魅惑の姫様(9)
約束の日。男は約束通り、千代の屋敷へやって来た。門前で大声を張り上げる。
「約束の日だ。迎えに来たぞ!」
本来ならばその様な無作法な真似は許されない。しかし、千代は静かに屋敷の門を開けた。
「家を出る支度がしてあると言うことは、お奉行様の杯と同じ物は用意できなかった様だな。それはそうだろう。あれはこの世に一つしかない品なのだからな。まぁ、お奉行様には俺から話を通してある! 大変ご立腹されてはいたが、今回の原因であるお前を下女として働かせることで納得して頂いた。これからはせいぜい気張って働くんだな」
男は息巻く様に言った。千代は落ち着いた様子で男を見返す。
「貴方のお話では、わたくしを下女にすると言うことでしたが……何故、わたくしが貴方の下女にならねばならないのか、どうしてもその点が解せぬのです」
「……なんだと? 何を言い出すかと思えば馬鹿なことを! お奉行様の杯と同じ物を用意出来なければ、我が家の下女となると約束しただろうが」
男は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「ああ! そうでしたね」
千代はそう呟くと、優雅に微笑んだ。その微笑みは美しく整っているが、どこか高圧的でもある。男はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……な、なんだ? その顔は」
虚勢を張る男に構うことなく千代は続ける。
「お奉行様の杯……はて? それは一体どの様な物でしたかしら?」
「だから、三日前にお前が俺にぶつかったせいで割れてしまった杯だ!」
男の言葉に千代は、ああ、と手を打った。それからさらに不思議そうな顔をする。
「あら、でも変ですわね。わたくし、あの後お奉行様へお詫びをするべくお聞きしましたら、ここ最近は渡来品など買った覚えがないそうですけれど? おかしいですわね」
そして、男に向き合いニッコリと笑う。その笑みの迫力に男はたじろいだが、なんとか気を取り直すと再び声を張り上げる。
「き、きっとお疲れで俺に依頼されたことを忘れてしまっていたのだろう」
そう返した男だったが、次第にその声は震え出した。旗色が悪いことに気がついたのだろうか。
「そ、そうだ。きっと……そうに違いない」
男は自分に言い聞かせる様にして呟く。そんな男の様子を冷ややかな目で見る千代。
「そうかもしれませんわね。お奉行様はお忙しい御方ですから」
千代の刺のある言葉に気が付かないのか、上手くその場を切抜けられそうだと男がホッと安堵の息を吐いたのも束の間、千代が少し困った様に表情を取り繕った。