095 The RIGHT MAN in the RIGHT PLACE
このルート、序盤もけして簡単では無い。事実シリーは、水平クラックに辿り着いてすらいない。
傾斜の変化を繰り返す、侵食を受けた立体クラック。柔軟な体と、高いクライミングIQが必要だった。
「……」
けれど、デヴィッドは落ちない。絶対に。多分、目を瞑ったとしても。最初に、このルートに手を付けた二年半前から、一度として墜落していない。
凹角を要するハング、キョン気味に入れた足、プッシュし伸びる腕。上のハンドクラックから、体をねじり小さく振り、レイバックでもう一つ。傾斜の代わり、斜面となり。細かいフェイスを捉えながらカムを設置する。ロープを持ち上げる。カラビナに通す。
じわりじわり、攻め上がって。もう、削れきった甲を無視して、手を挿入。
少し優しいセクションに辿りついた。並のクライマーなら、ここで勝利を核心して。六手取って、終了点を作ってお終い。ソレだけの1ピッチ。充実したクライミングだったと、満足して帰るだろう。
「しっ」
それでも、デヴィッドは終わらない。何もない、ただ走るだけの水平クラックに。己の血肉を積み上げた、カミングデバイスをぶち込んで。
命令を受けて、岩間で膨らんだ拳。状態を引きつけて、前へと運ぶ二頭筋。
「ハアッ」
苦しかった。ずっと苦しかった。スタートラインに着く前も。その後だって。
このクラック、ソレを取り巻くもの。攻略に費やした時間、その日々。すごく苦しくて。
「はっ」
でも、もっと苦しい場所を。デヴィッドは超えたくて。
――だから、ここでもデヴィッドは落ちるワケにはいかなかった。
歯が軋む。ずっと軋みっぱなしだった。悔しさと、苦しさと。ずっと耐えてきた心の歪みが、奥歯を通して頭に響き続けていた。
(取れ)
最後のライン。フィンガークラック。これだけでも、1ピッチは取れる長さで。もともときっと、3ピッチでも良かった筈なんだ。それでも一本のロープで登りたいと思ったのは、ただの見栄だろう。
(取れ)
何度も何度もチョークアップして。真っ白になった手の指先だけ、瞬く間に地の色に戻る。
一本指分のポケットに、中指がずり入る。痛い。耐えきれず、腕が振るえだした。いや、足もか。ジェイムズの作った、美しいフラットソールでも。ここまで耐えてきた趾じゃあ、限界だった。
(取れ)
それでも何とか。本当に、何とか。次の手が出た。
ぎゅっと握り込んだ左手の、指先半分ばかりが支持を取る。右足、慎重に切り離した。もうちょい、もうちょっと上。上がれ、上がれ。上がった。引き込んで、デッドだ。右手、ピンチだ。襞を掴み取れ。いった。耐えた。でも、終わらない。息が続かないから、止めたまま。飛べ。
(終われ)
早く終わってくれ。もう、苦しくて堪らない。
ギアラックから、カムを二つ。一番小さいの。入れて、ロープ、掛けた。疲れた。もう、こんなことしてられない。これが最後のセットだ。ギアが無くなっても、体は軽くならない。既にキロ単位になるロープの重量と、疲労の蓄積が、もう、終われと、引っ張ってくる。
(終われ)
終わりたいよ。そう思う。でも、ここで落ちたら終われないから。だから、また次の手が出る。少しだけ、空に近づく。
ずり、と。足が滑った。咄嗟に指に力が入る。落ちなかった。危なかった。再び、2ミリの突起に足を載せ直して。反り立つ岩壁を、また一つ捉えていく。
(見えない)
視界から、ホールドとスタンス以外の全てが消えた。
白飛びする暗闇に、意識が落ちて。でも、指はフィンガークラックを追い続けた。
呼吸の音も聞こえなくて。痛みももう無くなって。何も無い世界に、ただ、自分と岩だけがあって。
(遠い)
その、行き先が、随分遠かった。届かないような気がした。自分じゃ、無理かもと思った。
でも、体が上に行きたがってるから。仕方なく。弾みを付けて。目一杯伸ばして、勿論足も切れた。なのに。
「うぐぅ……」
止まってしまった。止まらなきゃ楽だったろうに、止めてしまったから。もう少し、頑張らなきゃいけなかった。
「ぅガアッ」
本当に、何で止まったのか理解らなかった。悪かった。外傾した何ミリかの突起。出られなかった。次手が出ない。
動けないまま、からだの全部が削られる。
「アッッ」
上行きたい。なのに、ダメだ。何とか乗せた足も、支持を保たない。
タイム・リミットが見えてきた。
(俺は――)
このまま――
「登れッッ!!」
シリーが叫ぶ。ずっと叫んでいた。
「超えちまえよ、そんなとこッッ――!!!!」
もう、掠れ始めた声は、遠いデヴィッドの耳には届かない。
この声が励みに為ることもない。気持ちも、伝わらない。
だから、デヴィッドを助けてくれる何かとか、上へと連れて行ってくれる、目には見えない力は何も無くて。
当然、彼の運命は、変わること無く。
いつも通り――――――
肉体は正直であった。左手は高い。左足も高い。右手はずっと低くて、右足は宙ぶらりんでバランスを取っている。
このカタチになって、やることはいつも同じだった。クラブで、ジェイムズと登った日々から、ずっと。
だから、いつも通り。左腕が体を――――――引きつけた。
右手がホールドを持っていた。
何でだろう。解らない。解らないけれど、持っていた。悪いスローパーだった。
ハッとする。上を向いた。残りは、あと数手だった。
「おッッッ――」
気を抜いたら、多分落ちる。両手が悪くなって、さっきよりも更に苦しい。
なのに。持ってしまって居るんだから。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ――――!!!!」
次に行かなくてはならない!
「ガアアアアアアアア――!!」
上に行くための体だった。頂へ登るための魂だった。落ちてなんて、やるものか。
耐える。耐える。滑り落ちそうになる右手。離してしまいたくなる左手。その一杯に、力を込めて。腕が筋張る。少しでも酸素を送ってやろうと、腕の血管が膨れ上がる。
ジリジリと、持ってかれそうになっても。絶対に緩めやしない。
先ずは右足だ。ゆっくりしか上がらない。姿勢が崩れない様、壁を引き摺って。一回じゃ上がらない。二回目でも無理だ。三回目でようやく足が掛かって。四度目で乗せきる。
「アアアアッッ――」
紛うことなき、正対の。このカタチはもう、自分の肉体だけの勝負だから。
「――――」
腕が体を引きつけた。重力に引かれるまでの時間に、下半身が伸びた。所以、デッドポイント。
滞空する間に。ギリギリ指先に触れたホールドは、思ったよりもずっと持ちやすくて。
「――――あ」
後は、もう。体に身を任せるばかりだった。
「登れた」
ポツリと漏らした。
デヴィッドは両手を離して。それでも、落ちることはない。二本の足で、岩壁の最縁に立っていた。トップアウトだ。
「そうか」
勝利の景色を、見る余裕は無かった。
へたり込んだ。膝を抱えた。手に力が入らなかった。
「登れた」
頭は伏せっぱなし。別に構わない。
どうせ、何処を見たって変わらない。
「う……」
長かった。すごく長く感じた。スタートラインまで、何とか半年。そっから、二年。
待ってるだけの二年じゃなかった。挑み続けて、負け続けた二年だった。
「うう…………っっ」
どういう意味があったかは理解らないけれど。
「っっっっ…………」
前より少し、上に立った。精一杯の40メートル――
課題名:『The RIGHT MAN in the RIGHT PLACE』5.14a PD
初登者:デヴィッド・レイティング




