096 40メートルの変化
ゆっくり。ゆっくり、ロープを流す。段々と、デヴィッドが近づいてくる。ああ、足を付いた。
なんて声を掛けてあげたら良いか理解らなかった。どんな言葉でも、きっとチンケになってしまう気がして。やっと望みを果たした彼を、そっと抱きしめてあげたいとも思った。でも、やっぱり違う気がして。
だから私は。
「おめでとう」
拳を突き出す。私と彼の関係は、この拳の皮一枚。ソレだけで、十分だった。ソレだけで多分、きっと、全部伝わる。
「おう」
コツン、と。デヴィッドも返してくれて。
ソレで。ああ、ソレで……っ。
「おめでとう……本当に、おめでとう……っ」
駄目。抑えきれなかった。目尻を拭うけれど、そんなんじゃ無くならないくらい、溢れる。
ずっと見ていた。悔しさに、怒りに、色んな負の感情に飲み込まれそうになって。其れでも登り続けた彼を見ていた。だから、堪らえようなんて無駄。今ぐらい泣いったって、許せ。
「馬鹿。登ったのは俺だろうっ!」
そうやって、頭をグシャグシャとかき回されて。そんな君の顔だって。
「私のはっ、もらい泣きだよっ……!」
「バレてたか」
「今だって……ずっと泣きっぱなしじゃんかっ」
真っ赤に腫らした、デヴィッドの目。上でも、降りてくるときも、今も。止まらない涙を拭い続けて。
「くそっ、恥ずかしいな」
慌てて。シャツの裾で、顔を拭いて。
その人拭いに、湿っぽい全部、置いてくるように。
「やったね。デヴィッド」
「ああ。やったよ。シリー」
デヴィッドは、拳を握り直した。ぐっと、もう手に力の入らなくても。でも、一杯に握りしめて――
「っしゃあああっっっ!!!!」
――吠えた。少し強くなった、男が居た。
「ちっくしょう……しんどかった」
帰り道、項垂れながら。でも、何とか足を出す。あのクラックを登り終えて、一日。仕事の日だった。休めはしない。彼はもう、変えの効く新人じゃない。
つまらないと思うことの多い環境も、自分次第だと思える度量も身について。だから彼は、相応の信頼を受けて。
「無理しすぎた」
だから休めなかったし、休まなかった。その結果、今にもぶっ壊れそうな、全身の痛みと。全てを使い果たしたが故の疲労に襲われて。辛かった。もう、地獄の様な一日だった。
「今日はもう寝るか」
本当は、祝杯でも上げようかと思っていたけれど。無理だ。流石に。
大人しく寝ることにして、回復に努めよう。楽しいのは、明日にでも取っておこう。
「酒、誰を誘おうか」
いつもなら、ジェイムズか、チェスターも呼んで。自慢を重ねながら祝ってもらうとこだけれど。
「アイツらは後回しでいいか」
適当に時間を見つけて。キャンプでもしながら飲み明かしゃ良い。
取り敢えず、今は誘いたいヤツがいた。
「そういや、初めてだな。登るの以外に誘うのは」
不思議と出来た、暗黙のルール。あの岩の前だけが、二人の時間。
でも、こんな時くらいは、破ったって良いだろう。電報の文面を、適当に取り繕うことにして。
「偶には酒に付き合ってくれるかね。アイツは」
疲れ果てた足でも。通信局に向かう足取りは――少し軽くなった。
今章はこれで完結です。長い間更新しなかったり、話の大幅修正を行ったりと、数少ない読者の方にご迷惑をおかけしたかと思います。何とか合間を縫って、書き上げる事が出来ました。
次章については、なるべく早く更新したいとは思いますが、また暫く時間が空くかと思います。申し訳ございません。




