本編
「うわああ!」
見開いた目に眩しい光が飛び込む。炎ではない。
やがて停止していた思考回路が働き始める。そうだ、ここは俺の部屋。
「……。また同じ夢か」
俺はユーリ・ウィルソン、十六歳。両親の離婚を経験しているが、俺を引き取った母は再婚し、新しい父と妹ができた。今は親元を離れて独り暮らしをしている。
夢で見た街は十年前に離婚前の両親と一緒に住んでいた場所。街が燃えた事実はなく、あの夢は俺の実体験ではない。
「なんであんな夢ばっか見るかな。リアルに熱いし」
今日はまだいい方だ。
あそこで起きられないと、銀色の鋭い物――多分剣だろう――が炎の壁を両断する。誰かが助けてくれたのかとほっとするのも束の間、その銀色の剣に斬られて目が覚める。そこまで夢を見た時は、起きてからしばらくは右肩から左の腰にかけて鋭い痛みを感じることになるのだ。実際に血が流れたりはしないけれども。
「おはよう、ユーリ。今朝もうなされてたわね。凄い寝汗よ」
ベッドの上に身体を起こした俺の視界を、真新しいタオルが遮る。
「ふがっ」
忘れていた。同居人がいたことを。
「気色悪いことしてんじゃねえ、リューフィン! お前、オスだろうが」
「あれ? 現実世界じゃ、男は同居人にこういう風に起こしてもらうんじゃないのか。ああ、照れてるのか。いいぜ、今度お前が先に起きた時にはお前がこんな風に起こし――」
「できるか、どアホ!」
タオルを投げつけた。リューフィンはそれをひらりと避け、天井近くで静止する。
高さと幅は、長い部分がそれぞれ約一メートル。顔と尻尾を持つ、全身緑色の植物のような外見――実際、鉢植えの中でじっとしていれば観葉植物のモンステラにしか見えない。そう、リューフィンは人間ではない。もっと言えば、この世界の住人ではないのだ。
俺たちの住む世界が仮に現実世界だとするなら、互いに交じり合うことのない夢幻世界と呼ぶべき世界も同時に存在しているらしい。ところが、両方の世界の住人の中には、ごく稀に現実・夢幻両世界の中間に『幻実世界』という空間を作り出し、行き来する能力を持つ者がいるという。
リューフィンによると、俺はその能力を持つ者――ナジアであり、無自覚に能力を発動し、リューフィンをここに連れてきてしまったという。それが本当ならリューフィンには気の毒な話だが、彼に謝るのは事実を確かめてからだ。たしかにリューフィンは珍しい生き物だが、この世界の物ではないと決まったわけでもない。
ベッドからおりて着替えつつ、俺はリューフィンに聞いてみた。
「一体どこで聞いたんだ、そんなしょーもない話」
「ユーリのパソコン」
俺は頭を抱えた。
「インターネットか。ネットの情報は半分くらい嘘だと思え」
「なんだそれ。もしかして人間って役に立たないものが好きなのか」
一瞬、返す言葉をなくした。
俺はいったんリューフィンから目を逸らして着替えを済ませ、もう一度見上げて言ってやった。
「んー、そうかも。だから俺、お前のこと気に入ってるのかもな」
「……。そうか。そんなに気に入ってくれてるなら、毎朝今朝みたいな起こし方してやろう」
「待て待て待て! 俺が悪かった反省してるかんべんしてくれ」
悔しいが認めざるを得ない。リューフィンの方が一枚上手だ。身体はちっこいが、俺の倍は生きているらしいのだ。
――キイイィィン!
突然の耳鳴り。俺は両耳を塞いでベッド脇にしゃがみ込んだ。
周囲は一瞬真っ暗になり、次いでグレーの空間が広がった。
ベッドもなければ天井もない。ここは最早俺の部屋ではない。
思い出した。たしか前回もこんな感じだった。そして、グレーの空間の中でリューフィンと出会ったのだ。
そう、ここはナジール。俺が作った空間ではないが、ナジールに来るのはこれで二回目だ。
「なんだリューフィン。お前もナジールと現実を行き来できるんじゃないか。だったらいつまでも俺の部屋にいないでとっとと出て行けばよか――」
俺の言葉を遮り、リューフィンは鋭い口調で警告した。
「俺はナジアじゃねえんだ、ナジールと現実世界の行き来なんてできねえ。それより、見ろよ正面。ワケわからんが、変な顔した奴がこっちを睨んでるぜ」
目を懲らすと、確かに正面にそいつがいた。一見したところ、人間の女の子だ。髪型はポニーテールだが、髪の左右に垂れる羽根形の髪飾りは、まるでどこかの国の先住民族が身に着ける民族衣装のようだ。
顔の半分を奇妙な仮面で隠しているが、見えている部分だけを見ても整った顔立ちだということがわかる。歳は俺と同じくらいか。しかし、せっかく見えている方の顔にも、目の下に道化のようなペイントを施している。そして何よりも、突き刺すような視線に強烈な殺気を込めてこちらを睨んでいる。それらを総合して、リューフィンは“変な顔”との評価を下したようだ。
彼女は普通のジーンズを穿き、青いケープを着ているが、それ自体はとりたてて奇抜なファッションだとは思わない。ただ、背に担いでいる物が異様だった。
それは冗談のように大きな鎌――そう、まるで死神のイメージイラストなどでよく見かける大鎌だ。
唐突に気付いた。彼女は大鎌を担いでいるわけではない。振り上げているのだ。自分は命を狙われている。そう気付いても、なんだか実感が湧いてこない。
「俺、なんか女の子に恨みを買うようなことしたっけかなあ」
「呑気に冗談言ってる場合じゃないぜ、ユーリ! あの殺気はただごとじゃねえ。とっとと現実世界に逃げ込もうぜ」
大鎌女が間合いを詰め始めた。近付くにつれ、殺気が物理的な圧力と化して俺の身体にのしかかる。実際に息苦しさを感じ始め、ようやく俺は生命の危機に直面していることを実感してぞっとした。
三秒、四秒。意地悪なほど時間がゆっくりと流れる。
「何やってんだユーリ! 早く現実――」
「さっきからやってる」
大鎌女が声を立てて笑った。
「無駄だ。私は夢幻世界に住むナジア。これはお前が作ったナジールじゃないからな、簡単には逃がさないぞ。私はお前たち現実世界のナジアを狩る――ナジア・ハンターだ」
鈴が鳴るような綺麗な声。こんな娘が俺を殺しに来た? ミスマッチが非現実感を誘い、それまで感じていた恐怖が薄れていく――ああ、やっぱりこれは夢なんだ。
「残念だったな、ナジア。夢なんかじゃないぞ。悪いがその命、もらい受ける」
相変わらず鈴の鳴る声で語りかけ、大鎌女は俺の右肩口へと大鎌を振り下ろした。
切っ先を見つめた刹那、ビデオのスロー再生を見ているように相手の動きが緩慢になった。
刃先が迫る。正確に、俺の肩を目掛けて。あと六十センチというところか。
きっと、火事の夢の続きのように、斬られて血が噴き出したところで目が覚めるんだ。汗びっしょりかいて。ああ、しばらく痛みが続くのは憂鬱だな。三十センチまで迫った。
「ぼーっとしてんじゃねえ、この馬鹿」
変だな。大鎌はスロー再生なのに、リューフィンの声は普通に聞こえる。
リューフィンの尻尾が俺の胴体に巻き付いた。
スロー再生だというのに、遊園地のコーヒーカップにでも乗っているかのように景色が流れる。
あれ。この景色って、夢で見たあの街の火事……。色もなければ熱さも感じない。たとえるなら、美術館の中で周囲の壁に白黒写真を貼り付けて眺めているような。
おっと、今はじっくり観察している場合ではない。敵に視線を戻す。
大鎌女は武器を振り降ろし続けている。なるほど、あいつだけスロー再生なのか。
「ナジールは夢じゃ……ないんだ……ぞ。あんな……大鎌に切り裂かれたら……死ぬぞ」
リューフィンの息が上がっている。こんな小さな身体で俺を振り回したんだから当然か。
「ありがとう。でもあいつ、何でスローモーションなんだ?」
リューフィンはひとつ深呼吸すると、落ち着いたのか普通に話せるようになった。
「そいつがユーリ、お前の能力なんだよ。これではっきりした。ユーリについていった甲斐があったぜ。お前にはこの先、あの女みたいなナジア・ハンターどもから現実世界のナジアを守る、ナジア・ガードとして戦ってもらう。俺の相棒として、な」
……は?
「なに勝手に人の進路決めてくれちゃってんの? それバイト? バイト代出るの? 俺まだ学生なんですけど。それに戦うなんて嫌だし」
「お前の口はマシンガンか……。俺に反撃する前に、あの女をどうにかした方がいいと思うぜ。お前はあの女の時間を減速したのか、俺たちの方を加速したのか知らんが、その効果がそろそろ切れる」
大鎌女が振り向いた。その動きには、さっきまでの緩慢さがない。時間の流れ方が元に戻ったようだ。
「ナジールから脱出できない以上あいつと戦うしかないぜ、ユーリ」
「うるさい! 人間には話し合いという平和的解決策があるっ」
俺は大鎌女に呼びかけた。
「おい大鎌女っ。何を殺気立っているのか知らんが、俺は命を狙われるようなことをした覚えはない。まずは話を聞け! ……というか、俺は何も知らないから、お前の知ってることを教えろ」
「瞬間移動か? 面白い技を使う奴だ。だが、次はない。覚悟するんだな」
なにアイツ。俺の話ぜんっぜん聞いてない。大鎌女はじりじりと、最初より慎重に間合いをつめてくる。
後退りしようとしたが軽く目眩がした。理由はわからないが、百メートルほど泳いだ直後のように体がだるい。もう一度あの大鎌を振り下ろされたら……。
「ま、待てってば! 日本という国じゃ、果たし合いとかする前に名乗り合うのが礼儀って言うぜ。せめてお前の名前くらい教えろ」
「アホかユーリ。いきなり大鎌で襲ってくる相手だぞ。力を貸してやるからさくっとやっつけて、ユーリの部屋に戻ろうぜ」
俺を振り回すだけで息が上がるような奴から“力を貸す”って言われてもねえ……。
「おわ」
リューフィンは俺の右腕に巻き付いてきた。ぐるぐると身体を捻らせ、その先端は俺の指先からはみ出していく。そして一メートルほどはみ出した先端が針のように鋭く尖った。
「ケイティ。それが私の名だ。苗字はない。日本か。その国の言い方に倣うなら、“冥土の土産に持っていけ”」
こいつたしか夢幻世界のナジアとか言ってなかったっけ。こいつにしろリューフィンにしろいろいろと知っていやがるようだが、何も知らない俺が命を狙われるってのはむかつくぜ、全く。
「ユーリ・ウィルソンだ」
今や俺の剣と化したリューフィンが、切っ先を鋭く光らせた。余計な演出はいらないっての。
「ふ。やる気になったか。だが、お前の名は知ってるよ。最初からお前をターゲットに、私のナジールに引きずり込んだんだからな」
「熱烈な歓迎、痛み入るぜまったく」
どうしてもこの女の子――ケイティとチャンバラしなきゃいけないようだ。しかしヤバイな、俺はフェンシングも日本の剣道もやったことないってのに。
(力を貸すって言っただろ、ユーリ。お前は俺のことを“何よりも硬い剣”だと思ってろ。それだけで勝てる)
「そりゃ一体なんの気休めだよ。もしまた時間を操作しろって言うのなら勘弁してくれよ、リューフィン。どうしてあんなことできたのかわかんねえし、なんだか全身がだるいんだ」
(長いこと時間を操作するからだ。ぎりぎりまで我慢して、ほんの一瞬だけ使うようにしないと体力が保たないぜ)
「仕方ないだろ、自覚してやったわけじゃないんだし――」
ケイティが踏み込んできた。
「覚悟!」
魂を刈り取るという死神の大鎌さながらの武器。その切っ先が再び俺に迫る。
さっきと違い、スロー再生状態にはならない。
飛び退った俺の右頬から顎にかけて、汗とは違う液体が滴る。
遅れて鋭い痛みを感じた。
かすりもしなかったはずなのに、風圧だけで切ったというのか。
冗談じゃない。あんな鋭い武器を、観葉植物もどきでどう受け止めろというんだ。
(アホ! だから俺は硬いんだって)
ケイティは休まず、大鎌を下から振り上げてきた。
俺は反射的に、リューフィンを盾にすべく振り下ろす。
「うわあっ」
あろうことか、リューフィンは刀身を九十度に折り曲げ、大鎌を避けてしまった。
眼前すれすれを通過する、銀色の刃。
振り上げる場合は速度不足なのか、今度は風圧だけで切り裂かれることはない。
「硬いってのは嘘かっ」
(アホ、お前が硬いって信じてくれなきゃ俺は柔らかいままなんだってば)
ケイティはそんな俺たちに蔑むような、それでいてどこか哀れむような目を向け、大鎌を構えた。
「強いと聞いていたが、間違いだったようだな。せめて一撃で苦しまずにすむようにしてやる」
ケイティの眼光がぎらりと光る。
また、あのかまいたちのような一撃が振り下ろされる。
このまま無抵抗に切り裂かれるなんてごめんだ。
大鎌の切っ先を睨み付けた。
「しめた!」
スロー再生だ。
逃げようと思ったが、足が動かない。服を着たまま水中を歩くかのように体中が重いのだ。
こうなったらリューフィンに賭けるしかない。リューフィンは硬い。リューフィンは硬い。
「リューフィンは硬いっ」
俺は右腕を振り上げた。
いつの間にか強く緑色に輝いていたリューフィン。
振った軌跡に残像を描く。
緑色の光が大鎌を迎撃した。
俺はリューフィンを振り抜く。
まるで紙でも切るかのように、リューフィンはほぼ無抵抗に大鎌の刃を貫き、両断してしまった。
(時間の操作をやめろ、ユーリ。立てなくなったら反撃されるぞ)
「どうやったら元に戻るかわかんないんだってば」
反撃させなきゃいいんだ。女の子を殴るなんてできないし。
俺はケイティの手から大鎌を引き抜こうとした。動かない。どんな握力してるんだ、この子は。
ケイティの拳ぎりぎり目掛け、リューフィンを振り下ろした。それをもう一度繰り返し、拳の内側の柄のみを残し、大鎌を切り落とした。
「悪いが縛らせてもらう」
俺はケイティの髪飾りを引き抜き、それで彼女を後ろ手に縛り上げた。
まだ安心できない。ケイティの身体をゆっくり寝かせてやると、足首も縛り上げた。
時間の流れ方が元に戻った。音を立て、大鎌が地面に落ちる。
「な!? 貴様、何をしたっ」
ケイティは驚愕の表情で叫び、拘束されていることに気付いてもがいた。
俺はその場にがっくりと膝をついた。全身が疲れ切って、満足に言葉が出ない。
「これで勝ったつもりか。だが、私ごときと戦っただけでそれほど疲れるようでは望みはないな。あの方は必ずお前たちの現実世界を手に入れるぞ」
あの方だと。汗が目に入った。ひりひりする目を強引にこじ開け、ケイティを睨む。
「な!」
口から液体を流し、ケイティはこときれていた。
「自殺……」
「違う、自己破壊だ。こいつ、人間じゃねーし」
観葉植物に戻ったリューフィンが言った。
「……誰が観葉植物だって?」
ありゃ。声に出しちゃったかな、今の。
「口から出てるの血じゃないな。黒いし」
「オイルだ。こいつ、アンドロイドだから」
いきなりSFかよ。もうなんでも来い、だ。
「しかし、アンドロイドのくせに髪飾りひとつ引きちぎれないのか」
「ユーリ、お前は加速中すげえパワーが出てるんだってば。あの髪飾り、とんでもなく硬いんだぜ」
ふーん。
「で、色々と厄介なことに巻き込まれたっぽいんだけど、俺。説明してくれるんだよね、リューフィン君」
「ああ、まずはユーリの部屋に戻ってから、な」
「さっきは戻れなかったぞ」
「やってみてから言え。このナジールを作ったアンドロイドが壊れても、空間は維持したままだろ。今はこの空間をユーリが支配してんだよ」
俺は自分の部屋を思い浮かべ、そこに戻るよう強く念じた。
――キイイィィン!
突然の耳鳴り。俺は両耳を塞いでベッド脇にしゃがみ込んだ。
「ベッドだ。俺の部屋だ。……ってか、夢だよね、今の。夢であってくれ」
わかってたけど言ってみた。
「夢じゃねえよ」
そう、俺の頬にはケイティに切られた傷がある。まだ血が止まっていない。
「約束だからな。なんでも聞いてくれ」
そう言うリューフィンに、俺は言った。
「腹減ってるからな。取り敢えず飯食ってからだ。――ただ、ひとつだけ聞かせてくれ」
「なんだ」
「バイト代もらえるのか」
俺はナジア・ハンターから目を付けられていた。たぶんリューフィンにも。そしてナジールでのケイティとリューフィンの言葉の端々から、組織対組織の攻防の印象が感じられたのだ。
「保証するぜ」
自信満々に請け負うリューフィン。
「今、俺が現実世界でやってるバイトより額がいいのか」
「保証するぜ」
あさっての方向を向いて即答するリューフィン。
わかりやすい奴だが、相棒としちゃイマイチだ。
「誰がイマイチだ! 俺がいたから勝てたんだぜ、感謝しろよな」
女の子相手に喧嘩するのは嫌だが、アンドロイドならぶっ壊すまでだ。
どちらにしろ、降りかかる火の粉は払うしかない。今日から俺はナジア・ガード。
「聞いてんのかこら」
俺の敵は、ナジア・ハンター。