073 いい人、いいモノ
ハングドッグ……ロープクライミングのルートで、落下した場所でぶら下がって休憩して、途中から登って練習すること。あくまで、練習の方法です。
5.10……以前の解説にも有りますが、デシマルグレードと言うもので表記した難易度です。初心者が初めての岩場で登れることは、あまりないくらいの難しさでしょうか。5.10aなら未だ簡単ですが、5.10dにもなるとクライマーじゃないと登れない気がします。
「……それで、タイマーはコレ。使うか理解らないけれどね」
「はい……」
空き地、公園だろうか。そのベンチの上で、フォクシィにカメラの使い方を教える。
正直、自分でもよく分かっていないけれど。
「こんなものかな。じゃあ、行こうか」
行き先は、オストックの岩場。
態々、あの場所にフォクシィを連れて行って。余計に、傷つけてしまわないだろうか。少し、そんなことも思って。でも――
「フォクシィ。オストックの岩場は嫌いになった?」
「――っ」
ぶんぶんと。フォクシィは頭を振る。
そうだと思う。彼処は、良いところだ。人だって、フォクシィは心無い奴らにも会ってしまったけれど。決して、悪い人達ばかりじゃ無いんだ。
「今度は、フォクシィも登れるといいね」
「……」
無言のまま、フォクシィは付いて来る。
彼女の歩幅に合わせながら、少しづつ目的地を目指した。
「――すいません。ビレイをお願いできませんか?」
岩場に、着いた。着いてからの、第一声は其れ。
この岩場は、リードルート。トップロープにすれば、ソロシステムでも出来るけれど。其れじゃ、味気ないから。
「あんた、どっかで見たこと有る顔だなあ。まあ、構わないよ」
声を掛けた相手は、初老の男、二人組。坊主と、白髪の。
通りがかったフォクシィを見ても、それ程気にした様子じゃなかったから、お願いした。
「会ったことは、無いと思いますよ……?」
「そうか? まあ、気の所為なら構わないさ」
そんだけ男前なら、忘れることも無いだろうしな――
男の片方、坊主の人がそう言って。
「取り敢えず、最初だけ此処からやってくれないか? カラビナを回収して欲しいんだ」
白髪の人が、話に入る。
もう移動して、休憩したかったから丁度いいな、と。坊主の人も。
「分かりました、じゃあ準備しますね」
此処のトポは、持って来ていないけれど。確か、5.10台だったか。シューズは出さなくても良いだろう。
スリングだけ、身体に括って。軽いストレッチをしつつ。
「そっちの嬢ちゃんは、どうすればいい?」
途中、そんな事も聞かれて。
「怪我をしてるから登れないので、一緒に居させてもらえませんか?」
「勿論構わねえさ」
ふうん、嬢ちゃんも普段は登ってんのか! ドワーフの子供が登るのは珍しいな――
そうやって声を掛けたりしてくれて。フォクシィも、はいとか。そうなんですかとか。受け答えはしている。相変わらず、俯いた侭だけど。
「じゃあ、お願いします」
「オッケー! お手並み拝見だ!」
準備が出来て、気持ちのいい返事が返ってくる。
いい人たちで良かった。こういう人のビレイなら、楽しく登れる。
僕は、壁へ向かって――
「――それにしても兄ちゃん、上手すぎねえか?」
其れから、この人達と一緒に三つくらいルートを回って。
何だかんだで、打ち解けてきて。坊主の人に、そう言われる。
「確かに、ここいらでも殆ど居ないんじゃないかな」
白髪の人も、同意して。
今日の成果は、全て一撃。未だ、それ程のグレードでも無いからだが。
「こんなでも、大学で山岳クラブに居まして」
「はあー。そりゃ、凄いわけだ」
こんだけ褒めてくれれば嬉しいものだけれど。この二人も、かなり登れる。
少なくとも、一年二年の感じじゃない。そういう年月を岩に欠けているのが分かった。
「……」
相変わらず、フォクシィは自分からは話さない。
再会した時よりは、落ち着いたみたいだけれど。
「じゃあ、次は此処だ」
白髪の人が、指を刺す。
成る程、今日一番の傾斜角。二人も、目つきが代わった様に見えるし、コレが目的だったのだろうか。
だけれど――
「――すいません。隣のルートって、分かりますか」
「隣?」
そう、隣。幾つか打たれたボルト達。ルートが、有るか無いかじゃ、有るらしい。
「ああ。其れはさ、打ったは良いものの、誰も登れなかった奴だよ。どんだけハングドッグをしても無理だったんだと」
白髪の人が言った。
ああ、そういうものか。確かに、此方よりも一段と強い傾斜は、いっそう凶悪だ。
(どれほどのモノだろう――)
惹かれる。未知のルート。誰も登れていないルート。
ああ、そう思ったら。もう堪らなくて。
「すいません。――此方を登らせてください」
気付いたら、そう頼んでいた。




