089 傲慢
シリー。私はシリーだ。この名前を付けた理由も、付けた人の名前も知らない。別に、何かの悲劇が有るわけでも無い。私を名付けたアル中の父親に、愛想をつかした母親は。幼い私を連れて夜逃げした。それほど――珍しい話じゃ無い。
(ただ、母親ともそんなに仲が良くなくて)
だから、反骨心をむき出しにして。家をよく飛び出た。素行はずっと、とてもじゃないけど良いとは言えなかった。
(山屋になったのは、何でだっけ)
それも、大した理由じゃなかったと思うけれど。上手く思い出せない。たしか、女のレッテルを張られて生きることに、意味もなく逆らいたかったから。男社会に染まろうとしたのは覚えてる。
(ま、こんなこと考えてても仕方ないか)
道中が、あまりにも暇だったから。余計なものが頭に浮かんできた。今はもう少し、他に考えてもいいこともあるのに。
「――今日も、捕まらなかったな」
ビレイパートナー。何だか最近、山岳会の連中と馬が合わない。元々どうにも、仲が良かったワケじゃないが。でも、ここ暫くは特に。
元々、アルパインのクライミングも余りやらない連中だった。性格に言えば、ソレをやれる技術やらを持っている人間が少なかった。所以、ライトなクラブだったのだろう。
それが故に、私でも入りやすかったってのもあるけれど。この沼にどっぷり浸かった今の自分には……少々物足りない。
「私も、上手いってコトはないけどさ」
お前も才能が有るワケじゃないんだから、そう言ったヤツが居た。私は、かっとなった。怒鳴り散らして。飛び出して。私とロープを結んでくれる人、また減った。
「いいじゃん。大して上手くなくたって。それでもやりたいことだってあるでしょ」
恨み節、吐きながら。進む道中。未知の遠くに、何かが見えた。人影、長身の。ああ、どうせこんな所にいるのは同類だ。比較的若いし、余計に差視されないなら、あの人に頼もうかと――そんな風に。
違う世界にいる人、そういう奴らは確かに存在する。レコードに声を刻むようなシンガーとか。銀幕の向こう側にいるアクターとか。この間でた雑誌の表紙に映る、あまりにも完璧なクライマーとか。
でもそういう人達は、あくまで別世界の人だから。自分の人生に関わる日は、無いと思っていた。
――でも。私の目の前には、確かに。
「デヴィッド。強いね」
何度か、彼のロープを執った。変わったやり方でビレイをしろと言われて。すぐに慣れた。
そうして見る、彼の背中。あまりにも研ぎ澄まされていて。
「ごめん。下手くその相手をさせてさ」
私を乏した奴の気持ちが理解った。私もそいつらと同じで、本気じゃなかった。少なくとも、ここまでは。
「そんなに下手じゃないんじゃないか。ルートもよく見れてるし、足にも体重が乗ってる」
目の前の彼は、そんな風にフォローをくれて。
「だから其処から先に行くには、かなり頑張らなくちゃいけない」
厳しい現実も、教えてくれる。
「そっか。じゃあデヴィッドは、かなり頑張ったんだね」
「まあ、多分な。でも、俺には手本が居たから、頑張りは半分以下だったよ」
手本。このレベルの人間に、手本なんて居るのか。それこそ、違う世界の話の様で。
でも、手本が居たからと言って。並大抵じゃ辿り着けない場所に、彼が居るのは確かだった。
「じゃあさ――」
それで、ちょっと考えて。余計な思いつき。
未だ燻る反骨心が、ちらりと顔を見せて。
「――私にも手本をちょうだい」
其処に、傲慢な私が居た。




