終焉
最終話
「幸福のためには幸福な人の不幸が必要」
私はあいつを決して許さない
チュン、チュンと言う鳥の囀りが聞こえ、俺は目を覚ます。
「死んだんじゃねぇんだ」
一瞬天国のように感じたが、天井があるのを確認すると、そこは現実世界だということが分かる。更に自分の身体に触れると感触が伝わってくるから、決して死んでいるわけではない事が確認できる。
首だけを回してあたりを見ると、何やら人影を感じる。見舞いにきてくれたのか。いや、しかし誰が?まず、俺が入院していることを誰が知っているのか?親の可能性もあるが、うちの親の性格上、それはあり得ない。
それは、俺に頓着がない事。昔っからそうだ。俺のことは気にせず、仕事だ何だと言って家庭は放っといていた。だから俺は親のことが余り好きではなかったし、今更心配されてもこっちから願い下げてしまいそうだ。
予想通り、親とは違った。女性だとしたらうちの母親より大きく、男性だとしてもうちの父親より小さい。では誰なんだ。と気になって仕方がないので、起き上がって確認することにした。
「あら、起きたのですね」
確認してみたら、そこにはとても見覚えのある人がいた。「どうも、加藤です」
俺は驚きの余り硬直してしまう。何故ここに?俺を陥れた人間が何故ここに?俺を殺した人間が何故?何故?何故、何故??
得体の知れない恐怖心と、数多くの疑問で頭がぐちゃぐちゃになる。ただこんがらがっているわけではない。この場の異様な雰囲気に飲まれないように抵抗しようとするが、その方法も思いつかない。
「安心してください。何もしませんし、もう貴方の前へ現れることはないです」
いつも見せていたような笑顔。いつも安心させてくれた笑顔。見た感じは明らかにそれなのだが、何処かしらから嘘臭さが滲み出てきていて、気味が悪かった。
「というわけで去りますね。最後にこれを置いていきます。気が向いたらどうか立ち寄ってみて下さい」
と混乱状態の俺に話す加藤。その調子は淡々としていて、出された名刺もついでのように置いていった。彼は蜃気楼の如く夕焼けの中に静かに消えていった。
置かれていった名刺を見ると、背景に教会の写真が映されていて、名前の方にも教会の名前が付いていた。
「大司教サイリー=キール、か…」
司祭の名前か。しかし、あの加藤が宗教家だったとはな。意外だ。確かにあの時の喋り方も制裁者のようで、聖職者のようでもあった。まあ、それが俺に恐怖心を植え付ける原因になっているのだが。
加藤の事とは関係なく、この教会のことには関係があるな。退院したら少し立ち寄ってみるか。
ここいらで人生やり直すのも悪くないしな。何て思いながら、俺は再びベットに横になることにした。
それから三日が経ち、いよいよ退院の日となる。あの恐怖の日とは違い、その空は晴れやかで、まるでこれからの新しく明るい俺の人生を暗示しているかのようだ。
「さーて、天気も良いことだし、早速向かうか〜」
と、あの名刺に記されていた教会へと向かう。場所は既に人から聞いたり何やりで確認済みだ。
数十分歩いたあと、目的の教会へ着く。春先にも関わらず草木が生い茂り、なかなかに進みにくい。本当にここなのか?とも疑ってしまう位不気味な空間だった。しかし、鬱蒼とした庭先を抜けると、開けた庭に出て大きくて立派な教会が姿を晒す。
「はぁ〜すげぇ〜」
思わず声に出てしまう。見上げると高い屋根の上に立派な十字架が佇んでいて、ここは教会なのだ、という主張をしている。
呆けて立っていると中から人が出てくる。真っ黒な服を着た人間が、庭の草花に水でもやりにきたのか、じょうろを持ってきてこちらへと向かう。
「こ、こんにちは!」
少々緊張はしていたものの、思い切って声を掛けてみる。すると
「あら、貴方ですか。お待ちしておりました。今から少々、可愛い草花に水をやりますので、中の方でお待ちください」
と教会の方を指して言う。言われたままに移動するが、何やら腑に落ちないことがある。
「あら、貴方ですか」か…。何故俺のことを知っているのだ?まあ、この教会を紹介してきたのが加藤だ、という時点で何かしの関係があることは分かるのだが、あまりにも自然過ぎる。何処まで話したんだ?あいつのことだから、きっと洗いざらいぶちまけたに違いないのだが、顔を見ただけで判別したということは、きっと顔写真まで見せたのだろう。
「お待たせいたしました。それではこちらへどうぞ」
何て色々と考えていると、すぐに時間は過ぎていたようで、目の前に先程の真っ黒い姿の人がいた。さっきは影になって見えなかったが、どうやら女性のようだ。その人に案内されるまま、聖堂のような所へと進む。
中にはテレビドラマのセットのように教会らしい置物なんかが置いてあり、イメージ通り、雰囲気がまさしく教会のそれだった。
「で、何で俺のことをを知ってるんですか?」
気になった話題は放っておけないのが俺の性格だ。唐突で、挨拶もろくにしていなかったが、とにかく気になるという気持ちの方が先に出てきて、聞かずにはいられなかった。
「私は詳しい理由は聞かされていません。ただ、顔写真を見せられていて、それと一致していたので声をかけただけです。詳しいことは奥にいるサイリー様にお聞き下さい」
「サイリー=キールさんですか」
そう聞くと黒い姿の人は「いかにも」と言って大きく頷く。
(サイリー=キールか…)
名刺に記されていた人の名前だ。この人が「様」をつけているということは、この教会の中で結構上の立場の人だと思われる。となると、結構歳をとっている可能性もあるな。加藤のあの時の喋り方は、恐らく染み付いたものだと思われるし、きっと昔からの知り合いとかなのだろうな。
「サイリー様、例のお客様です」
大聖堂を通り過ぎて、その奥にある個室に連れて行かれると、中に一人の女性がいた。この人が、例の大司教様ということなのだろう。
「ああ、貴方が葉山さんですね。お会い出来て嬉しい限りです」
長い黒髪に白い服、スラリとした清潔感のある大司教様が、透き通った綺麗な声で俺を招き入れる。見た感じ、歳は二十代位で、若々しさが見られる美しい人だ。
「さて、貴方をここへ招いたのは伸哉君でしたね。伸哉君からお話は聞いております。しかし安心して下さい。祈りを捧げ罪を償い、新たな人生を歩むことは出来ますから」
そう言うと、何やらパンフレットのようなものを取り出し、俺に勧める。そのパンフレットのようなものの内容はよく見たら聖書で、絵や図なんかを用いてかなり分かりやすいものになっていた。今まで宗教への悪印象を持っていた人も、これを見たらその印象も覆されるのではないか、というくらい親しみやすいものだった。
読み進めていくと、明るく、未来を見据えたような内容が多く、罪人は救われ、新しく生きることができるといったようなものが多かった。
なるほどな、祈りを捧げ、誠実に生きることで救いを求めるのだな。神に真実を誓い、齎される恩恵に感謝する。何だ、素晴らしい思想じゃないか。
「どうです?興味が湧いてきましたか?」
読むことにどっぷりと浸っていたため、突然かけられた声に少々驚く。その姿が面白かったのか、大司教様はクスクスと笑い、
「貴方は明るく、愉しい人ですね。是非、こちらで我々と共に生きて欲しいのですが」
と言うと、真っ白で綺麗な手を俺の方へ差し出してくる。話が早い気もするが、俺にはその手が、どうしても救いの手そのものにしか見えなくて、気付いたら吸い付いていくかのようにその手を握って
「よろしくお願いします」
と覚悟に満ちたはっきりとした声で言っていた。大司教様はもう一度クスクスと笑い、「本当に、貴方で良かった」と心底安心したような声を漏らした。それは今日の晴天のように、雲ひとつも無い透明感のある声だった。
神に誓って……
声を聞いた瞬間、俺は誠心誠意、一生をかけて尽くすことを決めた。
「おはようございます。本日も見晴らしの良い素晴らしい天気ですね」
教会の中から庭へと出てきた大司教様に挨拶をする。神に誓うと決めたあの日から早くも一年が経った今日この頃。俺は今までとは違い、神聖な教えのもと、誠実な人生を送っている。
「おはようございます。今日も一日、清らかな心で過ごしましょう」
大司教様の挨拶もいつもと変わらず、汚れが何ひとつ感じられない澄んだ声が朝を迎えたことを告げる。
「さて、今日は貴方に大切なお話があります。好きな時に私のところに来て下さい」
大司教様はそう言うと、再び教会の中へと入っていった。大切な話?俺、もしかして何かやらかしてしまっていたのか?何だ?色々不安だぞ。
心の中はざわついているが、そんな動揺を見せないように、毎日の日課である草花への水やりに励むことにした。
「ああ、やっといらっしゃいましたね」
仕事がひと段落した昼頃、俺は大司教様の元へ向かった。司祭様は長い間待っていたのか、冷めきった紅茶を俺に急かすように勧めてきた。口にするとやっぱり冷たく、今の大司教様の心境と被っているのではないかと、少し心配になった。
「さて、お話ですが…」
やたらと緊張した面持ちで大司教様は話し始める。そのせいか、俺も自然と緊張してきて、表情やら身体やらが強張ってくる。
「正式にここの一員になるつもりはございませんか?」
大司教様は話し始めとは違い、思い切りの良いはっきりとしたトーンでそう言う。その切り替わりに、思わず呆気に取られるも、すぐに我に返り、「はい!あります!」と答える。やや反射ぎみに答えたため、その姿は側から見たら面白いものだったかもしれない。
「あら、心地の良い即決で。本当に宜しいのですか?」
口元に手をやり、クスクスと笑いながら話す大司教様。この素晴らしい人の元にいる限り、俺には誠心誠意、神に誓うことができそうだ。今までの自分を変えるチャンスを下さったこの修道女様の元でなら、一生懸命尽くすことができるであろう。そんな気がしてならないのだ。
「私は誠心誠意尽くすことをここに誓います」
そう言うと、大司教様はまたクスクスと笑みを浮かべ、心地良い声で
「よろしくお願いします」
と言った。
俺と大司教様、俺と神との契約。それが今、ここで結ばれた。安住の地を求めて最後に行き着く場所がここなのであれば、きっと多くの人を救い、自分も救いの恩恵を受けられる眩しい世界を実現できるだろう。そうなれば、俺だけでなく、世の皆が幸せになれる。なんて素晴らしいことなんだ。絶対に実現させてやるからな。
決意の日から早一ヶ月。教会の方に色々と変化が起きた。
まずとても大きな変化が一つ。以前より人が多く教会に出入りするようになったことだ。もとより、人は段々増えていく傾向にあったのだが、ここ一ヶ月はその変化が大きかった。なんの効果かは分からないが、大司教様は「主に貴方の努力のお陰です」と言っている。確かに、正式に勤めるようになってからは、布教活動がメインだった。今思うと俺が声をかけた人は皆、身を乗り出してきそうなくらい興味ありげに、かつ熱心に話を聞いていた。
本当に俺の効果かは分からないが、少しでも自分のやったことが結果に出ていると思うとやはり嬉しい。
二つ目の大きな変化といえば俺自身のことで、簡単に言うと司祭になったことだ。今まであの修道女様一人でこの教会を回していたのだが、最近の信者増加に対して人手不足ということで、俺がその役に抜擢された。
嬉しさの反面、あの大司教様のようにできるのか?という不安もあった。しかし、その不安はすぐにかき消されることになった。
信じがたいことなのだが、俺の信者からの人気が異様なほどに高まったのだ。それこそあの声をかけた人たちの多くが、俺を「イケメン司祭様」なんて呼び始めたからなのだが。
人気の方は瞬く間に高まっていき、仕事の方も順風満帆。簡単に言うと、調子が良いことこの上ないのだ。調子が良ければ活気も増して、言いずらいのだが、信者からちやほやもされて、更に活気も増して。
俺の景気は良好で、自分が今幸福なのだと感じることが多くなった。この幸福がいつまでも続けば良いのにな。いや、もっと増やしていかなければな。一日一日を大切に、世の幸福の値をどんどん増やしていこう。それが今、俺にある使命だ。
「司祭様はいますか?」
突然、声が聞こえる。誰か来たのか?と思ったが、辺りを見回しても誰もいなかった。いや、気配はするのだ。明らかに人の気配が。
「どちら様ですか?」
聞いても答えは返ってこなかった。神聖なる場所に悪霊か?それとも誰かの悪戯か?なんてことを考えたが、どれもピンとこない。気のせいだろうか。とはいえ、いきなり聞こえるだなんてどうもおかしい。色々考え込んでいると
「貴方は今、幸せですか?」
と耳元で聞こえてくる。恐ろしく低く、淀んだ声。驚きの余り、反射的に後ろを振り向くが、やはりそこには何もいなかった。
「ど、どうしたのですか?」
いや、一人そこにはいた。大司教様だ。俺を見て何やら怯えたように、かつ心配そうにしている。
「いえ、何でもありませんよ?」
と一応答えるが、修道女様にはバレバレで、
「隠し事はいけないですよ」
と控えめな喝を入れられた。静かながらも重みのある声には逆らえず、俺は両手を挙げて、降参のポーズを取った。
「すいません。自分だけの問題にしておくつもりだったので」
そう言うと、俺は今あった一連のことを話した。大司教様は少し怯えながらも、俺の今ある現状にしっかり向き合うように、俺のことをしっかり見つつ話を聞いていた。
「困りましたね」
大司教様が最初に口にしたのはそれだった。今までの大司教様からは見られなかったような、か細く、力のない声だった。
「貴方に、あまり良くないことが起こるかもしれません」
そう言うと、大司教様は今まで自分もそんな経験があったことを話し始めた。
「私が、修道女になりたての頃でした…」
そんな感じに始められた大司教様の昔話は、やけにリアリティがあり、改めて自分の置かれた現状が良くないものだと知らされた。
自分自身の仕事不振や、怪我、身内の不幸など、良くないワードが沢山出て来た。
「ですが、焦る必要はありません。祈ることを辞めなければいずれは不幸からも救われます。ですが、あまりにも酷くなった時はすぐに言って下さい。最悪の事態だけは避けたいです」
と言うと、修道女様は俺に、自分の着けていた十字架のペンダントを渡した。
「貴方に不幸のあらんことを」
祈りの込められたペンダントからは、実際の質量以上の重みがあるような、そんな気がして俺は安心しきってしまった。
ある晩のこと、自分の今ある幸福を噛み締めているところだった。
「あなた…を…もぎ取り‥す」
突然、聞き覚えのある声を聞いた。声の主の姿はぼんやりとしていて、よく分からない。だが、並々ならぬ陰湿な雰囲気を醸し出している。
「誰ですか?」
と声をかけると、声の主は続けた。
「貴方は奪いました。何もかも奪いました。未来ある若人から全てを。貴方は最低の愚者です。死んで下さい」
淡々と話した後、何やら黒いものを突き出すと、俺の首元に当てる。強烈な電気を感じた俺はそこで意識を失い…
というところで目が覚めた。俺の身体からは気味の悪い冷や汗が出ていて、寝まきにベッタリと引っ付き、まるで何かに取り憑かれているかのように中々身体から離れていかない。
かなりうなされていたのだろう。寝ていたというのに息が上がっている。
「なんなんだよ…」
俺から呆れなのか、安心なのかとも取れないような声が漏れる。その声に反応するかのように、急に耳元で
「貴方は幸福ですか?」
と、恐ろしく低い声が聞こえた。あの時の声だ。あの、教会で聞いた時の声だ。
「何が言いたい?」
と問うと、声は失笑なのか、嘲笑なのか分からないフッという笑いを交え
「そのままですよ。貴方は今、幸せですか?」
と言う。「ふざけるな!」と言っても、そいつは動じず
「幸せなら良いのです。しかし、貴方は今夢にうなされていた。貴方の過去についての夢ですね。私も一緒に観させて頂きました。随分と酷なことですね。皆にチヤホヤされ、表面上の幸福は得ても、内面の幸福は得られていなくて、今でも過去のことがフラッシュバックしてしまうのですからね」
と、全て知っていますよ、とでも言うように語った。そいつは更に
「そんな過去、もう消し去りたいですよね。無かった事にしてしまって、苦しみから解放されて、本当の幸福を手にしたいですよね?」
と、同情の意を見せつけるかのように続けた。
「貴方の教会では薄っぺらい幸福しか得られません。私なら、真の幸福を与え、永遠のものとすることが出来ます。さあ、どうです?代償はありません。悪夢を食べるのが私の仕事であり、生きがいなのです。ここはひとつ、手にしてみませんか?真の幸福を」
なるほどな、つまりは俺は今、薄い幸福しか手にしていなくて、実は心の奥深くは不幸で、この何者か分からない声は、俺の不幸の原因である悪夢を食べて、俺に『真の幸福』を与えようということらしい。
「私は一応、少し先の未来も見えるのです。このままでは、貴方に良くないことが起こるのです。それこそ、貴方の不幸のせいで他の人が不幸になるのです。それは避けておきたいのです」
と、更にその声は続けた。確かに、声だけを私に聴かせられるという時点で特殊なのだから、未来が見えてもおかしくない。多分こいつが言っていることは本当のことなのだろう。認めたくないが信じるしかなさそうだ。
「できるのならば、やってみせてくれ」
「では、明後日までには貴方を完全に幸福にしてあげましょう」
契約が結ばれた。教会の司祭と、見えない謎の声との奇妙な契約が。
「…えっ、そうなのですか?…はい、そういうことならすぐに向かいます」
大司教様は、目眩がするとでもいうように、頭を抱えて深刻そうな表情をした。
「どうしたのですか?」
気になったので聞いてみた。今までこんな表情をすることは無かったであろう。今までは何かあっても作り笑いなのだろうが、笑顔を忘れ無かったし、悲痛な表情なんか、俺たちの前では決して見せなかった。その大司教様がこんな表情をしている。よく見ると、少し涙ぐんでいる気がした。
「いえ、なんでもありません。しかし、これから忙しくなりますよ」
気がした訳では無かった。本当に泣きそうだ。目は充血して、白目の部分が赤くなっている。今にも涙がこぼれ落ちそうなくらい、目と瞼の間には悲しみの液体が溜まっている。
「大丈夫ですか?」
さすがにこれは大司教様が大変そうだ。このままだと壊れてしまいそうだ、と思って声をかけたのだが
「いえ、大丈夫です。それより、貴方もこれから忙しくなります。一ヶ月程私はここを抜けなければならないので。大変ですけど頑張って下さい」
と、逆に満面の作り笑いで気遣いをされてしまった。
一ヶ月抜けるのか…。ということは、確かに今まで以上に忙しくなるな。今まで大司教様がやってきた仕事も、俺が今までやってた仕事もやってのけなければならない。しかし、どうも気になるな。一ヶ月もどこで仕事をするのかな。というより、何故そんな長期の仕事が入ったのか、それで泣いていたのか、それとこれとは別なのか。気になることばっかりだ。
「あの…、サイリー様!」
声をかけたのだが、元いた机に、大司教様の姿は無かった。
「やめ…や…ろ…ころ…て…もう…やなの…」
黒い人のような何かが、誰かを押し倒している。黒い方は何も言わない。押し倒されている方は、何やら大声で叫んでいる。いや、叫んでいるというより、嘆いている。だが、何を言っているのかはよく聞き取れない。ただ、涙ながらに何かを吐いているのはわかる。苦しみからの解放を望むかのように、ただただ嘆いている。
「い…んだ…」
さっきまで嘆いていた声とは違う声が言う。恐らく、黒い方が喋っているのだろう。やっとしゃべり出したなと思ったら、今度は、また押し倒されている方が
「早くしてよ!!」
と今までのはっきりしないような声ではない、馬鹿でかい声で怒鳴った。次の瞬間、黒いやつが押し倒しているやつを、刃物のようなもので突き刺した。血が噴水のように吹き飛び、辺り一面に飛び散る。
―「ウワァァァ!!」
俺は身体を勢いよく起こす。辺りを見回しても、血は勿論、他に人は見られなかった。な、なんだ、また夢か。それにしても気味の悪い夢だったな。また寝巻きが汗でびちょびちょだ。やはり、ペタペタと引っ付いて気持ち悪い。
「あら、起きたのですか。寝ていてもよかったのに」
いきなり声が聞こえ、俺は「ウワァァァ」と、必要以上に驚く。聞き覚えのある声なのに。
「そんなに驚かれなくても…。私は襲ったりしませんよ」
声は、少しがっかりしたように話す。きっと実際に姿が見えたら、うな垂れるように肩でも落としているのだろう。
「で、どうした?何か用か?」
「はい。まあ、もう仕事は終わった、ということで報告しに来ました」
なんだ、その事か。これから俺はやっと幸福を手にできるのだな。
「しかし、悪夢で人を起こすだなんて、少しばかりタチが悪いのでは?」
怖かったぞ、と少しの不満を漏らす。すると声は更に驚いたように
「あら、悪夢を見てしまったのですか?貴方もつくづく運の悪い方ですね。別に私は悪夢なんて見せてませんよ」
と言い放った。こいつがそう言うなら、きっとそうなのだろう。俺が見てしまったのは偶然の悪夢で、こいつが意図的に見せた訳ではないようだ。
「で、結果はどうなんだ?俺は真の幸福を得られたのか?」
疑い続けても話は進まない。俺は、話題を本題の方に持っていった。
「はい、そうですね。貴方は完全なる幸福を手にしました。それはきっと、貴方の生活の中で実感するはずです」
声は、満足感が滲み出ているような声でそう言った。低い声に変わりはないが、どことなく明るい、そんな声だ。
「悪夢に関しましては、根っこから取り除きましたので、もううなされることもないでしょう」
人を安心させるかの様に出された声は、俺の心に心地よく響き、一気に安らぎを得られた。
「それでは、私の仕事は終わりました。貴方の悪夢、中々美味しかったですよ。ご馳走様でした。それでは良い夢を」
声がそう言うと、俺は一気に眠気に襲われ、死んでいくかのように眠りに落ちた。
「あら、何か良いことでもあったのですか?」
あれから一ヶ月。俺はなんとか大司教様が居ない期間も仕事をやってのけ、今まで以上に活気が出てきた。大司教様の方も、無事に仕事を終えられたようで、一ヶ月前までのように笑顔を見せてくれた。
「ん?何故です?」
大司教様が首を傾げながら聞いてきたのだが、俺には訳が分からなかった。
「いえ、少し笑みを浮かべていましたので」
笑みを浮かべていた?俺が?
「えっ?本当ですか?ど、どんな顔していましたか?」
動揺してしまい言葉がうまく出てこなくて、少し慌てた口調になってしまった。すると、大司教様はいつもよりオーバーにクスクスと笑い、
「それはとても、幸せそうな顔でしたよ。簡単に言うと、少しニコニコしていました」
と言った。そのあと、俺のニヤケ面を思い出したのか、口に手をやり、またクスクスと笑い始めた。
「そ、そんなに面白かったですか?」
あまりにも面白そうに笑うから、気になって聞いてみた。すると
「いえいえ、気にしないでください。幸福なのは何よりですから」
と、やはりクスクス笑いながら言った。
そうか、幸福そうかぁ。確かに、あの日以来悪夢は見ていないし、仕事も好調。信者さんも増えていく一方で、不安なことなど何一つ無かった。やはり効き目は抜群だったようで、俺は真の幸福を手にできたようだ。恐らく、俺のニヤケ面はそれが滲み出たものなのだろう。確かに、普通にしているのにニヤけていたら、笑ってしまうのも仕方がないであろう。その顔が面白ければ尚更だ。
「まあ、これからも頑張ってくださいね」
クスクス笑いから変わって、ニッコリとしたいつもの笑みを見せて大司教様はそう言った。
しかし、そんな日々もやはり儚いもので、呆気なく終わりを迎えるのであった。
なんの変哲も無い普通の日。俺は大司教様から呼び出された。呼び出しの口調がやたらと深刻そうだった。
「大司教様、何の御用でしょうか」
大司教様のいる一室に入っても、大司教様は机の一点を見つめるばかりで、中々口を開こうとしない。らちがあかないので俺の方から質問した。少し間を空けてから
「すいません、少し考え事をしていました。人を呼び出しておいて申し訳ないです。まあ、どうぞ座って下さい。お茶でも飲みながら少しお話しましょう」
と、机の上の茶を俺に差し出しながら言った。勧められたままにお茶を飲むと、俺は急に強い眠気に襲われた。意識が飛ぶ程に急に襲ってきたため、よく見えなかったが、俺が倒れるのを見て、大司教様が悪魔のようなニヤッとした笑みを浮かべていた気がした。
目を覚ますと、俺は冷たいコンクリートの床の上に横たわっていた。俺の周りには鉄の棒やら、コンクリートの破片やらが散らばっていた。意識がはっきりしてくると、そこが廃工場なのだということが分かった。何故こんなところにいるのか全く見当がつかなかった。
「誰、か…いま、せんか…」
事情を説明してくれそうな人は居ないかと、声を発してみたが、上手く声が出せない。喉に痛みを感じたので、そこに手をやると、恐らく誰かに踏まれたのだろう、土がこびり付いて居た。動きづらいとも感じたので、身体の方を見てみると、三本程のロープで縛られていた。
「だ…か」
もう一度声を出そうとするが、さっきより声が出しづらい。咳込んでしまうが、それをするだけでも喉の方に激痛が走る。
すると、カツッカツッ、と誰かの足音が聞こえてくる。足音はこちらへ向かって来る。こんな状況の中やって来るのは、どう考えたって助けに来た人ではないのだが、人が来た、という事実だけで俺は安心してしまった。だが、足音が近づくにつれ、俺の中で何かが疼くようになってくる。それがだんだんと強くなり、ビリビリとした電流として姿を現した。これが何のセンサーなのか、なんて考える余裕も無かった。ただ、近付いてくる足音と、それにつれて強くなる電流の感覚を感じるだけだった。
足音は、俺の近くまで来ると、ピタリとそこで止まった。だが、電流は強い力で俺を襲い続けている。足音の正体を見ようとするが、うまく顔が動かせないのと、周りが暗いことがそれをさせなかった。だが、その後、足音の正体は声を発した。
「お前は今までいくら奪った?」
声のトーンは低く、憎悪に満ちたような声だった。女性のものか男性のものかの判別もつかない。その声が俺に質問を投げかける。答えようとするが、声を出そうとすると激痛が走って、言葉を出す前に咳込んでしまう。
「うまく潰れたみてぇだな」
咳込む俺を見て、そいつはクスっと、気味の悪い笑いをした。その瞬間、俺から電流は消え去り、代わりに凄まじい量の殺意や憎悪がこみ上げて来た。だが、そのような感情か湧こうと、俺には何もすることが出来ない。ただ黙ってあいつの声を聞いているしか無かった。あいつは淡々とした調子で、だが憎悪の感情はそのままに喋り続ける。
「貴方は悪夢を忘れました。他人が感じた悪夢を。だから、今の貴方はとっても幸せなのです。貴方が奪っていった幸せの分、貴方は満たされました。貴方と関わった人には絶対に得られなかった幸せで」
そいつは感情が高まっているのか、だんだんと声を大きくして言った。まだ、話は続く。
「私はこれから事実を伝えます。貴方が奪ったもの全てについての」
淡々とした口調からは、俺が横たわっているコンクリートの床のような冷たさも感じられた。
「まず簡単に言います。貴方が今まで付き合った女性全てと、貴方が忌み嫌ったバスケ部の人、そして高山さんと加藤君が亡くなりました。貴方の悪夢の原因となっていた人達です。何故亡くなったかは分かりません。ただ、皆さん揃いも揃って、幸せそうな死に顔でした。まるで何かから解放されたかのような、澄み切った美しい死に顔でした。何故なのでしょう。こんなに若いうちからそんな死に顔をするだなんて。まあ、訳が分からない訳ではないのですが。貴方にはとっても心当たりのあることなのかもしれませんね。聞いたところだと、皆さん私生活がうまくいっていなかったようですよ。人付き合いがあまり良くなくて、いつも何かに怯えているような人も居たそうです。また、自己が確立出来ない人がほとんどで、社会に適応出来ないゴミになっていたそうですよ。この人達をそうさせたのは一体誰でしょう?間違いなく貴方ですよね。ちなみに加藤君は、精神不安定状態が悪化し続ける高山さんをこれ以上苦しませたくない、ということで心中したそうです。高山さんを壊したのは紛れもなく貴方ですよね」
そいつの話を聞いていると、まるで俺が全て悪いみたいな言い方をされているのに気付く。それは違う、と首を振ると、そいつは
「まだ気付かないとは、呆れました。貴方には見せるしかないようですね」
と言うと、近くにあった鉄の棒を手に取り、
「では、客観的に走馬灯でも眺めてきてください」
と言う。すると、一度上に振り上げた鉄の棒を俺に向けて、勢い良く振り下ろした。
「ねぇ、まだなの?」
公園らしきところで一人の女が男に向かって話しかけている。何かを待っている様子の女のことを、その男は無視し続ける。どんな理由があるのかは分からないが、何故か男は無視を続ける。
「ねぇ、答えてよ!どうなの?私のこと、どう思ってるの?」
女が感情的かつ攻撃的に話すと、男は一瞬間を開けた後、女に向かっていきなり殴りだした。すると女は泣き出し、男はそれを全く気にしないかのように何も言わず、道に唾を吐いてその場を立ち去った。
「ねぇ、そろそろ終わらない?私達、もう絶対続かないよ」
今度は別の女が、さっきと同じ場所で男に向かって話しかけている。女は、未練がましく手を握ろうとする男を、たかった蠅を振り払うようにその手を叩くと、
「残念だけど、もう諦めて」
と言ってその場を後にしようとする。すると、男はいきなり走りだし、女の前へ出ると、女に抱きつき始めた。女は抵抗するも、力では男に敵わなかった。倒れるように近くの茂みに隠れると、男は女の身体を弄び始めた。嫌がる女と、楽しむ男。その光景は、思わず俺が目を覆ってしまいそうなほど酷いものだった。
行為が終わった後、男は泣き出す女の肩を抱いて、
「もう逃がさねぇぞ」
と言った。
今度はある体育館の中のギャラリーで男と、もう二人の男が何やら言い合いをしていた。
「おい、なんで個人技ばっかりするんだ?」
相手方の一人がそう言うと、男は
「はぁ?テメェらが使えねぇからだろ?」
そう言い放った。納得がいかないのか、二人は
「それでミスしてんだからパスぐらい出せよ。いくら使えなくてもパスくらいできるんだから」
と、口を揃えて言った。
「味方に頼ろうとしないで負けたんだから、チームの負けじゃねぇよな?お前個人が負けただけだよな?」
そのうちの一人が続けると、男はいきなり呻きだし、二人に襲いかかった。一発殴っただけでは気がすまなかったらしく、倒れたところを更に殴り、二人の顔に青アザができるまで辞めなかった。
気がすんだのか、倒れている二人の前に立ち、二人を見下すと
「雑魚共は黙って床でも這ってろよ」
と言い、二人の前から消え去った。
「貴方は最低の愚者です。私が駆除します。では、さようなら」
今度は黒い影が男と何かを言い合っている。すると影はいきなり男に黒い棒状のものを持って襲いかかり、男の首元に当てた。男は何も言わずに、気を失い、その場に倒れた。影は男が倒れたのを確認すると、何も言わずに立ち去った。その直後、男に光の柱が落ちてきた。
(やっと死んだ)
俺はその光景を見て、心底安心した。安心してしまった。こんな奴は公害だ、いない方が良い、と思ってしまった。これが自分なのだと理解しながらも。だが、その俺はついこの間まで幸せそうに生きていた。人から奪い取った幸福を糧にして。美味な餌を貪っていた。自分が醜い姿であるとと知らないままに。
そういえば、俺はあの場面で、恐ろしいほど強い電流が身体に流れていた。今自分を見返すと、その答えが分かった気がする。
危険信号だったのだ。人を傷付けてしまいそうな時に起こるやつ。それが俺に働いていたのだ。それなのに、俺は今まで気付くことができず、人を傷つけ、幸せを奪っていたのだ。なんて最悪な人間なんだ、俺は。
目を覚ますと、先ほどまでと変わらない景色がそこにあった。やたらと冷たいコンクリートの床の上に横たわり、誰のものか分からない足を眺める。殴られたせいか、身体のどこにも力が入らない。それどころか、力が抜けきって感覚もない程だ。
「あら、目覚めたのですか。どうでした?貴方の生き様は」
俺の答えを試すかのようにあいつが聞いてくる。
「最…低…でした」
声があまり出せない上に、あいつの思い通りの答えを出すと言うことで、少々の苛立ちを覚えたが、そんなことを気にしてはいられなかった。
「それは良かった。ところで、貴方も分かったでしょう?幸福のためには何が必要かが」
あいつは、俺に教えでも諭すような口調でそう質問した。俺はその答えはとっくに見つけていた。分かったように頷く。するとあいつは
「分かったのなら良かったです。ですが、一応答え合わせです。答えは『他人の幸福』です。他人の幸福を奪い、自分の幸福に還元する。貴方がずっとやってきたことです。貴方が悪夢を消し去るためにやったことです」
と一気に喋る。その通りだった。あいつが言った通りだった。あまりにもぴったりと当てはまりすぎて、涙が出てくるほどだ。例えではなく本当に。俺の頰をつたる涙が、急にしゃがみ込んだあいつの手によって拭き取られる。
「罪人の醜い涙ですね。どうです?貴方は今、不幸を感じていますか?」
今までの低いトーンとは違い、澄み切った川のように綺麗な声であいつはそう聞いた。俺は力無く頷くと、あいつは俺の頭を撫で
「今こそ救いの時です。貴方の力をお貸し下さい」
と言った。顔の表情は見えなかったが、どこか微笑んでいるような、そんな声だった。その声の調子はあの人にそっくりだった。いや、もうあの人でしかないだろう。俺はあいつに向かって口を開いた。
「サ、サイリー…さ……
見るも無惨な姿になったことは言うまでもない。
「なんて醜い死に顔なんだ。欲に溺れていて、一見しあわせそうだが、未練やら未だ消えていない欲望やらが見える」
そう言うと、大司教は葉山の切り落とされた頭を更に切り刻み、顔も分からないような状態にし、遠くへと投げ捨てる。
「加藤の名において、我が息子たちの報復をここに」
残った胴体を踏み潰しながら大司教は語った。
いかがでしたでしょうか。何か心当たりがあった人もいたかもしれません。私にはそんなことない!って人もいたかもしれません。
幸せなんて人それぞれです。ただ一つ、私が言いたいことは、
自分が他人に絶対に譲れない幸せを持つこと
です。
奪われるような脆いものじゃないでしょう?貴方の持っているものは。
まあ、持っていない人が多い世の中ですから決めつけもしないし、強制もしないのですけど。
いつか、自分が大事にできるものを見つけて、精一杯守ってみてください。それはきっと大きな幸せになると思います。
感想を下さった方、ご指摘下さった方、本当に心から感謝しております。まだまだ未熟ですが、これからも日々精進します。
現在進行中の新作の方も、よろしくお願いします。