないようだった。大急ぎでバッグのサイドポケットからティッシュを取り出すが今回は何事もなくすんだ。
それでもアカリはしょうこりもなくまだジャケッツのデザインを吟味していた。
(あの背中に結んであるリボンみたいなバンドみたいなのが面白いよねえ。後ろ襟でもなく腰でもなく背中のちゅうくらいにアンバランスにあしらってあるのがすっげえ目をひくんだよ。よっぽどこったデザイナーなんだろうな)
そのリボンとは、ジャケッツの例の特徴的なインバネスコート風の肩掛けが終わる部分の少し下の両サイドにスリットが切り込んであり、そこから飛び出している二本の布のことだ。これを蝶結びにするのが基本だが結び方は自由。中には特大のリボンをあしらう子もいてチャームアピールポイントのひとつになっている。ちなみに夏のジャケッツは上着の肩から袖なしというのも可なので、肩からのぞくブラウスにコーディネートした色づかいの配慮も大切だ。
(そう言えばあのリボンてちょっと天使の羽みたいかな)
羽! アカリの頭は突然さえわたった。
(翼か! あの子たち制服だと全然背中がかくれちゃってるし、クラス全員そうだから、つい普通の人間の学校みたいな気がしてたけど、そうだった、ほんとは翼をかくしてるわけだよな。それに対してボクは翼なんてない。そうなんだよ、すべての出発点はここにあるんだ!)
アカリはパソコン脇に備えつけてあったメモ用紙とボールペンをとると、それを膝にのせて宙をにらんだ。少し考えを整理してみたくなったのだ。
おそらくそれは、さきほどの教室で受けたショックを癒そうとして無意識のうちにとった自己防衛反応であったかもしれない。
(まずボクには翼がない。そしてボク以外の連中には翼がある。でも他のやつらがボクを取り囲んで「おまえは例外の突然変異だ」と決めつけてきたら理論的に反論するのはむつかしい。江奈さんはそう言ってたな。それはボクも認めよう)
アカリがこんなふうに理論的に自分を見つめられるようになったのはごく最近のことだ。
(だがボクには人間として生きてきた十五年間の記憶がある。氷の中に入るまではごく普通の中学生だったという確固たる記憶だ。ただ問題は……)
問題はある日突然にその記憶が断ち切れているということだった。
(手がかりといえば、ちくしょう、あんな記事しかないんだ)
その記憶の橋渡しをするために役立ちそうなものはこの世界の新聞記事しかなかった。アカリは何一つ記録というものを身につけていない状態で発見されたのだ。
ただひとつ幸いなのは「アカリ発見」のニュースはかなり大々的に報じられたために大量の記事資料が残っているという点だった。
(よし、じゃあその新聞記事だ。
ボクの氷づけが発見された記事は図書館にもネットにも新聞社の倉庫にあった縮刷版にもあったからそれは事実なんだ。記事によれば三年前に氷づけのボクは学校の制服を着たまま発見された。発見者は民間の会社で彼らはボクをサピエスだと思いこんだ)
記事中の写真によれば、アカリは上下に手足を伸ばした姿勢で氷の中にいた。ちょうどバレエダンサーが舞台上でスピンするようなかっこうだ。それがアカリにはとても恥ずかしかった。
不機嫌に顔を赤くしながらアカリは紙の上に表のような線を引いて、そこに「三年前」と書き込む。
(つぎにボクが記事になったのは一年前。富士山の風穴でボクを発見したミネラルウォーター販売会社はボクを会社の宣伝に使おうというアイディアにとりつかれ、ボクの解凍作業に没頭してついに解凍に成功する。それが話題になったのだ。ボクは生きていた。そして歩いた)
この模様をアカリは江奈邸のテレビ画面で見ることができた。ニュースライブラリから借りてきた当時の映像資料だが、自分で見ていて変な気分になったことをアカリは生々しく思い出す。いつ見てもそれはどこかの病院のリハビリ患者の動きにしか見えない。
(そんなボクをマスコットキャラクターにしようと会社は大々的に宣伝したんだよな。でも思ったほど世間には受けなかったって江奈さんが言ってたよね。そりゃそうだよ。あの映像みても全然しゃべれないし動きもぎこちないし。だってボクの脳の働きはまだまだ回復してなかったんだもの、無理だよ。ボクもこのへんのことはまだまだ記憶にないもんな。
無駄な宣伝費をかけすぎた会社はやがて倒産。おかげでボクは宙ぶらりん)
あれ、まさか会社がつぶれたのはボクのせい? ふとそんなことを思いついてしまったアカリはペロっと舌を出して「一年前」と記入。
江奈が言うには、当時の世間の空気としてはアカリの一件は最初からミネラルウォーター会社のヤラセと受け取られていたとのことで反応もしらけたものだったらしい。
(だから会社の消滅とともにボクはまったく無視されたんだ。そのおかげで一年前の記事はどれも小さいものばかりなんだ。確かにあの委員長だっけ中村さんという子の言うとおりだな)
アカリはクラス委員のあの髪のボリュームを思い出してつい冷や汗をかいてしまった。だが髪の毛だけ目に浮かんでどうしても顔が浮かんでこないな、とアカリは思った。
(ああいうタイプ、苦手だあ)
中村委員長の顔は思い出せないが他の子の顔は次々と浮かんでくる。
(歌のレッスンがあるって時間を気にしてる子がいたなあ。いかにも音楽やってますって感じだったっけ)
みつあみ髪で大きいトンボめがねをかけている近衛さんは、そのめがねがどういうわけかとっても魅力的に顔をひきたてている子だった。
その隣に座っていた子を考えてアカリは急に顔を赤くした。
(だってあの子ったら何かにつけてボクのことを初々しい、なんてコメントするんだもの。まるでお姉さん気取りだよな。なあんか文学少女っぽかったし)
アカリのことを初々しいとほめているつもりだった大河内さんは金がかった茶色のストレートヘアを腰まで伸ばし、その髪を常に左手でくるくる巻きつけながら寝椅子に座っているようなポーズをとる、物憂げな半分閉じた目つきが印象的な娘だった。
(コロコロ笑ってばかりの子もいたいた。あの笑い方って、なんかちょっとかわいげだった、かな?)
ほとんどピンク色の髪の毛をえりあしのほうでキュッと両脇にふたつに束ねて、いつも小首をかしげている桃山さんは小柄な子だ。笑うときに軽く握ったこぶしを口にもっていく仕草がアカリの目を引いた。あんな子が妹にいたらけっこういいかな、などとアカリは無意識に考えてしまった。
(そういやお父さんが神父ですって子がいたよね)
神宮司さんは十字架の話のとき真剣にアカリに抗議していた。いかにも司祭の娘らしく、芸能学校にあっても清楚な雰囲気が濃厚だった。ジャケッツを地味目に着こなし、髪型もえりあしで素っ気無くカットしていた。なによりも自分に話しかけるその態度があまりに真摯だったことがアカリの胸にはこたえたのだ。
(あの子の目は澄んでいた。祈るように両手を合わせて話すあのポーズはばっちりきまっていたし。うーん、やはりここにも教会ってあるんだな。それも本格的なカトリックっぽいぞ。まったくどうなってんだよ、教会の吸血鬼司祭なんて)
はっ、とアカリは自分が現在いままでの経緯を整理していたのだということをやっと思い出した。
(えーと、どこまでいったんだっけ)
いつの間にかベッドに散らばっているメモをあわてて拾う。そこには一年前と書いてあった。
(そうそう会社がつぶれたのはボクのせいじゃない、と。そんでそのあと半年くらいはボクが会社の旧経営陣と政府の会社更生法に基づく再建委員会との間で綱引きになっていたらしいんだよな。でもこの半年間でようやくボクの意識も段階的にパッチリしてきたんだから、その経緯はところどころ記憶にも残ってるんだ。意識が戻るか。あーあ、でも意識がはっきり戻ったおかげでショックを受けたんだよなあ)
アカリはバフンとベッドに倒れこんだ。
(だってさあ、気がついてみると吸血鬼の天下なんだもんなあ。もうたのむよ)
まわりにいるのが人間ではなくて吸血鬼だと気づいたばかりのときの気持ちをアカリはくっきりと思い出す。会う人ごとに自分の目をゴシゴシこすっては人間か吸血鬼かを区別しようとしていたあの毎日のあせった気持ちを。
(だからパニクってついあんな単独記者会見なんてやっちゃったんだ。ひどかったなあ、あんときのボク。あれを見たら中村さんじゃなくたってつっこみたくなりますわ。ああ、新聞の縮刷版よ消えてくれえ)
半年前、アカリはまだ人間が他にもいっぱい残っていると信じていた。というかむしろ自分のまわりが吸血鬼だという環境はあくまで突発的な事故的状況だと判断していた。
(だから「仲間よ集まれ! 早く吸血鬼打倒の行動を起こせ! 一刻も早くボクを迎えに来てくれ!」って素直に発信しただけなんだ。そのつもりで雑誌のインタビューだってどんどん受けたし。ああもう、やだやだやだ!)
ところが世間は〝しゃべれるウシの楽しい妄言〟扱いでゴシップ紙しか取材に来なかった。というのも一流マスコミ各社はアカリをサピエスとしてすら認めずに、そんじょそこらにいる売名目的で騒ぐただの目立ちたがり屋とみなしたからだ。
(誰もボクをサピエスと認めやしない。つまりボクも吸血鬼の仲間ってわけさ。吸血鬼どもに仲間あつかいされちゃったあのときはほんとガックリきたなあ)
でも今は……アカリはまたアヤメたち三人のことを思い出していた。
(だけど、あんなきれいな子たちに仲間あつかいされちゃうのはちょっと嬉しいかも……)
アカリはアヤメたちのことを近しく思うことにだんだん抵抗がなくなってきた。
(だってえ、ハッキリ言って超カワイイ子たちだよ?)
ぽうっ、とふやけたような目つきでぼんやりと宙をながめながらアカリは思い描く。ジャケッツ姿のアヤメ、きのうの江奈邸での普段着のアヤメ、そしてまだ見たことのない水着姿のアヤメ。そうとも。真夏のプールサイドで赤裸々な太陽に照らし出されるあらわな肩が、あらわな腹部が、そしてあらわなほかの部分が。
(そ、それはともかくとして! 彼女たちはボクをサピエスと認めながらも仲間あつかいしてくれるんだもの! そりゃ、す、少しは嬉しく感じたってあたりまえだろ? だよね?)
ふいにさきほどのクラスでの最後の光景、スクーリング出席確認のようすが思い出される。
(あ……考えてみればクラスのみんなだって、そうだな。ボクをサピエスと知って参加を希望したんだよね。それもあんな熱心に。それって、ボクのことを仲間だって受け入れてくれるってことなの?)
アカリの考えはまた半年前に立ち戻った。
(確かに半年前にもボクに〝人権〟が発生したんだよなあ。だけどその人権ってやつはアヤメちゃんやクラスのみんなの受け取り方とは全然ちがってた。ボクはどうせサピエスを語る詐欺師まがいの同胞だから、って理由にすぎないんだもの。笑っちゃう。なにしろ社会の良識派がよってたかってボクのことをサピエスじゃないと言い張るんだから、消去法によってボクもこの世界の市民というわけなんだよね。おかげで「会社の所有物」としては不適切となり、結局は江奈さんに引き取ってもらえたんだ。皮肉なもんだよ)
アカリは両腕をまくらにしてベッドにあお向けになる。
(江奈さんかあ……)
アカリは江奈の笑顔を天井に見ていた。
めった打ちにされたボクサーみたいにボロボロだったアカリに救いの手を差し伸べた唯一の人物。それが江奈裕一郎だった。
戸籍すら定かでなく法的処分の決まらないアカリは、不法滞在者専用収監センターやら失業者支援村やらいろいろな施設を転々とさせられた。そのたびに履歴を聞かれ、創作話はやめろとののしられ、処分未決のラベルを胸に張られて個室に閉じ込められ、また次の行き先が決まるのを待つ日々。
アカリの主張で公的機関に認められたのは性別と未成年者ということだけで、「柴咲アカリ」という名前すら「通称」という扱いを受けた。
誰もアカリの話を真正面から聞こうとはしなかった。
いつしか涙も枯れ果て、自己のアイデンティティーすらゆらぎ、心はすさんでいった。
そこへ江奈裕一郎が来たのだ。
椅子がふたつしかない殺風景な施設の部屋で、初対面の江奈はアカリの前で何もしゃべらなかった。
彼はただアカリの両肩に手をかけ、そして物静かに微笑んだ。
自分のほほを濡らしているのが涙だと気づいたとき、アカリはとても不思議な感じがしたのを今でも忘れることができない。
あのとき自分に向けてくれたあの微笑みをアカリは一生わすれないと今も心に誓っている。
あの暖かい微笑みの中には実はどうしようもない寂しさが隠れていて、それがきっとあのときの自分の心に共鳴したのかもしれないとアカリが考えるようになったのはそれからだいぶ経ってのことだった。その隠された寂しさが何なのかは今もってアカリにも不明なのだが。
(江奈のおじさんか。あの人を見ていると吸血鬼にもいい吸血鬼がいるってことがよくわかるな。錯乱気味のボクを落ち着かせてくれて、社会見学もじっくりさせてくれるなんてホントいい人だよな。なによりボクの話を真剣に聞いてくれた初めての人だもん。それにこの世界の名探偵だし、あの人とならボクが自分の世界を取り戻すことも不可能じゃないって気がしてくるんだ)
体の内側から沸き起こる勇気にひっぱられるようにしてアカリはベッドの脇に立ち上がる。
(そしていよいよこのアルカディア学園なんだ!)
それはたしか七月の初めだった。
いつものように町のいろいろな施設をふたりで一緒に見てまわっている最中に、ポンとアカリの肩をたたいて江奈はこう言ったのだ。
「アカリくん、だいぶ慣れたね。歩き方でわかる。そろそろ社会の内部に踏み込む時期だ。どうだい? どこかで働いてみないかい。ぼくらが共有しているサピエス人類説の謎を解くためにも、それがいちばんだと思うが」
それにしても、とアカリは思う。
(それにしてもすごすぎだよ、江奈のおじさんは。ぼくの就活のために警視総監を引っ張り出すなんてさ! こんな超リッチな学校の先生を世話してくれるなんて! これにこたえなきゃ男がすたるってもんだぜ、アカリ! っていきごんでいたのに……)
アカリのエネルギーは先ほどの教室における光景のフラッシュバックと共に急速に雲散霧消した。アカリはまたベッドへ沈んだ。
(初日からこれだもんなあ。へこむ。吸血鬼世界の特徴を調べようと思ったのに手ごたえはサッパリ。だってあの子たちはどっからみても普通の女子高生なんだもん)
アカリは目を閉じる。クラスの子たちの目つきが浮かぶ。みんなキラキラ星を瞳にいれていっぱい輝いていた。
(ボクの存在なんかいともあっさり受け入れちゃって。柔軟なんだなあ、ボクよりもずっとずっと。ほんと、あの教室にいると、ギャアギャア騒いでるのはボクひとりでそんなボクにかまわず世界は今日も回ってます、って思わされちゃうんだよな。江奈さんと話しているときは常に適度の緊張感があって「よし、ボクはあきらめないぞっ」って思えるのに)
アカリはため息をつく。
(けど、さっきの教室にいると何がホントなのか分からなくなるうえに、たとえボクの言い分が真実だとしてもそれがいったいナンなの? ってな気にもなっちゃうんだよね。こんな気分は初めてだよ)
またアヤメの顔が思い出された。
(それにアヤメちゃん、ムクゲちゃん、マクラちゃん……ボクのことをあんなに心配してくれて。まだ出会ったばかりなのにボクのために徹夜までして紹介パンフを作ってくれたりして。もしあの子たちがほんとうに吸血鬼なら、吸血鬼っていったいナンなの? いい子たちだもんなあ……。
だいいちどうして誰も吸血鬼って単語すら知らないんだ? あの子たちも江奈さんも、だあれも知らないからいっつも一から説明しなくちゃなんない。いいかげん疲れたよ。
あー、もうボクどうしようかなあ?
もうヘンに我をはらずに、あの子たちと仲良くやっていったほうがいいんじゃないのか? どのみち生きていくのはこの世界しかないんだし。ボクさえこの現実を受け入れれば万事が丸くいくんだよ)
アカリはまたもや昨夜の江奈邸で見たアヤメたちの露出度の高い服を思い出していた。頭が相当疲れたのか、もはやそういう事柄しか思いつかないようだった。
(ボクをのぞきこんでいた三人の顔を見たとき、びっくりしたよなあ。あっ、裸の女の子たちがボクを見ている! そう思っちゃったもんなあ。だって肩から上しか見えなかったけどそこには何も着てないんだもの、無理ないでしょ?)
ほんとうはタンクトップの肩ひもをかけている子もいたのだが、アカリには区別できなかった。おそらくまだ薬の影響が残っていたのだろう。
(それになあ、あの背中がまた。布がほとんどないんだもん。結んであるひも一本じゃん。あの子たちって泳ぎに来てたわけ? それでもちょっと開けすぎです! 問題ありますよ。
そうだよ、ボクはこれからキミたちの先生なんだからね!)
そう言いながらもほおづえをついたアカリの口はだらしなくヘラヘラ笑いの弧を描いている。
(これからボクずっとここのセンセイできるのかなあ? できたらちょっといいかも。そいでみんなと仲良しの仲間になって、これからも楽しく……)
はっとしてアカリは目を開け体を起こす。
(な、なに考えてんだよ、ボクったら! い、いかんいかん。こんな弱気では……ふう、暑い暑い)
エアコンのリモコンをとり温度を下げるボタンを押すと、アカリはラガーシャツのボタンを全部ひらいた。
(あーあ、それにしてもよりによってあの三人に全裸で発見されるなんて。かっこわりー。
まさかボクのこと変態とか思ってないだろうなあ。その辺はちゃんとはっきりしとかなきゃ。どうしてあんな時刻に全裸で横たわっていたかという理由をきちんと………あれ?)
ここまできてやっとアカリは一番たいせつなことに気がついた。
(おい待てよアカリ! なんでボクったら昨日の夜にあんなとこにいたんだよ。それもまっぱだかでさ? そうだそうだそうだよ柴咲アカリ!)
なぜこのことを今まで疑問に思わなかったのか自分でも不思議だった。
(ちくしょう、ボケボケじゃんか。どうもきのうから頭がいまひとつなんだよなあ。だけどまずいよ。もうすぐあの三人が迎えに来るよ。それまでに「ちゃんとした理由」ってやつを用意しとかなきゃだめだよ!)
アカリはあせってメモ用紙をさがし、書いてあるページなどバリっと破って捨ててしまった。
(整理整理。ボクが裸で海岸に寝ていた理由、と)
アカリはうすらぼけた記憶のドアに鍵をつっこむような気持ちでメモ用紙に一語一語強い筆圧でそう書いてみた。
(……覚えてない。バカな! そんなわけない! 落ち着けアカリ。これもひとつひとつやっていくんだ! ああ、でもなんだってあんな海岸に行ったのか、全然覚えてないぞ。うわあ)
アカリはベッドに座り込み両手で髪の毛をくしゃくしゃにした。
(待てよ、じゃその前は何してた? 海岸にいたのは真夜中だろ。その前、きのうの朝は何から始めた? ……そうだ、江奈さんに連れられて警察の偉い人にお昼ご飯ごちそうになりに行ったんだ。そうそう、話題はボクの就職のことで、あとはいま町中の評判になっている落下寸前の人工衛星のこととか話したじゃないか。そして昼食にボクはカニコロッケとオレンジジュースを注文したんだ!)
頭の回路が次々点灯していく気分がアカリを元気づけた。
アカリはきのうの渋谷の町並みを思い出した。
警察の大物に会うというので吸血鬼のボディガードが何人もくるぞと楽しみにしていたアカリだが、行ってみると人のよさそうな初老のおじさんがハチ公前にぽつんとひとり待っていたのでがっかりした。
そのおじさんは会うとすぐに文句を言い始めた。
「もう最近の渋谷はわけがわからん。江奈、おまえさんが店を決めてくれ! うわ、何だあの服は? コスプレってやつは秋葉原だけじゃないのか。早く店に入ろう!」
そんなにいやならどうして渋谷にしたのかとつっこみたかったが、江奈さんの家からは近いのでまあ文句も言えないなとアカリはおとなしくふたりの大人について歩いた。でもそのおじさんが町の通りをあんまりいやがるので結局あたらしい駅ビルのレストランにしたのだ。
(あのひと警視総監って言ってたけどホントかな? だって腰の低いひとだったもんねえ)
並んで入った高級そうな店では注文したあとも長々と待たされたあげくに、アカリ用には「サピエスのエサ風味・牧草のコロッケ」それに血のたっぷり入ったオレンジジュースが出てきて、結局アカリはいつものように江奈邸専属のコックが持たせてくれた特製のお弁当を食べなくてはならなかった。だがそのとき警視総監はアカリにすごく謝ったのだ。
「す、すまんすまん柴咲くん。きみを侮辱するつもりなぞ毛頭ないんじゃよ。ほんとだ。この里見剛三、神かけて誓う。わしは、つまりその、若いきみならこの街がいいんじゃないかと思って、えーと、まったくなんて所なんだ、渋谷は!」
これがアカリに好印象を与えた。もっともアカリにとっては町のレストランでこんなものが出されるのはもう慣れっこだったのだが。
アカリの就職先はあっという間に決まってしまい、あとはふたりで大人の話をしていたのでアカリは弁当をもくもくと食べていただけだった。
(そのあとどうしたっけ? そうか、江奈さんはその警察の偉い人と警視庁へ行くって言うからボクは江奈さんの家にひとりで帰ったんだよな)
ここでまたアカリの記憶がとぎれた。これではまるで氷づけになったあの三年前のときのようだ。いったいいつから自分はこんなに記憶力の悪い子になってしまったのか? アカリは自分を嘆いた。
(あれ? ほんとにまっすぐ家に帰ったっけ? えーと、代官山の駅ではちゃんと降りたよな。うん、降りた降りた。いつもの改札を出て坂を下って……)
夕暮れどきの代官山。駅前のしゃれた店たちのすまし顔が物憂いセピア色の時間。
途中で横道を下り帰り道を急ぐアカリ。住宅街のせまい道筋を何台も大きい乗用車が礼儀正しく脇を通り抜けていく。アカリにはそれがみんな高級車ブランドでは唯一名前を知っているベンツに見える。右に入って坂をのぼればもうすぐ江奈おじさんの家だ……
アカリの中で閃光がひらめいた。
(ああっ、そうだ! あの坂道の入り口で誰かに声をかけられたんだ)
そこに彼らはいた。
それはサラリーマン風の男や女やら総計六、七人の集団だった。彼らの人相風体が異様なくらい鮮明にアカリの頭の中に踊った。
(四人は男。うち眼鏡がふたり。ひとりは黒縁、もうひとりは茶色のフレーム。女は眼鏡なし)
誰一人として際立った服装はなく、ビジネススーツを着用した人たちという一言で片づけてしまえる集団なのだがアカリはひとりひとりの顔立ちまで思い出せた。
そのうちの背が低くて眉毛がやたらに濃いやせぎすの中年男性が口を開く。
「柴咲さん、ですな? アカリさん、でしたかな。間違いないですな?」
やけに甲高い声だ。その嫌な声と共にアカリの耳にまとわりつく蒸し暑く無風の空気の湿り気までアカリは思い出せた。
それでいて肝心の会話がなにひとつ思い出せないのだ。
そんなバカな、とアカリはあせった。
(あいつら、ボクにすれちがうなり何かすごく気になるようなことを言ったじゃないか。それでつい立ち止まって返事までしちゃったんじゃないか。それが何だったか、どうして思い出せない? うっ)
会話を思い出そうとするとアカリの頭の中で何か黒い壁がたちふさがるような妙な感覚がした。
(あ、したじゃないか、握手)
ふいにアカリはひとつの映像を脳内で見ていた。
なぜか彼らが次々とアカリと握手する場面だ。アカリはつい自分の手のひらをみつめたが、確かにそこにはきのうの握手の感覚が残っていた。だがそれはとても気持ちの悪い感触だった。
そして映像は不意に途切れた。
(だめだ。会話が思い出せない。何を話したかまるで忘れちゃってる。ちくしょう、なんでだ?)
また霧の中で泳いでいるような感覚がアカリをおおう。
(しかたない。ここはいったん飛ばそう。で、そのあとは歩いて帰って、やたら眠いんでベッドに入って、寝た? そうだよな?)
なんとなくそんな気がしたが、誰が玄関を開けてくれたかが思い出せなかった。セキュリティのきびしい江奈邸でこれはありえないことだった。
(やっぱりボクきのう帰ってないよ!)
だんだんアカリはぞっとしてきた。
(じゃあどこで寝たんだ? あ、なんか覚えてるぞ。えらく寝心地の悪いところだったような。そうそう、ちょっと目をさましたら確か砂の上に寝てなかったか? つぎにちょっと目を覚ましたら海岸に倒れていて)
夜の星空を見て、どうして天井に星があるのかなと寝ぼけつつ再び寝入ったことがアカリの頭をよぎる。
(それでやっと江奈さんの寝室で本格的に目を覚ましたんだ。そしたら……)
いきなりアヤメ、ムクゲ、マクラのキラキラした顔が大写しで脳内に広がった。
(うわわっ! そしたらあの三人娘がボクをのぞきこんでて、ボクはパンツもはいてなくて……どひぇえ!)
誰も見てないのに真っ赤になったアカリはベッドに転がってちぢこまった。
(ああ、やめたやめた! 恥ずかしいったらありゃしない。ちくしょう、今日はなんて蒸し暑いんだ)
何の気なしにアカリは体の向きを変えると横向きに突っ立った玄関ドアが目に入った。
(ありゃ? なんだ、ドアが開いてんな。どおりでいつまでたってもエアコンがきかないわけだよ)
最新式磁気カードシステム錠に慣れていないアカリはまだ玄関を施錠してなかったことを思い出した。どうせ誰もいない夏休みの職員棟なのだ。
(最新式のくせに風でドアが開くなんて、けっこうガタがきてる部屋なのかな。ちぇ、バカにしてるよ。よいしょ、鍵のカードをここに入れるんだよな)
バサバサバサーッ。
背後から何かが暴力的にアカリにおおいかぶさった。
「うわわ? いてててて!」
腕をねじあげられたと思ったら、アカリの口は急に開かなくなった。
「むぐふ! ぐぐぐぐう」
「騒いでも無駄だ! そのタオルバンドはめったなことでは取れはせぬ。声は出せぬし動くこともできまい」
誰かいる!
「ふぁれふぁー!」
「誰かだと? お前のよく知っている者ではないか、柴咲アカリ。それ、転がれ」
「むー!」
あおむけに転がされるとアカリの両腕の付け根に激痛が走った。そいつが馬乗りになってきたのだ。
「どうだ。こうやって馬乗りになって肩を両膝で押さえれば絶対に動けはしないぞ」
それでもアカリは敵の正体を見極めようと必死に目をこらした。サングラスをしてるうえにやけに黒っぽい服装で、マントのようなものまではおっているようだった。
だがその口にはえた巨大な牙を見たとたんアカリには突如としてそいつの全体像がすみずみまでくっきりとわかってしまった。
なぜならそれはドラキュラ伯爵そのものの装いだったから!
「さあ観念しておとなしく吸われろ」
真っ黒な服に襟の立った真っ黒なマント。ムダにきれいに整った髪型。くまどりされたような恐ろしい眉毛に裂けたような唇。その背後には特大の悪魔の翼が!
だが声だけがその外見とは似合わない少女のようなか細い高音だった。
「ふう? ふぁにを?」
「何を吸うのかだと? 決まっておろう! きさまの血だ。アハハハハ! 一適のこらず吸ってやるぞ!」
「ふゅうふぇふひいー!」
「吸血鬼? あはっ! そうだよ、そのとおりだ。吸血鬼でもヴァンパイアでも好きなように呼ぶがいい。我輩の空腹も限界だ。久しぶりの人間め、いただくぞ」
「ふぁへふあああ!」
「いま誰かって助けを呼んだのか? はっ、もしかしてあなた怖がってる? ハハ、やった、キャハハハハハ」
そいつは片手の甲を上にして口にもっていき哄笑した。
ちくしょう女みたいに笑いやがって、とアカリは最後の根性をだした。
「こあーっ!」
「あ、こいつ、あばれるな!」
「がっ! ぐは……つつつつ」
「バカ者め。無理に背中なぞそらすからベッドの脚に頭をぶつけたろうが。ふん、それとも顔でもこすったか。さあ、吸ってやるから首をこっちへ向けろ。うん? おまえ、顔に何かついてるぞ? うわっ、ち、血だ、血を流してる! あ、しまった、サングラスがとれちゃってる。これじゃ流血が丸見え、し、しまったあ! あああ……うーん……」
力なく敵が後ろにくずれ落ちたのでアカリの体は自由になった。
「ぐぷぷ、ぺっー! ハアハア、やっと取れた。なんてきついバンドだ。ふう、もう少しで窒息するところだったぞ」
念のためアカリは自分の首をさわってみたが噛まれた感じはなかった。
「ちっくしょう、やっぱりいやがったなあ吸血鬼め。ボクの血を吸おうとしやがって」
怒りながらも、これであの中村って委員長の子にもボクは襲われたよって言ってやれるじゃないかザマアミロ、などとアカリはどこか得意なものを感じていた。
「そうだよ。こいつ自分で吸血鬼だってはっきり言ってたもの。吸血鬼って言葉はこの世界にちゃんとあるんじゃないか。ぼくの妄想なんかじゃないんだ。見ろよ、この鋭い牙。ほら、コウモリ翼のでっけえこと」
アカリは徐々に爽快感さえおぼえていた。
「ボクのことも人間だって言ってた。しっかり聞かせてもらったからな! もうごまかされないぞ。こいつは吸血鬼でボクは人間。そういうことなんだ。ちぇ、わかりきったことじゃんか」
アカリの気持ちはどんどん高揚していき、このことを早く江奈に伝えたいと思った。ところがここで急に額が痛んだ。
「いっててて。あ、おでこから血が出てる?」
急いで浴室の鏡へ走ると額からほんの少し出血しているのがわかった。たいしたこともないカスリ傷だ。
「あっといけね、それどころじゃないや。こいつをなんとかしないとあぶないよね。えーと、そうだ引越し用のひもがあったっけ」
アカリは倒れている敵の手足をひもできつく縛りあげた。
「それにしてもいきなり倒れちまって、どうしたんだ、こいつ? よーし、おかえしだ。このタオルみたいなバンドで口を封じてやれ」
アカリはタオルバンドをそいつの顔にかけようと頭を持ち上げた。意外にもきゃしゃな体なのがそのときわかりアカリは困惑した。
江奈のおじさんを思わせるようなオールバックに固めた髪が乱れて耳のあたりにかかっているが、それはまるで女の子のような横顔。おまけにうなじのあたりもへんになまめかしい。だいいちかなり若い。
よく見ると服もブカブカでフィットしていない。顔のほうもかなり厚い化粧をしてるようで、なんだか学園祭かなにかで女子高生がドラキュラのコスプレをしてるみたいな印象をアカリは受けていた。
「ちぇ、そんなかわいいもんか。ともかく口だけはふさがなきゃ。それ! あ? ああ!」
ポロリと牙が落ちた。
「これは……」
明らかにつくりもの。それもパーティーグッズのようなペラペラの安物だ。
「おい! こりゃどういうことなんだよ!」
アカリはつい敵の肩を乱暴にゆすった。
ガチャン、パチン、ドサン。
「うわあ! つ、翼が、落ちた?」
怪奇映画で見たとおりの大コウモリの羽だとさっきまで怖がっていた翼が突然だらしなく床に転がった。
その翼からはプラスチック製の器具がとび出ている。
「こりゃ何だよ。あれ、こいつの背中からも何か出てるぞ?」
確かめるとそれはリュックサックやウエストバックによくあるような着脱自在の留めつけ器具だった。背中と翼がちょうどぴったり対になっている。
「ということは、全部つくりもの? そんな……」
ペタンとベッドに尻もちをついたアカリは、ただ無意識に牙のオモチャを握りしめていた。
# 7
(うー、気持ち悪いわ。頭がふらふらする。もろに鮮血なんか直視したからだ)
目のさめた霧島冴子はふらつく頭を手で押さえようとしたが、なぜか両手がいうことをきかなかった。
(手もあがらないほど気持ち悪いんだわ。そりゃそうよ。花粉アレルギーよりも始末の悪いわたしのこの『血色アレルギー』。給食の紅茶に混ぜた赤い血の色を見ただけで立ちくらみするのに、今日のは〝人間〟のナマの血だもの、色が濃くってゲロゲロだわ)
ここでようやく霧島冴子は違和感を感じた。
(え? なんで人間? 人間がどうしたって?)
自分がどうしてこんな黒ずくめの服なんか着ているのか冴子は理解に苦しんだ。普段はこんな趣味じゃないのに、なぜ?
そのとたん、頭がさえわたった。
(あ、そうだった。失敗しちゃったんだ! 早く逃げなきゃ)
立とうとしてすぐにドスンと尻もちをついた。
(なんで手足が動かないの。えっ、わたし縛られてる? ここは警察? 独房かしら?)
「早いな、もう気がついたのか。ほら、これでも飲めよ」
「わわっ! 誰かいるの!」
冴子がふりむくとアカリが缶コーヒーを差し出していた。
(ああッ、柴咲アカリだ! なによ、コーヒーなんて差し出しちゃって。こっちは後ろ手に縛られてんのよ!)
冴子はせいいっぱいアカリをにらみつけた。
せっかくの整髪剤で固めた髪も今はかなりバラバラとほどけていた。えりあしは短髪だが前髪はけっこう長く、いくすじにも顔にかかる黒髪はかなり美しいつやを見せている。
無理に大きくひいた真っ赤なルージュの下にかくれた唇は愛らしいほど小さく、キッとにらむその口から見える歯並びはとてもきれいだ。
ややほおははっているものの、形のいい耳からあごへの輪郭がきりりとしたボーイッシュな印象をつくっていた。
だがなんといっても特徴的なのはその攻撃的な目だ。変にくまどりしたせいで目立たないが、うすい眉毛がややつりあがる傾斜でさらにその好戦的なまなざしを強化している。そしてその若く鋭い眼光が冴子の表情全体を輝かせていた。
しかし整った顔立ちとはうらはらに服はダブダブで、えりのところからうなじといっしょに鎖骨のラインまでがちょっぴり顔をのぞかせている。
すわりかたも両膝をあわせたりして、どこか弱々しい。
だがそんな外見にはお構いなしのアカリは冷たく言う。
「ふん、牙もニセモンだな。いったいどうなってんだ。お前どこの生徒だよ。女子校の寮なんかに忍びこんだりして」
(ああっ、牙のマウスピースがない! わわッ、翼も取れちゃってる。カッコわるうー!)
冴子は穴があったら入りたい式に体をちぢめた。
「ここの女の子をおどかすつもりだったのか? なんだよ、このバカでっかい作り物の翼は。背中にあるほうの本物の翼はまるでちっちゃいじゃないか」
アカリの指摘に、まるでカーニバルのような厚化粧をほどこしている冴子の顔が真っ赤になり、耳から蒸気がとびだす勢いで体ごと跳ねた。
「わたしの体に、さ、さわったの? エッチ! スケベー! 異常性欲者!」
「異常性欲者ってなんだよ! そんな言葉ないよ! それにエッチって……あの、まさかお前、女の子?」
アカリのこの言葉に冴子はまた別の意味で顔を真っ赤にした。つまり怒りの意味合いをこめて。
(お、お、お、女の子かですって? 体さわったくせにわかんないのかよ、キィーッ!
どうせ胸ちいさいわよ!)
涙目の冴子はアカリをにらんでにらんでにらみまくった。
「な、なんだよ。言いたいことあんならはっきり言いなよ」
「こうなったら絶対あなたの血を吸ってやるから! 見てらっしゃい!」
めいっぱいの呪詛をぶつけたつもりだった。それなのにアカリの顔はパッと輝いた。
「そうだよ! それなんだよ!」
と、場違いなほど明るいこの反応に冴子は当惑した。
(そ、それってどれよ? なんなのよ、目をキラキラさせちゃって)
薄笑いを浮かべたアカリが這うようにして冴子に近づいていく。
(ちょ、ちょっとやめなさいよ。この男わたしに何かする気なの。そんなに近くに来ないで! お、大声あげるべきかしら?)
びしっとアカリの人差し指が冴子の唇のまん前に突きつけられた。
「しっ! いいか、よく聞け。君にはもう時間がないんだぞ。そろそろ学園の生徒三人がこの部屋に来るころなんだ。ボクはここの先生なんだからね」
「し、知ってるわよ」
「知ってる? さては教室で立ち聞きしたな。ま、どうでもいいけど、彼女たちが来たらボクはもう学園長か警察に通報せざるを得ない」
「警察はやめて!」
「だったら答えるんだ。君はさっき自分を吸血鬼と認めたな?」
アカリはおでことおでこがくっつくくらい冴子に近づいた。冴子はもうとっくに壁際まで後退していて逃げ場がなかった。
この真夏にただでさえ厚着をしている冴子の全身からどっと汗がふきだす。
「そ、それがどうかして?」
「おおっ、認めた! それにさっきボクのことを人間と言ったよね!」
アカリの顔はもう限度をはるかに超えて接近している。冴子の顔は逃れる場所を求めて右往左往している。
「は、離れてくださる? も、もちろんあなたが人間だってことも知ってるわよ。それでご満足? もういいならナワをほどいてよ」
「まだダメだ。どうして君だけが、どうしてこの広い東京の中で君ひとりだけが、ボクに向かって自分は吸血鬼だと名のるんだ。だいいち吸血鬼という言葉をどこで知った? さあ、もう彼女たちが来るぞ。簡潔に答えるんだ。それとも警察で聞くか」
「警察はダメ! 答えるから」
冴子が真正面を向く。
「よし。さあ、どうしてなんだ」
「それは、わたしがあなたと同じ〝記憶保持者〟だからよ!」
思わず後ろに体をひいたアカリは眉間にしわをよせて聞き返す。
「記憶……ホジシャ?……なんだ、それ?」
ふうう、と一息つきながら冴子は軽く目をつぶった。やっと男の匂いが離れていった。血の色の次に冴子が苦手なのは男の汗くささなのだ。
呼吸を整えてから冴子は言った。
「あなたがどうして記憶保持者になったか知らないけれど、わたしは人工的にそうされたのよ。両親によって先祖返りを強制された」
アカリはますます首をかしげた。
「意味がわかんないよ。先祖返り?」
相手の勢いが弱まったすきに冴子の頭脳はフル回転しだした。
(ちっ、早くナワ抜けしないと警察につき出されちゃう。そしたらすぐに病院に逆戻りよ。そんな事になったらわたしは一生アレルギーのままだわ。そうなる前になんとしてもこいつの血を吸い取ってしまわなければ。計画遂行よ)
「そうか、時間稼ぎにデタラメ言ってるな。バカにされるのはもううんざりしてんだ。いますぐに警察を呼んでやる」
きのうきょうと疲れのたまっているアカリはこらえ性がなくなっていた。それでなくともちょっと気が短いほうなのだ。
「ほ、ほんとうの話よ。もとはといえばあなたが原因なのよ」
「ボクが原因?」
次から次への予期せぬ返答にあかりは驚きっぱなしだった。
そのややこどもじみたアカリの表情を見つめながら冴子は思う。
(そうよ。あなたのおかげでわたしはこうなってしまったんだわ、知ってるの? でもそのあなたこそが今のわたしにとって唯一の希望でもあるのよ、この柴咲アカリめ!)
「あんまりでたらめ言うと……」
「ウソなもんですか! お聞きなさいよ!」
「あ、は、はい」
冴子のけんまくにアカリは一瞬おされてしまった。
実際その冴子の口調には何か積年の恨みのようなものがこもっていた。
「あなた! 氷づけで発見されたあとに吸血鬼伝説なんかをまことしやかに言いふらしたでしょ」
「い、言いふらすなんて、それは事実だから……」
「わたしの親もね、それを事実だと受け取ったのよ!」
「え、ほんと?」
「ええホントですとも、うちの科学者のバカ親どもがね! それに刺激されちゃってDNA回復研究てのを始めたのよ。よりによって実の娘を実験台に使ってね!」
今度は冴子がアカリに顔を突き出した。アカリはびくっと頭を引く。
「もしもあなたの吹聴する吸血鬼伝説が真実で、吸血鬼の子孫たる私たちのDNAから先祖の記憶の一部でもよみがえらせることができれば、それをES細胞化して培養できる。その培養ES細胞を私たちの体に移植すれば、私たちは先祖の驚異的な身体能力を再び獲得できるって」
アカリは目をシロクロさせた。
「えと、よくわかんないけど、なんかマッドだな」
「マッドだなんて、あなたに言われたかないわよ!」
「ご、ごめん」
アカリはしょぼんと下を向いた。
(ふん? バカに素直なのね。も、もう少しでナワ抜けできそう)
冴子は背後でさかんに両手を動かしている。
「両親はそのとおりやってのけたのよ。わたしは勝手にDNAを変えられた」
急に冴子の手がとまる。
冴子の頭の中に両親の実験室の光景がよみがえったからだ。
電極の青白い光に下から照らしだされる白衣の両親。よそよそしく立ち並ぶ不気味で残酷な実験器具たち。実験台の丸い照明。その照明に焼きつけられる私。そこには実験台の四隅に手足を固定され、長い髪を左右に激しく振り乱しながら、やめてと泣き叫ぶ少女の姿。両親の歓喜の表情。
そこへ目を焦がす赤い閃光が!
「DNAって?」
(あわわ! なんだ柴咲アカリか。ふん、しけた顔して。こんな情けないやつのために、わたしは……わたしは……)
「で?」
「ああ、しつこいわね! 説明してるじゃない!」
「ご、ごめん」
冴子はひもの中の後ろ手をさかんに動かし始めた。
「でもDNAを変えられたおかげでね、わたしは思い出したわ。先祖の記憶を。それはそれはたくさんね。人間の存亡をかけて戦っていた時代の記憶」
「ホントか! じゃあ君はどうしてこの世界がこんなふうになっちゃったのか知ってるんだね?」
アカリの興奮した両手が冴子の肩をつかんだ。
「え? こんなふうって?」
冴子はどうしてこんなにアカリが興奮するのかわからなかった。
「だからさ、なんで吸血鬼が世界を支配するようになっちゃったかって、そのいきさつだよ。いったい何が起こったのか教えてほしいんだ。核戦争? それとも異常気象?」
(なに言ってるのかしら? こんなに真剣な顔しちゃって)
冴子はあきれたように言う。
「変わったって、何が? 最初から私たちが地球の支配者だよ?」
「は? で、でも君はいま人間が吸血鬼と戦っていたって」
「ああ、人間ていうのはもちろんわたしたちのことだよ。あなたのことじゃない。だってそれはサピエスの大反乱事件の話でしょ。今ではその事件を覚えている人は誰もいないけどね。それともあなたは何か別の話をしてるの?」
アカリはがっくりと膝をつき首をうなだれた。
(おやおや、どうしたのよ。ああっ! やっと手のナワがはずれた! よおし、足の方はこいつを倒してからゆっくり取ればいいや)
アカリが下を向いたままでいるのを確かめると、冴子はそっと用意した。
「ねえ、あなたの首の後ろに蚊がとまっているわよ」
「え、どこ?」
「えい!」
「いてっ! あ、何だこれ?」
「さっき言ったでしょ、タオルバンドよ。しばらくはそうやってベッドの脚と仲良くしていて。今度はきつくしばったから、自力でとるのはあなたには無理ね。もうすぐここにやってくる誰かさんにとってもらえば? アハハハハ」
さっきのように口の前で片手の甲を上にして冴子は笑った。
「さあて、続きをやるか。あ? サングラスは?」
どうしたわけかサングラスが見つからない。冴子は悔しげに唇をかんだ。
「ち、運のいいやつめ。しかたない。出直してやる。だが必ず吸うからな! せいぜい恐怖におびえるがいい、柴咲アカリめ!」
冴子はドアに向かった。
「に、逃げるな。逃げないでよ。もっと話が聞きたいんだ。警察なんかに知らせないから」
アカリが叫んだ。そのあまりにも真剣な懇願口調はちょっぴり冴子の気を引いた。
「ほんとかなあ? でも今は失礼するわ」
「た、たのむよ。 待って! 何でもお礼はするから!」
血を吸おうという相手にお礼とは。冴子はクスリと笑った。
「思ったよりお人よしさんねえ。そんなことよりあなた、どうして聞かなかったの?」
「え、何を?」
「わたしの名前よ。わたしはね、冴子」
「さいこ……」
「心配しなくてもまた来るわ」
「ほんとに!」
「そんなうれしそうに言わないで! ほんとよ。わたしはどうしてもあなたの血を吸わなきゃいけないから」
「血を? 本気なのか」
「だって吸血鬼だもの、あたりまえでしょ! 柴咲アカリ」
「やっぱり自分が吸血鬼だと認めるんだね! じゃあこれだけは聞かせてよ! 人間もどこか他にいるんでしょ? ねえ、どこにいるの?」
「はああ? な、なに言ってるの? 人間って、あなたみたいな種類の人間てこと?」
「そりゃそうだよ! だから、どこに行けば会えるのさ!」
「なんでそんなこと思うわけ?」
「え? だって他にもいるんだろ、人間。ボクみたいな」
「誰がそんなこと言ったの。わたしそんなこと言ってないわ」
「誰が言ったかって……あれ? 誰が言ったんだっけ。あ、そうだそうだよ。やっとわかった。それこそ彼らがボクに……え? あああああーっ!」
(なによ、こいつ。気味がわるいわ。言ってることわけわかんないし。やはり出直そう)
テーブルの上に置いてあった牙のマウスピースをひったくると冴子は廊下に飛び出し、そのまま全力ダッシュした。
「大変だあ! ボクはなんてことを! あああ!」
アカリの大声が聞こえたので足をとめた冴子だが、気を取り直して階段のかげまで走って身を隠した。
(よし、ここまで来ればいつでも建物の外に出られる。ふう、脱出成功)
もう一度廊下をのぞいたがアカリの姿はなかった。
(なあんだ、あいつ追ってこないのか。ショックを受けたのかな。それじゃ十分にダメージを与えたってことよね。わたしにもちゃんとできるじゃない! よーし、この調子よ。あとは首すじに噛みつくだけ。だ、だいじょうぶ。できるわよ。さっきだってサングラスさえはずれなきゃ、ちゃんとできたもん!)
どこからかはなやかなざわめきが響いたので冴子は再び廊下をのぞいた。
廊下のはしからアヤメ、ムクゲ、マクラがやってきていた。
(あ、来たな来たな、お人好しの三人娘が。なんだ着替えてきたのか。ちゃらちゃらおめかしなんかして、いい気なものね。ふふ、ドアが開きっぱなしになっているのを不思議がってるな。入っていく、あわてて入っていくわ。こうしてのぞいているのって、なんかおもしろいわね)
「あ、どうしたのアカリくん! しっかりして、なんかあったの!」
(まあまあ、声がよく響くこと。いかにも学校の廊下って感じよね)
部屋の中に入った三人の姿は見えなくなったが、ドアを閉めなかったらしく階段の冴子にも会話は筒抜けだった。
「まさか中村さんでも来てガンガンやられたの? おわっ! なんなのこのヘンテコな羽根は」
「まあ。ムクゲちゃん、これウィッグです。〝つけ羽根〟ですわ」
「しっ、アヤメちゃんムクゲちゃん。アカリくんがさっきから小声で何かブツブツ言ってるよ」
「ほんとですわ。え? あんなことをされたからもう先生はできない、とはどういうことですの!」
(おほほほー、心の傷はけっこう大きいようね。ああ、わたしもやればできるんだなあ。自信つくわあ、ふふ)
「された、からじゃないよ。ボクがあんなことしちゃった以上はもう講師なんてやるの無理だって言ってるの!」
(なんだアカリのやつ、元気な声だしてるじゃない。でも何いってるんだ? 変だな。わたしのことを話してるんじゃないの?)
「あの、どういうことですの?」
「けがさせたんだ……」
「え? きのう代官山の駅で変なやつらに?」
アカリの声は急に小さくなって冴子には聞き取れなくなったが、どうやら何か打ち明け話をしているらしいことは雰囲気でわかった。
「うんうん、それで? ええーっ! 元首相のじいちゃんをなぐった? そんなわけないじゃん。アカリくんはきのうオレたちと一緒にいたじゃない」
(じいちゃんをなぐったあ? 何の話なの?)
冴子は頭をひねった。
「アカリさん! どうしたんです! しっかりしてください。ご気分が悪いんですか」
「膝ついて四つんばいになるなんて、医務室へいく?」
「いいえマクラちゃん、おじさまのところへお連れしましょう。このご様子。きっとアカリさんは何か大きな悩みがおありになるのですわ。おじさま今日はずっと家にいるとおっしゃっていましたから」
「とにかくここから連れ出さなきゃダメだ。さ、アカリくん立って。オレの肩につかまって」
「いいえ! こういうときはわたくしの方が力が出ますわ。アカリさん、どうぞアヤメの背中におつかまりください。オンブいたしますわ」
「二人とも何やってんのよ。手をひっぱるだけでアカリくんは歩けるよ。さあ行こう」
「あ、オレが手をひくってば」
「いえ! こういう折にはわたくしにおまかせください。アカリさん、両手をわたくしの前にどうぞ」
(何やってんだ、あいつら? ん、外へ出てきたぞ。あれあれ、おみこし状態でかつぎ出されていったな。プッ。あいつ、ほんとうに情けないヤツだな)
どちらかというとアヤメ、ムクゲ、マクラの間でおしくらまんじゅう状態のままアカリはヨロヨロとどこかへ引っ張られていった。
(しかしまずいな。あの女のおじさまというのは江奈祐一郎のことよね。となるとちょっと手が出ない。これは少し待たなければダメか。やれやれ、まずは今夜のねぐらをなんとかしなくちゃ。そろそろ行くか)
立とうとした冴子だが、廊下で何かが動いたのを感じ、ビクリとして身をかがめた。
(おや? 誰だ? あいつの隣りの部屋から誰か出てきたぞ)
その誰かは廊下の窓から噴水広場のほうを見下ろしていた。ちょうどアカリたちがそこを通っているころだ。
(なんだ、あの赤毛のおばさんは? なんだってああもニヤニヤ笑ってあいつらのことを見送ってるんだろう。八月中の教職員寮はカラだと言ってたのに)
それは長身の女性だった。脚と腰をピンと伸ばし、腕組みをして外をのぞいている。
(あんながっちりとした体をしてるとこみるとダンスか体育の教師だな。スタイルいいなあ。でもなーんか学校の先生っぽくないけど。真っ赤な髪の毛にファッショングラス。それにあんな超ミニスカートなんて、ちょっとねえ)
カチャン。
(やばッ! またマウスピース落としちゃった。気づかれちゃう。あら? 部屋に引っこんだ。すっごいあわてて部屋にもどったな。まるで彼女の方が侵入者って感じじゃない。変なの)
冴子はしばらくじっとして様子をみたが何も起こりそうになかった。
(さあ、こっちも潮時だわ。早く学校から出て着替えてしまおう。そいでもってこのマウスピースの牙を砥いでもっともっと鋭くしなくちゃ)
来るべき運命の瞬間を想像した冴子は、ブルッと武者ぶるいのように体をさわがせた。
(カミソリくらい鋭くするんだ。そうよ、あいつの首にほんの少し触れただけでもパアッと派手に血がほとばしるようにね)