079 翼を持つもの
ジェイムズは、登り始めた。先程までのごたごたも、無かったかのように静かで。
辺りに居る全ての人間の視線を、一身に集めて。
登る。
登る。
登る。
彼は、心中穏やかでは無かった。
フォクシィを傷つけた人間が居て、また彼女を害そうとした。そんなだから、腸は煮えくり返って当然だけれども。
「――はっ」
右のピンチを止めて、次の足、正対になるように踏んで。
この厳しいルートが、ジェイムズの腹で渦巻いていた感情の全部を、飲み込んでくれていた。だから残っているのは、ジェイムズと反り返る道の、二つだけ。
(登る)
登ることしか出来ない自分が、与えられるモノが在った。其れはやっぱり、登ることだったから。
なら、登る。一番高いところまで、必ず。
「ふうぅ」
ロープを、クリップ。動作は一瞬で終わる。今まで何度やったか、ジェイムズは覚えていないだろう。
いつも、繰り返して積み重ねて来た。このルートに始まった事ではなくて。クライミングに魅せられたあの日から、ずっと、ずっとやって来た動作は。例え意識が奪われようと、正確に行える程、肉体に刻まれている。
「ふっ」
そして、同じ手で上を目指す。
軽い跳躍。大きめの穴に、四本の指が丁度良く収まる。
「すぅ」
短くても、呼吸はちゃんと繰り返して。
鑢で削った指の先、剥き出しの神経に意識を張り巡らせて。
(上へ)
上へ。
(上へ)
上へ。
(もっと――高いところに)
もう、ジェイムズの意識はそれだけ。より高みを目指すだけの、自動操縦。
でも、其れで良い。ジェイムズは、何時だって登るだけだから。登るのに必要な全てが、身体に同期されれば、後は衝動に任せるだけで良い。
「ふうううぅー」
大きく息を吸って、吐く。
早くも、全身で枯渇する酸素を、無理矢理にでも送り込む。
「っっ」
右手で、挟む。
先程よりも、ずっと悪い。寄せた左の踵が、重心を安定させる。
「があっ――!!」
次の左手も、悪い。指先に半寸の掛かり。いつも、辛い辛いと言いながら出して。其れで、やっとこさ止めて。
でも、落ちない。いつもだ、いつも落ちない。ぎりぎりだと言うのに、ジェイムズが落ちることはない。
「ひゅ――」
息を吸って、止める。少しだけ、身体を振り。付けた反動、上に行くための力にして。
――デッド、ポイント。ガチャガチャな指先が、不思議な統率で支持を保つ。
「――ぷはっ」
止めていた、息を一気に吐き出して。
右足、上がる。逆足が交差する。左手が――伸びる。
「しっ」
縦の割れ目は、二本の指を差し入れても未だ余裕がある。
左のダウントウの先端を、右手の指と入れ替えた。荷重が、下半身に乗る。右手が自由になる。ならば――
「だッ!」
――一気に、寄せた。
最初、あれ程苦労したパートだろうに、微塵も落ちる気配を見せない。重ねた回数が、成功へと収束させていく。
でも、でもだ。次だって、悪い。クリップをして、上を見て。送った左足で、安定を取っても――
――カチ。カチだ。とびきり小さい、カチホールドだ。ゴミホールドと言い換えても良い。
そんな細かいヤツ、少しの誤差で止め残っても、仕方ないと言える筈。
「らあッ!!」
でも、ジェイムズの指は、離さない。コンマ1シーシーの手汗で、滑り落ちる程度の掛かりでも。
この程度で落ちていては、ジェイムズがこの先進む道の、入り口にすら立てないから。
さあ、後の数手。此れを超えれば、間もなく――
「何だよ、アイツ……」
私の、隣で男が呟いて。
「君も言ったろう。此処は、壁と向き合う男たちの居場所だって。なら、此処で誰よりも登れる彼は、誰よりも真摯に壁と向き合った者だろう」
白髪さんが返した。
「何だよ、俺が半端者だってのかよ……」
ぎりぎり、歯を軋ませて言う男の声も、耳から抜けて消えていく。
ファインダーを覗く私は、その瞬間を待ち続ける。左目に映る、ジェイムズさんの軌跡を、その先へと脳裏で伸ばしながら。
「フォクシィちゃん。兄ちゃんは、登れると思うかい――?」
白髪さんが、声を掛けてきた。今日、二度目の問い。どういう顔で言っているのかは理解らない。――確かめる気もない。
「分かりませんが――」
私は、ジェイムズさんの背中を見て――
この一ヶ月半。今日までの、全ての落下。全部で何回かも理解らない。
果たして、この反復に、積み上げた時間に、意味は有ったか。
(理解らない)
そう、理解らない。誰にも理解るワケがない。
結果的に成長を果たしても、何処から何処までに理由が有るかなんて――
(――でも)
でも。その一つ一つが無くて、ジェイムズは先に行けるとは思わない。失敗を糧にするとか、そんな月並みな言葉では語るべきでは無いだろうから。言うならば――
(――羽)
そう、羽だ。一回、落ちる事に、ジェイムズは足元で拾うのだ。小さい、小さい、ちっぽけな羽毛。風切りなんて、果たしはしない。その羽を、重ねて、紡いで、自分の背中から伸ばして。太陽に近づけば、解けてしまうかもしれないけれど。
(みぎて――ピンチ)
高々、地上から30メートル程度。高々、1.5メートル先の次手。
(みぎあし――じく)
一回こっきりの使い捨てでも。
(ふみきって――)
確かにこの瞬間、ジェイムズの背中には――
「――翼が有ります」
私は、断言した。
そらあ――良いね。白髪さんが、呟いて。
――翼だ。翼がある。肉体に積み重ねた経験が、成長が、ジェイムズを羽ばたかせるッ!
「ああああああああああああああああああああああああッッ――!!!!」
其れは、跳躍では無い。
人の限界を引きずり下ろして、未知の世界へ渡る第一歩だ。
――そしてジェイムズの、精一杯だ……。
(届け)
届くよ。
(届け――!)
届くとも。
押し出す右腕。引きつける広背筋。支持を続ける、前腕の筋肉群。体幹、臀部、大腿、脹脛、足先に渡るまでの肉体の全てが、ジェイムズの翼だった。其れが、其の全てが。もうずっと、左の指先の、ただ一点のために在って――
――積み重ねた、少しづつ。完璧に保持をする左手。
「――よし」
確かに捉えた、ホールドと。静止するからだ。
其れは、ジェイムズが追い求めた、飛翔の証だった。
ジェイムズさんが、登る。核心を超えて、後の残り。
どのパートも、其れなりだけれど。ジェイムズさんは、落ちない。
(ジェイムズさん。貴方の背中に、乗せてくれとは言いません)
一手、一手。確かめる様に進んで行く。
どれだけの感慨が有るだろうか――私にはやっぱり、理解らない。
(そしたら、きっと。貴方は一人でに跳んでいってしまうけれど)
そして、ジェイムズさんは手を掛けた。オストックの、長い長い岩壁の。その上の縁。
最後はテンポよく、トトンと、上に駆け上がって。
「――よっしゃあああ!!」
「「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」」」」
ジェイムズさんが、ガッツポーズをして。歓声が上がった。ーー完登だ。今この瞬間に居合わせた、たったの十数人が歓喜に踊る。
此れが、ジェイムズさんだ。ジェイムズさんは、登るだけだ。でも、其れだけで、人を簡単に魅了して、変えてしまう。
(いつか、追いつきます。きっと、というにもおこがましいけど)
ジェイムズさんが、降りてくる。
誰もが、彼を讃える中。
「だから今だけは。その背中、側で見せてください」
ひとり、決意した。
私なりのちっぽけな翼。必ず――手に入れる。
課題名:『翼を持つもの』5.14b
初登者:ジェイムズ・マーシャル




