その一 覚醒
その世界はやたらとちっぽけで、何もなかった。
右足を繋ぐ、重く頑丈な鎖と、冷たく湿った床と、四方を塞ぐ壁だけが、己の知覚を確認できるよすがだった。
深く塗りこめられた闇の淵、凍りついた時間の中で、気の遠くなるような静寂が、耐え難くのしかかり、ともすれば崩壊寸前の精神が、自分に残されたただ一つのもの、自我さえも手放してしまいかねなかった。
永遠とも思える責苦。発作はなかば周期的に襲ってくる。それは丁度、寄せては引く波のようだ。卑小で無限な世界の中、暴れ、叫び、涙する物体が、ただ自分のみだという事実に錯乱する時間が過ぎれば、あとは痴呆のような放心状態が待っている。
何も感じず、何も見ず、自分という存在を明け渡し、死んだ魚のように虚無の凪に身を任せるのだ。次に来る嵐の時間まで。
なぜだろう?自分は誰で、ここは何処で、世界はどうしてこうなのか?はじめの頃は、そんなことばかりを考えていた。だが、応答者のいない世界でこれは無意味な設問だった。一方通行の思考は、そのうち自問自答のメビウスの輪となり、いつしか狂気の階梯を下っていく。
だから、問いは封印した。それが答えられるべき問いであるならば、なされるべき時と場所に、しかるべくして、なされるものなのだろう。だから、それまでは正気を保つために、その質問は禁じられるべきなのだと、理解した。
ここに「時」というモノが存在すると確信したのは、闇がコの字に裂け、光というものが、この世界に斬りこんできた時だった。初めての変化だった。
目蓋の存在理由が実感された。完全なる闇の中では目を閉じていようと、開いていようと、映るものは変わらない。それは外界からの強い刺激を軽減するためについていたのだ。
光は一瞬にして、世界を破壊した。何万何億という光の矢が目蓋を通してさえも目に突き刺さる。その鋭い痛みにのたうちまわりながらも、心は歓喜に震えた。
これは産みの痛みなのだ。世界は止まっていた時計の針を再び動かしはじめた。
目を覆っていた目蓋と両手をおそるおそる取り払ったとき、それまでの世界は崩壊し、新たな再建を遂げていた。駆逐された闇はいまやちっぽけな部屋の片隅に昔の威光を留めるばかり。触感にたよる事なく知覚される自分の体。
視界という新たな贈り物に、狂気し、己の体と、かつて世界の全てでありながら、それまで見ることのなかったものたちを飽くこともなく、眺め続けた。
手も、足も、指も、胴も、くるぶしまで伸びたべとべとした髪も・・・それらは奇妙で見たこともない姿を晒して、そこにあった。あれほど固く、自分の足を捕縛していた鉄鎖も、光の洗礼のあって塵と消えた。変色し、擦り切れた足首さえ見なければ、そんな物に繋がれていた事実さえも忘れてしまいそうだ。
内奥から突き上げてくる何かがあった。それは嗚咽となって喉を震わせ、頬をつたって床に落ちた。
その感情の名前を自分は知らない。
理性を一息に呑み込んで、貪欲に肥大していくそれは、今まで覚えたどんな感情をも凌駕する甘美さで、自分を満たした。
新しい世界はすぐそこにあった。それは光に満ち溢れ、美しく感動的だった。古い世界を長方形に切り取って、自分に手を差し伸べる光の世界。
だが、たとえそれがどんな醜い世界であったとしても、やはり自分の足は止まらなかっただろう。それがどのような変化であれ、変化であるかぎり、自分はそれを祝福する。停滞の淀みにあって、自分はこの時をひたすらに待ち焦がれていたのだ。
だから、くぐった。二つの世界の境界を。一寸の迷いも戸惑いもなく、その新しき世界を、我が身に受け入れた。