046 柳の下で
トラバース……クライミング中に、横に移動すること。
ガストン……親指を下に向けて、ホールドを持つこと。伝説の登山ガイド、ガストン・レビュファの写真が由来です。
柔らかめの、フラット・ソールのシューズ。足裏の感覚がよく判る。
かなり、最初期に作った型で。同じ種類の、此れは三代目だけれど。其れでも、今使ってる靴の中じゃ、一番長い。
「ソール、摺り減ってきちゃったな」
大きくも小さくもない、手頃な大きさの岩。割れ落ちて、豊富なホールドのラインを、只管にトラバース。体を、暖めていきながら、考え事をする。
年季も入ってきて、足の形にぴったり合って。愛着も有る。内革に穴は、未だ空いてはいない。ソールを張り替えれば、未だ使える筈だ。
「うん。そうしよう」
クライミング・シューズは、幾つも作った。今だって、使える奴が何足も有る。
元々、物持ちは良い方だけれど。靴に関しては、其れが顕著で。それなのに、次から次へと作るもんだから。もう、部屋の棚が、溢れ返るくらい。備品と言って、部室にだって置かせてもらっているけれど。あれだって、卒業の前にどうにかしないといけない。
「本当に、備品にしてしまおうか」
山岳クラブである。自由に使っていいと言えば、喜ぶ奴は幾らでもいるだろう。使い古しでも、安くすると言えば、買い手も出るかもしれない。
「まあ、なるようになる、筈」
そう、最後に呟いて。
壁面から降りる。そして、次の岩へ。
垂直な、カンテライン。其処から、軽く登って。また、リップをトラバース。
「ふう」
息を、少し切らしながら。行って、戻って。時折、高く上げた足に体重を掛けながら、登りながらの柔軟。
少し、固くなったかな、と思う。柔軟は、毎日やる。けれど、質としては、固くなりやすい方なのだろう。それでいて、筋肉は使うから、気を使わないと、すぐにこれだ。
「いっその事、股の関節を外してしまおうか」
何処かで聞いた、戯言の一つ。一度股関節を外せば、硬くならないとか。
デメリットの方が大きいだろうに。そんな事を本気で信じてしまいたくなる程に、柔軟性というのは、死活問題であった。
――まあ。
「チェスターとかに比べたらマシだし、未だ良いや」
アイツは、なんというか。鋼の様な肉体を持つのは構わないけれど。
――関節まで鋼で作っちゃあ、碌に動きやしないだろうに。
準備運動を、一通り済ませて。本命に行くのはまだ早い。トポだけ書いて、前には登っていないラインなんて、山ほどある。比較的、簡単なラインから――それでも並のクライマーには登れないだろうけれど――潰していく。
「…………」
先ずは、カブりの岩の。分かりやすいカチのライン。V4くらいであろう。
声を上げるほどでも無い。自分の調子を確かめるように、態とオープンで持つ。
とっ――
送った足先が、少しの音を立てて。しっかりとスタンスを掴む。
ガストンで引いた腕が、しっかりと固まる。そうして、ゆっくりと、次手を掴む。
「うん、良いね」
足を、代えて。ダイアゴナルで、リップを取って。漸く、声を出す。いや、一人でいるのだから、何も言わなくて当然だろうけど。
面の中央を走る、リップまで五手の、短めのライン。ジェイムズにとっては優しいけれど、登るために在るような、美しいルートだと思う。
「トポ。完成したら、部室に置いていこうか」
ズリズリ、と。足を引きずりつつ、岩の上に乗り出して。間違いなく、初登だろう。
「いや、駄目か。勝手には公開するなと、そう言われたんだ」
誰からか。勿論、カーナーシスから。
土地所有者の件もあるし。何より、金を取る算段を思いついたとかで。
「怖いよなあ。商売人って」
兄さんもそうだ。やはり、自分が行く世界じゃあ、無かった。もし行ってれば、どうなってたかと思うことは有るけれど。
下降路に惑いつつ、岩から降りて。少し休んで、また次の課題へ向かう。この充実した時間を送れる環境をくれた人達に、感謝をして。
「ああ、課題名は……後で作ろうか」
日が沈んだ後にでも、まとめて付けてしまおう。そう決めた。今は只管に、岩と向き合おうと。
日が、大分高くなった。既に、かなりの数を登って。その多くを、一撃か、二撃。一つ、五回くらい撃った課題も有るけれど。其れでもそんなもの。
但し、此れからやる課題は違うだろう。前やった感触では、核心までも行けなかった様に感じる。
「――相変わらず、綺麗だ」
久しぶりに有った女性を口説く様に、気障な台詞を吐く。相手は、艶やかにスラブ面を見せつける、美しい花崗岩。
「今度こそ、君を登るよ」
虫の付いた柳の木の前では、台無しかもしれないけれど。文字通りの柳虫。高揚した心で、岩を見つめる。
角ばった様相と裏腹に、面は、とても、滑らかで。この柳岩で、最も困難で魅力的なラインが、其処にあった。
――揺蕩う先へ、今度こそ。




