094 二年
「アイツ、また登りやがった」
木陰。今日は日の照り返しが強くて、思わず隠れたくなった。
本当に暑い日だった。でも乾いた風が、ほんの僅かに岩肌に張り付いた朝露を、綺麗に消し去って。そんな日だから、思わず登らずにはいられなかった。
「よしっと……そろそろ登るか」
手に持っていた雑誌を、ザックの上に放り投げる。この岩を登りはじめて、実に三回目のシーズン。
袋型に綴じた布袋、その中に手を突っ込んで。ぱぱん、と。手のチョークを払う。
擦れる指先の皮は、一層分厚くなって。なのに、その要所は余りにも薄く研ぎ澄まされている。真皮に抱えた、神経ごと。
「悔しいな、やっぱ」
「また、例の親友?」
「そうだよ。俺の知ってる、最強のクライマー」
シリーに尋ねられて、答えは鼻高々でも。やっぱり、奥歯は噛み締めたくなる。
「負けっぱなしだよ、いつも」
「……」
シリーは、答えなかった。ただ、準備を進める。
前より随分、手際良くなった。そうなるだけの時間が、この茜岩の前で流れた。
ヒトが結果を出すのに、必要な期間。其れはもう、どれだけなんて解らない。同じことをやっても、一足飛びに頭を超えて行くヤツが居る中を。地べたを這いずり回りながら、何とか留まるだけのヤツも居て。
デヴィッドのこの二年は、とても、とても静かだった。彼のあげた成果なんて、微々たるもので。晴れ晴れしい自分の同期たちと比べちゃあ、無いにも等しいモノで。
――裂け目から溢れ出る血を岩に擦りつけて。今日の反省をしながら、成果が有ったフリをして。奥底に眠る悔しさを、舌先で詰って。
頼むから……もう一手だけでも……。
そんな言葉は、口をついても叶うコト無く。。
義務感と、プライドと。あとは、何だろう。どうしようもない何かに、突き動かされながら。ずっと、岩の前に居た。
――――デヴィッドの二年は、そんな二年で。くだらなくて、意味なんて無いかもしれなくて。でも、結果を出すのに――多分、必要な二年だった。
「じゃあ、行ってくる――」
そう言い残して、向こうへ歩く彼の背中。何歩か遅れて、私も付いて行く。
去年よりも、ちょっと大きくなった彼の背中。私の腕を回しても、両手が届かないのかもしれない。
去年よりも、ちょっと細くなった腰回り。私の腕を回したら、きっと自分ごと抱きしめてしまう。
ぎゅっと、握りしめるロープ。グローブは、これで六代目。その内五つは、この二年。今つけてるのも、もうボロボロだけど。彼に貰ったモノだから、出来る限りは使っていたい。
「ふ……」
深呼吸しようとして、途中で切れた。いつも、この間が一番緊張する。手が重い。頭が痺れる。
何度も何度も会った。前よりずっと仲良くなった。でも、受け取った電報の待ち合わせ場所は、必ずこの岩の前で。彼に恋人が出来た話も、早々に別れた話も聞いて。
そんな、自分の程度が知れる様な、苦しさの中でも。登り始める彼に合わせて、最初のロープを出すのが一番怖くて。――けど、一番愛おしかった。
(あ)
彼が、手を出した。岩に触れた。優しい手付き。
(デヴィッド……そろそろ)
彼の中の私は何なのだろうか、前にそんなことを考えた。
結論は理解らなかった。でも、この岩の前だけは、いつも二人きりで。
「そろそろ、さ――」
随分、時間が掛かっちゃって。もう、良いよ。
デヴィッド、君はさ。
「――登っちゃえ。一番上まで」
絶対行ける。そう思った。
私の知っている君は。世界で、最強クライマーなんだから。




