077 足りないもの
ジェイムズさんが登りはじめて、一ヶ月半が経った。
偶に、外へ出て。買い出しやら、シャワーを浴びたりやらは有ったけれど。其れでも、この一ヶ月半はずっと岩の前に居た。
(顔の包帯、取れたな)
罅の入った頬骨も、ちゃんと元通りになった。指は既に万全だ。私も、登れる時は登っている。ただ、本気じゃあ登れない。指がどうとかではなくて、何でか脳がブレーキを掛けてるみたいに。
(未だ、恐いんだ)
無意識に、恐れている。壁を、誰かに拒絶されることを。
(大丈夫、ゆっくりやるんだ)
時間は有る。焦る必要は無い。其れに、全部に拒絶されたワケじゃない。
遠巻きに眺めていただけの人たちは、多分――
「――中てられてた、だけだから」
私を、害した人がどうかは理解らないけれど。其れが許されている様に、錯覚していただけ。劣等種とは、そういうものだから。
――それにしても。
(ジェイムズさん。また、岩を見てる……)
最近は、ずっとそう。気付いたら、岩を見て。
傍から見たら、呆としているのかと思うけれど。
(登ってるんだ)
そう、登っている。地上に居ながら、常に精神は壁の上で。もう、飽きるとか飽きないとか。そういう次元に居ない。
――食事を摂る様に。呼吸をする様に。彼にとって、登ることは、生きることで。
(生きることは、登ること)
詰まりは、そういうこと。
そんな、存分に生を謳歌する彼の後ろ姿を、横目に流し見ながら。手元の、コッヘルの中身をくるくる回す。中身は今日の、朝ごはん。
(ジェイムズさんの料理も、美味しいけれど……)
如何せん、簡単過ぎる。
良くも悪くも、男の料理という具合だから。
(ジェイムズさんがああな時は、私がごはんを作ってしまう)
隙を見て。
私の食事が簡素なのは構わないけれど。ジェイムズさん、ご飯ぐらいはちゃんとしたモノを食べないと。
(身体にも悪いよね)
食事とはそういうものだと、使用人長も言っていたから。
だから、なるべく腕によりを掛けて。料理、偶にだけれど屋敷でも作っていた。同胞の分。下手では、ないと思う。
「うん。美味しい、筈……」
お玉で軽く掬って、味見して。すぐに口を付けたところを拭き取ったら、また混ぜる。
今日の献立は、丸麦のスープ。具材の下ごしらえは昨日の内にやった。ラム肉をしっかり煮込んで、出汁を取って。其れから、具材の全部に玉ねぎの甘味が付くまで、しっかり炒めたりとか。
「そろそろかな……」
だから今日は、只管煮込むだけ。二時間、くらいかな。塩と胡椒だけの味付け。でも、煮込むほど味が出るから、大丈夫。
けれど、作り始めてから、燃料にも限りが有る事を思い出して。
(煮込み料理は、此れで最後……)
少し、残念だが仕方ない。
今日の分は、たまの贅沢ということで許して貰う事にして。
(よし、出来た……)
味もバッチリ。
付け合せのブールは、一昨日買ったものだから少し堅くなったけど、未だ十分美味しい。
「……ジェイムズさん、朝ごはん、です」
未だ呼び掛けるときだけは、緊張する。
「あ、ごめんよ――」
ハッとしたように、振り返って。鍋の前に来た。
「其れじゃあ、食べよっか」
「はい。どうぞ――」
器によそって、手渡して。
美味しそうだなあ、と。ニコニコしながら、ジェイムズさんが受け取った。
「…………」
其れで、食べだしたら黙々と。
あっという間に食べ終わって、すぐに器におかわりを盛る姿を見たら、作ったかいも有るものだ。
「――ジェイムズさん。登れ、そうですか……?」
そんな食事の合間。ふと、私がそんな事を聞いたら。
ジェイムズさんの顔つきが、真剣なものに変わって。
「壁の条件は良いよ。湿気てないし、暑すぎない――」
ジェイムズさんの左手が、ギュッと閉まった。
「――後は、翼だけ」
相変わらず、よく理解らないけれど。
でも、クライマーとしての私の目には。何か、見えるものが有る気がした。




