085 帰宅
古いアパートメントの、階段が鳴る。コツコツ、コツコツ。もう、夜だ。きっと、下の階まで響くだろうけれど。
其れで二階の、手前から二番目の部屋。少し立て付けの悪くなった、戸が開く。錆取りしたけれど、やっぱりキイと音を立てて。
玄関口を潜る人影は二つ。大と小。人と異人。
「ただいま」
誰の居るわけでもない、部屋に向かって。ジェイムズが言った。
代わりの答えは、外から。
「遅くなっちゃいましたね……ご飯、どうしましょうか……」
部屋の戸を、閉めながら。言ったのはフォクシィ。
確かに、遅い。外に行っても、店は開いていないだろう。
「うーん。有るもので、どうにかしてもらっていいかい?」
「はいっ」
確かパスタと、マッシュルーム缶と――
流しの下を開けて、フォクシィが献立を考えはじめて。その間に、ジェイムズは書物を。
「あそこのクラックのサイズは……」
向こうにいる間に、スケッチした岩壁の絵。そこに、メモを走り書いて行く。すらすらと滑るペン先、丁寧では無いけれど読みやすい筆記体。
こうやって、記録を取るのは癖の様なもので。報告書とは別に、いつも纏めている。
だから本棚は、綴じた紙束でいっぱいだ。
「いたっ……」
「大丈夫ですか……」
ペンを握る、指先が痛い。調子に乗りすぎて、皮が随分無くなってしまった。
ふう、と息を吹きかけて。
「大丈夫だよ」
まあ、こんなの慣れっこだ。
指紋がはっきりしてる方が珍しい。
「寧ろ、フォクシィは平気? 手の甲とかさ」
初めての、クラックだ。
テーピングを巻いたとはいえ、結構痛むはず。
「はい、大丈夫です。少し擦り傷が有るぐらいで」
皮、けっこう丈夫なんです。
そう、言うフォクシィは。確かに強がりといった風では無さそうで。
少し、羨ましい――ジェイムズは思う。
「そういや、フォクシィはどうだった?」
今回のクライミング。ジェイムズが聞いた。
少し教えただけの、ロープのクライミング。初めてのクラックルート。トラッドじゃあ、未だやらせて無いけれど。
「ええと、楽しかった……です。ジャミングも、何と無く決め方が分かってきて」
答える間、ニンニクを切り始めていた、手が止まる。話しながら何かやるのは、苦手らしい。
フォクシィも、気付いだようで。慌てて調理を再開しなて。
「それと、デヴィッドさんも良い人で……。登れなくても、ワイワイしているのは良いですね」
ジェイムズとデヴィッドは、失敗するばかりでも。二人共、笑って、楽しそうで。
けれど。
「うーん……。デヴィッドはさ。いつもは結構、冷静な奴でね。だからさ……」
「だから……?」
ジェイムズは、ちょっと含む様な言い方をして。
「――あれは多分さ、空元気。結構、堪えてると思うんだ」
「そう、なんですね……」
その辺の機微を見れるほど、フォクシィには未だ、余裕がない。
それにまあ、ああいうのは、分かってないと気づけないだろう。
「また、飯でも誘おうかな。今度は、フォクシィも一緒に」
「はいっ」
デヴィッド、意外と泣き上戸で。酒入ると面白いんだ――そんな風に、昔話をしながら。
フォクシィの作る料理も、段々と完成に近づいて。
「そう言えば結局、先生っても平気ですか……?」
「未だ気にしてたの……」
勿論、大丈夫。ジェイムズがそう言って。
サクソンの夜は更ける。




