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002 花崗岩の誘惑

用語集


フリークライミング…ここでは、人工登攀器具を使用せず、山などへの登頂を目的としないクライミングを言います。山の登頂を目的とする場合、アルパインクライミングといいます。


アプローチ…目的の登攀箇所への、アクセスのことです。


トポ…岩、壁における、登攀箇所をまとめた図です。スタートと終了地点を含むルートを記載し、場合によってはグレードやルート名を載せる事があります。また、日本では登攀ルートのことをよく課題と呼びます。

 「申し訳ありません、カーナーシスさん。待っている内に体を温めておこうと思って」


 「そうか、いや気にはしていない。其れよりも、ジェイムズ」


 ジェイムズ。ジェイムズ・マーシャル。くるくるとカールする髪と、異性からは悪く思われないであろう整った顔立ち。大きくも小さくもない背丈が、肩口から伸びる腕の、その特徴的な長さを際立たせている。


 「今ので、慣らしか」


 老人カーナーシスは、驚嘆の声をあげて、もう一度、青年が登っていた岩肌を見る。なる程、よく見れば小さな穴や、とっかりが見て取れる。だが、其れが分かっていても。老人には、到底人が登りうるものには見えなかった。仮に若かりし青年カーナーシスであっても、其れをルート(・・・)とは言わない。


 「ええ。でも、此れくらいはちゃんとトレーニングをすれば、意外と登れます。うちのクラブの奴でも、何人かは」


 何でも無いことのようにジェイムズは言う。山岳クラブの精鋭達が、トレーニングを積んで何人かしか登れないのだから、やはり其れは簡単な事では無いのだ。けれども、


 「ということはジェイムズ。今からお前が見せてくれるのは」


 やや興奮した様にカーナーシスは問う。それに、


 「ええ――」


 短く切ったあと。


 「僕だけの、僕にしか出来ないクライミングです」


 これくらいしか出来ることが無いから、とジェイムズは言った。




 「でも、本当によろしいのですか」


 二人歩く中、ジェイムズは聞く。あれ(・・)は少し離れていますので、と待ち合わせの場所から歩き始めた道すがらである。


 「良い。構わん。其れに、まだ決まったわけでも無いだろうよ」


 カーナーシスは答える。何の話かと言えば、スポンサードである。詰まる所この酔狂な富豪は、条件こそあれどジェイムズの登攀に対する援助を申し出たわけである。

 ジェイムズにとっては、願っても無いことである。登山そのものが娯楽の一つとして受け入れられている近年。極所登山を生業(なりわい)とするクライマーは、国からの援助が無くとも、登山用具を扱うメーカーの広告塔となることで食いつなぐことが出来た。だが、フリークライミングという概念はあっても、登山のいち側面やトレーニングの一貫に過ぎない時代である。専用の道具もないこの行いに、賛同するスポンサーなど居るはずが無かったのだから。


 「なあジェイムズ。お前はこれしかないというが、何のために登るのだ」


 老人は問う。その答えは分かりきっているけれど。


 「多分――」


 ジェイムズは口を開く。


 「楽しいからです。好きだからです、登るのが」


 思った通りの答えが帰ってきて、老人は皺の刻まれた顔を綻ばせる。


 「それだよジェイムズ。本音を言うと、私は自分自身の手で登攀(とうはん)をしたいと思っている。」


 「それは」


 今からでも遅くありません、とは青年の口からは言えなかった。努力を重ねるほど、衰えをていく肉体を自覚させる行為を、安易に認める訳にはいかなかった。老人が、(かつ)て鉄の男であった事を知っていたから。


 「いいんだ。分かっている。しかし、役にも経たない金を抱えたままベッドで朽ちるのも嫌なんだよ」


 老人カーナーシスは、拳を握りしめていた。腕が震え、掌に爪が食い込んでいる。ジェイムズは老人が諦めきれていないのを察せざるをえなかった。


 「だからだ、ジェイムズ」


 老人がジェイムズを見る。垂れた瞼に埋もれた眼光が、その言葉の重さを物語る。


 「私に夢を見させてくれよ。ジェイムズ。世界で最高のルートを登るお前の背中に、私の魂を乗せていってくれ」


 ジェイムズは、何も言わない。言葉で返すべきでないと思ったから。

 ジェイムズがスポンサードを受けるための条件は二つ。一つは、己のクライミングで、カーナーシスを納得させること。もう一つは、アプローチ図とトポ図を編纂しカーナーシスへ送ること。この場で果たすべきは、もちろん前者である。


 「もう少しです」


 十分程歩いたか。もうカーナーシスの目には、二人の目的地が見えていた。


 「あれか」


 「花崗岩です」


 目に見えたのは、先程よりも一回りほど小さい岩である。それでも4メールはあるだろう。しかし特筆すべきは、其の形である。


 「奥の、スラブ面を登るんじゃ無いんだろうな」


 カーナーシスは、分かりきった確認をする。


 「ええ、違います。こんなのを見せられて、そっちで満足する訳にはいかないじゃないですか」


 クスリ、とジェイムズは笑った。

 

 「此の岩からルートは何本かとれます。でも、今日登るのは一つです」


 どこからか割れ落ちたのだろうか。白い半円状の断面は美しいほど真っ直ぐで。それが、およそ135度の角度を持って天に伸びていた。


 「それじゃあ、準備をするので少し待って頂けますか」


 この時カーナーシスは、自分の行動は間違っていなかったと。そう、感じた。




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