③「ぶつかりオジサン」が乗車する列車は遂に終着駅に到着し、独りよがりな彼の旅路も終わりを迎える
途中下車した駅でミヤザワが目を付けたのは、グレンチェックのパンツスーツ姿の女性だった。
いかにも優秀そうないで立ちに、ミヤザワは嫉妬を覚えた。
好都合なことに、相手はスマートフォンの画面に夢中で、前を見ていない。
ミヤザワはカバンを構え、自然に見える角度でぶつかった。
女性はバランスを崩し、倒れ込んだ。
スマートフォンが地面に叩きつけられ、小さな悲鳴が響く。
良い声だ。
ミヤザワの体の中でどこかの器官が、ぞわっと歓喜の声を上げた。
次は北口で高齢の男性をターゲットにした。
歩みは遅く、注意も散漫だった。
後ろから肩をぶつけると、高齢の男性はよろけ、そのまま崩れるように転倒した。
今度はあまり喜びの報酬が手に入らなかった。
相手が高齢者だからだろうか。
十数年後の自分自身に危害を加えたような気がして、罪悪感があった。
ミヤザワは足早に現場から立ち去り、大きく迂回して別の改札口から駅に入り直した。
遠目に最初の現場を観察すると、警察官が数名集まっていた。
「警察官にしかなれなかった低能どもが、くだらないことに駆り出されてご苦労なことだ」
ミヤザワは心の中で嘲笑しながら、その場を後にした。
自分の正義の行いが事件化されないことには絶大なる自信があった。
しかし、ミヤザワは気づいていなかった。
この駅には最新の防犯システムが導入されていたことを。
目立たぬように配置された防犯カメラが、ミヤザワの行動を鮮明に記録しており、
この日が終わりの始まりになる……
ぶつかりの被害に遭った女性は、駅のホームで転倒したあと、悔しさに震えていた。
スマートフォンの画面は割れ、膝には擦過傷ができていた。
周囲に助けてくれる人はいたが、加害者は足早に姿を消していた。
「これ、わざとじゃない?」
精密検査のために運ばれた病院の待合室で、彼女はSNSに投稿した。
「さっき駅で知らないオジサンに思いっきりぶつかられて転んだ。
念のために病院で検査受けてるけど、スマートフォンの画面にひびも入ったし、マジ最悪。
てか、これ前にも似たようなことあった気がする…」
この投稿にはすぐに反応が集まった。
「それ、私もやられたかも」
「〇〇駅で変なオジサンにぶつかられたことある」
「わざとぶつかるヤツいるって前から噂になってた」
次々と「自分も被害に遭った」という証言が集まり、
やがて『ぶつかりオジサン』という異名が生まれた。
ネットニュースのライターがこれを拾い、「駅で頻発する謎のぶつかり事件」として記事にする。
SNS上では「ぶつかりオジサンを捕まえろ」という声が高まり、
遂にはテレビの情報番組でも取り上げられた。
これに対して、警察の対応は迅速だった。
駅に設置された防犯カメラの映像を解析し、複数の被害者の証言と照合した結果、
不審な人物を特定した。
映像の中、犯人は無表情でターゲットを見定め、
計算された動きでぶつかっているミヤザワの姿がそこにはあった。
四月も半ばだというのに、朝の空気はひんやりとしていた。
薄曇りの空の下、ミヤザワは古びた1Kのアパートのドアを静かに閉める。
木造の階段を降り、ギシリと音を立てるステップを踏みながら、ミヤザワは思う。
今日もまた、苦痛に満ちた一日が始まるのだと。
慢性的に抜けぬ疲労感を引きずりながら、駐輪スペースに停めていた自転車にまたがった。
サドルの冷たさが体に染みる。
会社へ向かう気の重い朝。考えるまでもない日常のルーチン。
何も変わらないはずだった。
その瞬間までは。
ミヤザワは背後から突然、肩を掴まれた。
体が硬直し、ミヤザワの心臓が大きく跳ねる。
「ミヤザワヒロシさんですね。傷害の容疑で逮捕状が出ています」
低く冷ややかな声が耳元で響く。
振り向くと、眼光鋭く屈強な男達が、まるで逃げ場を塞ぐように立っていた。
彼らの無表情の奥に、鉄のような意志が見えた。
右手には警察手帳が掲げられ、その黒い表紙が現実の重みを否応なく突きつけてくる。
「え…? は?」
ミヤザワは言葉が出ない。
思考がばらばらにほどけていく。
何が起きているのか、理解が追いつかなかった。
まるで夢の中にいるような、いや、これは悪夢だ。
こんな展開はドラマの中だけの話だったはずだ。
近所の人たちが、足を止めてこちらを見ている。
彼らの視線が突き刺さる。
ミヤザワの顔が、熱を持つ。
「ちょっと待ってください。何のことですか?」
ようやく発することのできたミヤザワの声は、誰の耳にも分かるくらい震えていた。
情けないほど臆病な自分をミヤザワは嫌悪した。
そんなミヤザワに警察官の言葉が覆いかぶさる。
「あなたが駅で意図的に通行人にぶつかり、怪我をさせた件について、警察署で詳しくお話を伺います」
その瞬間、ミヤザワの頭の中がホワイトアウトした。
ぶつかり行為のときの情景が、走馬灯のように蘇る。
混雑する駅の通路、注意深くに選んだ死角、人波に紛れるようにして現場から立ち去る。
完璧だったはず。
だが、見られていた?
防犯カメラに撮られていたのか?
血の気が引いていくのを感じた。
呼吸が浅くなり、喉が渇く。
「そ、そんな……俺はただ……」
弁解の言葉が出ない。
脳が必死に言い訳を探しているのに、口がついてこない。
言葉が重い泥のように喉の奥で絡まって出てこなかった。
警察官の一人が、無言のまま内ポケットに手を差し入れた。
ミヤザワには、その動作がやけにゆっくりと、重々しく見えた。
時間が不必要に引き延ばされたように感じる。
警察官の指先が金属のものに触れ、ゆっくりと引き抜かれる。
銀色の手錠が、曇り空の下で鈍く光った。
まるで刃物のような冷たさを帯びて。
手錠が視界に入った瞬間、ミヤザワの呼吸が止まった。
目の前に突きつけられた物体が何を意味するのかを頭では理解していた。
だが心が、それをどうしても受け入れようとしない。
まるで、それは別の世界の道具で、自分には無関係なものだと、必死に願った。
「手をこちらに」
警官の言葉に、ミヤザワの気持ちに反して、体が従順に反応する。
手を引っ込めたい。
逃げ出したい。
しかし、足は地面に縫い付けられたかのように動かない。
自分の体が自分の命令を受け付けずにいた。
警察官がミヤザワの右手を取る。
優しくも強引に、抵抗を許さない力で手首を持ち上げると、金属の輪がそっと手首にあてがわれる。
痛みにも似たヒヤリとした感触。
手錠が触れた瞬間、ミヤザワの背筋を一筋の電流が走った。
思わず手を引こうとしたが、もう遅かった。
警察官は手慣れた動作で、もう一方の手錠を回し込む。
次の瞬間、カチ、カチ、と短く金属音が鳴る。
手錠がミヤザワの手首に食い込んだ。
その重みと冷たさが、今の自分の立場を如実に物語っていた。
ミヤザワの体の芯から力が抜けていく。
膝から崩れ落ちてしまいそうになる。
けれど、警察官たちの手がしっかりとミヤザワの腕を支えていた。
ミヤザワは、心の中で絶叫した。
だがそれは、実際の声にはならず、どこにも届かなかった。