088 行きずり
アカネ岩を要する山中、デヴィッドはまたこの地を訪れていた。
相棒は居ない。ジェイムズは、別の岩場に向かっているという。クラブの後輩に当たろうとも考えたが、卒業した人間があんまり当てにするのもどうかと思ってやめた。
「あっちいな」
今日は晴れだ。よく乾燥している。絶好のクライミング日和だ。攻略法が未だ見つからない事を考えれば、日和もクソも関係無いけれど。
ごく。水を飲む。歩く道は、灼熱に照らされている。体から汗が吹き出す。体を覆う、一枚の布が。どうしようもなく煩わしい。早く、脱いでしまいたい。いや、ここで脱いでも咎める人間は居ないか。酔狂なクライマー連中しか集まらない山の奥である。寧ろ、服を纏わないくらいが正装かもしれない。
「うし」
そう思って。ザックを下ろし、シャツの裾に手を掛ける。そして、思い切り脱ぎ去って――ああ、涼しい。最高だ。
これからの道中、そう幾ばくも無いし。脱いだもの、適当にしまって。じゃあ、行こうかと思って。
「――いや、涼しそうな所悪いんだけどさ。道すがらの人前でそれはどうかと思う……」
咎められた。若い女だった。
「すまない。全く気付かなかった」
「まあ別にさ、恥ずかしくないなら構わないんだ。ただ、やっぱこっちは気になるし」
基本、男女ともに不必要なほど肌を晒す習慣は無い。
公衆の前で、男が服を脱ぐことは多くないし。それを女が見る機会も少ない。
「じゃあ取り敢えず、我慢しといてくれ。岩に着いたらどうせ脱ぐしな」
「いや、せめて私がいる間は着てて欲しいんだけど」
あまりに嫌そうに、女が言う。
仕方ないと、シャツをまた取り出して。デヴィッドは着直す。
「それで、何処で登るんだ? 俺は南面の端のクラックをやるんだが」
「うわ、一緒じゃん……」
「そうか。なら、今着てる必要は無いな」
「お願いだから一秒でも長く着て!」
誂いがいがあるものだから、デヴィッドもつい楽しくなって。こういう風に喋る機会も、最近随分少なくなったのもあって。
「冗談だよ。でも珍しいな。いつも一人で岩をやるのか?」
「普段は何人かだよ。山学会にも入ってる。今じゃ、女でもやるやつは居るよ。こうやって、一人で来る奴は珍しいかもだけどね」
今日は、誰も捕まんなくてさ。女はそう言う。
「そっちも同じ口なら、一緒に登らない? アルパインじゃないなら、ビレイヤーは居たほうが良いよ」
「ああ、こっちからも誘おうかと思ってた」
そう言って、手を出して。
「デヴィッドだ。よろしく」
「シリーだよ。宜しくね」
女、シリーも手を取って。
決まった、ザイルパートナー。
「ん……」
「どうした?」
それで。手を握ったシリーが、訝しげに其れを眺めて。
「細いね、指。私と同じくらい」
「登れ無さそうか?」
「ううん、逆。この指なら、絶対強い」
細くて長い、デヴィッドの指。でも、爪の付け根は随分黒くなって。第二関節は滑らかに腫れていて。
だからといって、何の証に為るわけでもないのに。シリーは、核心するように言った。
「期待に、添えるかは分からねえけど」
デヴィッドは、自分が強いクライマーであることを、疑っていなかった。でも其れは、あくまで自分での認識の話で。自分がより登れるようになるための、手段で。他人からどう思われるかまでは、性格に把握できていなかった。彼には、常に比較される相手がいたから。誰よりも強い、ジェイムズが。
「俺なりの、登りをするよ」
そう言って、止めていた足を踏み出して。
目指すところは、あと少し。




