三回鳴ったら
夏休みの学校は音が少ない。
いつもなら廊下に上履きのこすれる音がして教室から笑い声がこぼれて誰かが階段を駆け上がって先生に怒られている。けれど八月の午後の学校は違う。校庭の向こうからセミの声ばかりが降ってきて、それがうるさいせいで建物の中は余計に静かに感じた。
四年二組の登校日は朝で終わった。宿題を先生に見せて育てている朝顔の様子を見てそれで解散。だが悠斗は帰れなかった。机の横にかけていた青い水筒がなくなっていた。
「また忘れたのかよ」
健太が笑った。
「忘れてない。朝はあった」
「誰か間違えて持って帰ったんじゃね?」
「名前書いてるし」
悠斗はランドセルを背負い直し教室をもう一度見回した。机の下、ロッカー、窓際、掃除用具入れの横。どこにもない。先生は職員室に戻っていて他の子たちはもう校門の方へ歩いていた。
健太は少しだけ待ってくれたが最後には「先に帰るぞ」と言った。
「一緒に探してよ」
「やだよ暑いし。夏休みの学校って変な感じするし」
健太はそう言って廊下の奥を見た。
「なんか音が変じゃね?」
「音?」
「さっきからどっかで鳴ってる」
悠斗は耳をすました。セミの声。遠くで車が通る音。職員室の方から聞こえる電話の短い呼び出し音。
それから。
ちりん
小さな鈴の音がした。風鈴みたいだったがこの学校に風鈴はない。
「ほら」
健太が声を低くした。
「夏休みの学校で鈴が三回鳴ったら音のする方に行っちゃいけないって話知らない?」
「知らない」
「去年の六年が言ってた。三回目まで聞いたやつは放送室に呼ばれるんだって」
「放送室?」
「そんで自分の声で校内放送が流れる」
「なんて?」
「助けてって」
健太は自分で怖くなったのか急に早口になった。
「じゃあ俺帰る。水筒は先生に言えよ」
「ちょっと」
健太は振り返らなかった。上履きの音がパタパタと遠ざかり悠斗は一人になった。
ちりん
二回目はさっきより近かった。音は階段の方から聞こえた気がする。四年二組は二階にあり、階段を上がると三階には音楽室と図工室と普段はあまり使わない第二理科室がある。放送室は一階だ。だから健太の話とは違う。違うなら大丈夫だと思ったのに足は動かなかった。
ちりん
三回目が鳴った。
その瞬間、校内放送のスピーカーがキンと鳴った。耳の奥に刺さるような音のあとザザッと砂をこするような雑音が続く。
『……四年二組の……』
悠斗は顔を上げた。放送の声は女の人だった。先生ではない。低くてかすれていて遠くから電話しているみたいな声だった。
『……青い水筒を……忘れた人……』
背中に汗が流れた。
『……取りに来てください……』
放送はそこで切れた。廊下にはセミの声だけが戻ったがさっきより遠くに聞こえた。
悠斗は教室に戻ろうとした。先生に言えばいい。職員室に行けばいい。そう思って振り向いた時、四年二組の中でころんと何かが転がった。
教室の入り口からのぞくと誰もいない。けれど一番後ろの自分の机の上に青い水筒が立っていた。さっきまでなかった水筒。名前シールも貼ってある。間違いなく悠斗のものだった。
ふたが少し開いていた。
ぴちゃ
中から水の音がした。朝入れてきた麦茶はほとんど空だったはずなのに、今はたっぷり入っているような音がする。
悠斗は近づかなかった。近づいてはいけないと思った。
『……早く……』
また放送が入った。
『……ぬるくなるよ……』
悠斗は廊下へ飛び出し職員室へ向かって走った。階段を駆け下りようとした時、上からトン、トン、トンと足音がした。
誰かが階段を下りてくる。
けれど姿は見えない。音だけが一段ずつ近づいてくる。悠斗は反対側の階段へ走った。廊下の床が妙に長く感じた。走っても走っても職員室へ近づかない。壁に貼られた去年の運動会の写真だけが何枚も続いている。
赤白帽。玉入れ。徒競走。知らない子たちの笑顔。
その中に一枚だけ変な写真があった。放送室の写真だった。暗い部屋の中にマイクが一本立っていて、その前に小学生くらいの女の子が座っている。顔は黒くつぶれて見えない。写真の下には手書きで名前があったが紙が古くなっていて読めなかった。
悠斗は足を止めずに廊下を曲がった。
そこに放送室の扉があった。
職員室の隣にある普段は鍵のかかった部屋。扉の上の赤いランプがぼんやり光っていた。
使用中。
悠斗は息を殺して通り過ぎようとした。扉の向こうで鈴が鳴る。
ちりん
続いてマイクに息を吹きかけるような音がした。
ふう ふう ふう
それから悠斗の声が聞こえた。
『助けて!』
悠斗は動けなくなった。昨日でも明日でもない、今の自分の声だった。泣くのをこらえている時の声。
『助けて先生!ここにいる!』
悠斗は自分の口を押さえた。声なんて出していない。それなのに放送室の中から自分の声が流れている。
『開けて!』
扉のノブががちゃりと回った。職員室はすぐそこにある。だが中からは何の音もしなかった。電話も、先生たちの話し声も、紙をめくる音も消えていた。
扉が少し開いた。中は夏の午後とは思えないほど暗い。マイクの赤いランプだけが光りその前に青い水筒が置かれていた。さっき教室にあったはずの水筒。その横に銀色の小さな鈴がある。ひもは切れていた。
ちりん
誰も触っていないのに鈴が鳴った。
悠斗は走った。職員室ではなく昇降口へ。上履きのまま外へ飛び出し熱い校庭を踏んで校門まで走った。背中で校内放送が鳴り続けている。
『四年二組の悠斗くん』
『水筒を忘れています』
『取りに来てください』
『取りに来てください』
『取りに来てください』
校門を出た瞬間音が消えた。
セミの声が戻った。車の音も遠くの家から聞こえるテレビの音も。
その夜、悠斗は熱を出した。母親に聞かれても水筒をなくしたことしか言えなかった。学校で変な放送があった。自分の声が聞こえた。そんなことを言えばもう二度と学校に行けなくなる気がした。
次の日、母親が学校に電話した。先生は「青い水筒なら教室にありました」と言ったらしい。夕方、母親はそれを持って帰ってきた。
「よかったね。ちゃんと名前が書いてあったって」
悠斗は布団の中で首を振った。
「いらない」
「どうして?」
「いらない」
母親は困った顔をしたが水筒を机の上に置いた。
その夜、家の中が静かになった頃、悠斗は目を覚ました。エアコンの風の音。冷蔵庫の低い音。どこかで父親が寝返りを打つ音。
ぴちゃ
机の上から水の音がした。
ぴちゃ ぴちゃ
水筒の中で何かが動いている。
悠斗は布団を頭までかぶった。聞こえないふりをした。
ちりん
一回目。
悠斗は耳をふさいだ。
ちりん
二回目。
悠斗は目を閉じた。
ちりん
三回目。
部屋のすみでスピーカーもないのに放送の雑音がした。
ザザッ
『……悠斗くん……』
声は悠斗の声だった。
『……水筒を……』
布団のすぐ横で、誰かがしゃがむ気配がした。
『……取りに来たよ……』
ホラー物は読むの好きだけどあまり書いたことがない。




