032 アレン・マーシャル
何年ぶりだろうか。アレン・マーシャルは、石灰岩の壁面を登る。このルートの初めは、スラブから。全体を通して、ホールドの掛かりは良いから、上部の薄被りが、ルートの核心である。
シビアでは無いスラブである。摩擦が悪い石灰岩とはいえ、落ちる箇所は無い。鈍った体の感触を確かめるように、アレンはゆっくりと動く。
(次は、右手。足は、腰元に良いのがある――)
右足を上げて、ハイステップ。上がり辛い足を、なんとか上げる。
どうにも、頭と体が繋がらない。全盛では、視界に呼び込んできた映像に、体がダイレクトに反応していた。けれど、そうでない今は、一度頭で動きをシュミレートしなくてはいけない。
結果――
(余計に飛ばすことは無いから、リハビリには丁度いい)
中盤まで、いいペースを保つことになった。腕や体の疲労感も丁度良い。
トップロープだから、上に行く毎に増す、ロープの重みも無いし、クリップを考える必要も無い。だから、面と向かった岩だけとの戦いで。
(シンプルで、悪くないけれど……な)
ただ、其処に冒険的な要素は無く。戦略的要素にも掛けていて。これを否定するわけじゃあ無いけれど。
(古びたボルトでも、落ちやしないからと。言えば良かったんだろうか)
でも、無理だ。今の自分は、鉄の男では無いから。
こうせざるをえない、自らの現実に。覚える寂しさは、かき消すことが出来なくて。
けれど――
(傾斜が変わる。垂壁パート……)
けれど――
(一手二手は、どうという事は無いけれど。確かにその後は遠く見える)
けれど――
(シエラが落ちた場所。足の置き場が理解らなかったんだろうが……)
けれど――
(此方に右足乗せりゃあ、一発だよ)
――そんな寂しさや不安を、全部抱えて、今の俺は進まなくちゃあいけない。
(シエラ。だから――)
――お前も。先の見えない、上手くいかないそんな恐怖を。克服なんてしなくていいから。
(お前が悪戯っ子なのも、皆、よく知っていたんだ)
其れでも、本当にやっちゃいけない事は、絶対にやらなかったから。
それも含めての、聞き分けのいい子。言うことを聞く子じゃなくて、考えて、聞き分けられる子。
(お前は、大丈夫だよ。いつも通り、大丈夫かどうか、出来るかどうか。考えて――)
――悩み抜いた末の一手を出せば、大丈夫だから。
そうして、終わる垂壁パート。壁の終わりではない。少しだけの、本当何手かの薄カブり。
アレンは、右手をまず出して。
(此処の、核心)
次の左手。普通に出せば、少し引き付けなきゃ駄目だけれど。
(案外考えれば、どうにかなるもんだよ)
アレンは少しばかりの小細工をして。軽く伸びた左手は、きっちりとホールドを捉えて。
「アレン兄さんは、優しいね」
ジェイムズは言う。言った先の、相手はシエラ。
「そう、なんでしょうか」
シエラにはよく分からない。あの、登りを見せられて。優しさとか、そういうものを感じ取れる感性は無い。でも――
「あそこを取る手。少しだけ、らしく無い気がしました」
核心取りの一手。ああ、その通り。アレンならば、必要の無い動き。だから。
「そうだね。あれは、シエラのための動きだから、よく覚えて――」
覚えて。何でそうしたかを、考える。
シエラはクライマーじゃない。一つ一つの動きについて、何でそうしているかは、理解らない。それでも。
――大事なのは。自分なりの、答え。
アレンは登りきった。ブラザーフッド。嘗て自らが見出したルート。リードルートだから、今回のを再登とは呼べない。
だけど、良かった。アレンは、満足だった。自分はもう、大丈夫だから。
だから。
「シエラ。次は、お前だよ」
石灰岩の壁の上。アレンは独り言つ。
兄弟たちは、遠く下。この瞬間ばかりは、アレンはこの場の誰よりも高みに居た。
カブり……壁が、手前側に傾くこと。つまり、傾斜が90度よりも大きい場合をカブる、と言います。すこしだけなら薄カブり。かなりならどっカブり。カブっている壁のことをハング壁。かなりカブっている壁の事をオーバーハングと言います。




