婚約を破棄したら国が滅んだらしい
遥か遠いどこかの王国で心優しい少女が王太子に婚約を破棄された、そのあとのお話。
夜明けである。
魔女であるわたしは、するりと懐いてくる冬の冷たい空気に身を震わせた。使い魔に頼んで暖炉に火を入れ、せっかく温めたホットミルクが冷めてしまわないように保温魔法をかける。
窓際に置いたソファに腰かけ、わたしはそのまま夜が明けるのを眺めた。夜の生き物たちが寝床に帰り、気の早い小鳥たちが歌い始める、そんな中を。
ゆらり、とほんの一瞬だけ光が揺らいだ。どうやら、先触れのないお客人のようだった。
姿は見えない。魔女とはいえ地上世界の生き物であるわたしに対して、気安く姿を見せる気などないということだろう。
わたしはこくり、と一口だけホットミルクを含んで唇を湿らせた。口を開く。
「ようこそ、尊いお客人。何のご用だろうか」
視線の先の、ちょうど夜と朝が交差する光の狭間が揺らいでいる。問えば、応える気配がした。
「ご機嫌よう、払暁の魔女よ。良い朝ですね」
「あぁ、そうだね。良い朝だ。きっともうすぐにハツカネズミがやってくるだろう」
わたしが返せば、お客人が頷く。
「では、夢が醒める前にお話を終わらせなければいけませんね」
言い置いて、お客人は一呼吸を置いたようだった。考えをまとめたのか、何か別のものを見たのか、わたしには判りかねた。
「フォレストレイク王国を存じていますか」
「もちろん知っているとも。東の大陸にある大国だろう。訪れたのは随分と昔だけれどね」
答えながら、わたしは情報を思い浮かべた。
わたしが訪った際には名前の通りに美しい湖の広がる自然豊かな国だったが、近年は開発が進み見る影もないと聞く。次々に切り倒される木々に住処を失った小妖精たちが逃げ出しているようだ。遥か遠いこの国にも、幾らかの小妖精たちが逃げ込んできている。
「では、アリサ・ペルセパッサのことは」
「存じ上げな、……いや、思い出した。知っているよ」
思い出すのに時間がかかったのは、わたしとは直接的な面識がない女性だったからだ。
確かフォレストレイク王国の公爵令嬢で、二年前までは現在の王太子の婚約者であったはずだ。
わたしが名前を知っていたのは、この国の王に頼まれて国賓の集まるパーティーに紛れ込んだことがあるからである。実際にアリサ嬢を見た覚えはないけれど、仕事に必要な情報として大国や近隣国の情報くらいは仕入れている。
「で、そのアリサ嬢がどうかしたのかい」
「彼女の魂を回収して頂きたいのと、フォレストレイク王国とフォレストレイク王国に隣接する四か国の再生を頼みたいのです」
「……ん、お待ち頂けるかな」
一つ目は、何となく理解できた。恐らくは彼女が亡くなったが、何らかの事由により魂の回収ができなかったのだろう。冥界に行き損ねて彷徨っている魂は冥界の担当者が回収するはずだが、何か理由があるのかも知れない。
二つ目の、フォレストレイク王国の再生とは何のことだろうか。しかもその隣国もとは。
「正確には、王国の再生は必要ありません。王国を含む五か国の存在した大地の再生をお願いしたいのです」
告げたお客人を、わたしはまじまじと見上げた。
「フォレストレイク王国って、いまはどうなっているの」
「崩れ去りました。つい先刻のことです。隣接する四か国も巻き込まれました」
あっさりと、特に感慨もなく、尊いお客人は言った。
「……崩れたとは、どの粒度でかな」
「そうですね……」
言いさして、お客人は言葉を止めた。説明の言葉を探しているのだろう、と今度はわたしにも理解できた。
「人間の作った文明、文化、建造物その他は、ほとんど残らず死んだ砂になって消え去りました。身につけていた服の一枚でも残っていれば良い方でしょう。また山、森、川、湖などの自然も、一部を除いてほとんどが同じく更地になりました。残っているのは土着神の住まう聖域や高位魔法生物たちの住み着く霊域ばかりです」
「教会は残らなかったのか。神の守りが届くはずだが」
「残った教会も、残らなかった教会もあります。聖職者たちの品位と住民たちの信仰心次第です」
「なる、ほど」
頷いて、わたしは頭を抱えたい気持ちを堪えた。尊いお客人は大したことではない空気を出しているが、これは大変に面倒な事態である。
頭の中で算段を組み立てながら、わたしは問うた。
「それとアリサ嬢に何の関係があるのかな」
「五か国を消し去ったのはアリサ・ペルセパッサです。こちらで魂の回収ができれば良かったのですが、彼女の魂は傷ついており、千々に散ってしまいました。アリサ・ペルセパッサの魂の欠片を回収して頂けますか。繋ぎ合わせるのはわたしどもが行いますので」
アリサ嬢の名前を口にするときだけ、お客人はほんの少し、憐れんだ声を出した。
わたしはホットミルクを口に含んで、思考を巡らせた。何から質問するべきだろうか。
「アリサ嬢は何者だろうか」
問えば、お客人は何でもないというように答える。
「彼女は何ものでもありません」
「……ん、」
わたしは動きを止めた。何ものでもないという言葉には二つの意味があって、何ものでもないこともあるし、何ものでもあることもある。
考えあぐねたわたしに気づいたのか、お客人が補足する。
「彼女は何ものでもありません。彼女はひずみから生まれたものであり、揺らぐ幕あいから生まれたものであり、鋭角から生まれたものです。彼女は何ものでもありません」
「あぁ、なるほど……。そういう感じね」
であれば彼女は、人間ではなかったのか。
であれば彼女は、人間であったのか。
であれば彼女は、人間になれなかったのか。
ほんの少し、わたしは、アリサ嬢を憐れんだ。先ほどのお客人と同じく。
「彼女は願われました。彼女は大衆に『悪しくあれ』と願われました。彼女は家族に『愚かであれ』と願われました。彼女は王国の王族に『国を滅ぼすものであれ』と願われました。彼女は願われたので、悪しく、愚かしく、国を滅ぼすものになりました」
「……あー」
今度こそ、わたしは頭を抱えた。
そういえば、アリサ嬢の次に王太子の婚約者になったのはアリサ嬢の義妹だったか、異母妹だった気がする。であれば悪意のある印象操作や、未来の国王への忖度が働いたのかも知れない。
馬鹿だなぁ、と思った。馬鹿だなぁ。
何ものでもないものは何ものでもないのだから、何かを願ってはいけないのに。
そうすれば、何も願わなければ、何ものにもならなければ。
彼女は人間ではないけれど、死ぬまで人間として生きられたかも知れないのに。
「アリサ・ペルセパッサは心優しい少女でした。だから、人びとの願いを叶えました」
綴る尊いお客人に、わたしは気づいて首を傾げた。
「記憶が正しければ、フォレストレイク王国と隣接する国は八つあったはずだ。どうしてそのうちの半分だけ崩れたのだろう」
「崩れた四か国のうちの二か国は、人びとの願いにより国民による統治に移行し、王のいない国となりました。王とは治めるものであると同時に、国と民を守り祝福するものでもあります。王のいない国に、祝福はありません。わたしどもの愛する子など個人で祝福を持つものはおりますが、個人に対する祝福では国は守られません。残りの二か国のうち一か国は君主を戴いておりますが、現在の国王は王族の血筋ではなく、王位は簒奪された状態にあるため祝福はありません。最後の一か国も同じく君主を戴いておりますが、三十年ほど前にわたしどもの愛する子を冤罪により処刑されましたので、同じく祝福はありません。後ろの二か国が再び祝福を受けるには、相応の年月と代替わりが必要です」
いとも容易く、お客人は言った。
「わたしどもは世界存続に関わらぬ限り一握りを除く人びととの接触は最低限にしておりますので、全ては人びとの選択の結果であり、良いも悪いもありません。アリサ・ペルセパッサが王国を滅ぼしたのは人びとの願いによるものであり、人びとにとっては願い通りのよろしい結果でしょう。ただ、憐れなアリサ・ペルセパッサの魂が砕けてしまったのと、アリサ・ペルセパッサの行いによって幾つかの国が滅ぶばかりではなく、この世界に穴があいてしまったことは問題です」
「穴か……」
それは、確かに問題だ。
この世界に穴があけば、無数に存在する他の世界との境界が薄くなる。そうなれば異世界のものがこちらに迷い込むかも知れないし、逆にこちらの世界のものが異世界に流れていってしまうかも知れない。あまりに異世界との繋がりが増えすぎればお互いの世界の法則そのものが乱れてしまう可能性もあるし、本当に最悪は世界の維持が難しくなって丸ごと崩れてしまうこともある。そうでなくとも、この世界の人間が抗体を持たない疫病などが入り込んでしまう危険性もある。
尊いお客人にとっても、わたしにとっても、幾つかの国が滅ぶ程度ならば問題ではない。けれど、この世界の守りが弱まるのは望ましいことではない。
「なるほど、承ろう。ただし、わたし一人では些かならず荷が重い。わたし以外の力を持つものたちにも助力を請えないだろうか」
「こちらで声をかけましょう」
頷いて、あとは何が問題だろうか、と考えを巡らせる。
何よりも厄介なのは政治と宗教だ。下手に体制に助力を請えば足元を見てくる可能性もあるし、本件に関わるものたちを拘束したり、利権を奪い合う争いがおこるかも知れない。
この世界の危急だろうが、一部の理解あるものたちを除いてお偉いものたちには関係がないのだ。彼らのおままごとにお付き合いをしている間に穴が広がったり、大陸が丸ごと崩れ去ったりしては目も当てられない。
「権力闘争にかかずらう時間が惜しいなぁ。尊いお客人よ、この世界の人間たちを丸ごと眠らせては貰えるかな」
「いまの時点では、わたしどもがそこまで人びとに干渉することはできません。夜と眠りの力を持つものに声をかけましょう」
頷き、ふと思いつく。
「あとは……、五か国が崩れ去ったということは、もしや一帯の自然魔力もほとんど枯渇状態にあるのでは」
「その通りですが、問題はありません。自然魔力の少ない場所では魔法の力も弱まりますが、ご助力を頂けるものたちには、わたしどもからお力添えを致します」
「それはありがたい。ではなく、一帯に取り残されているであろう人間たちの話さ。もともとの魔力が高いものたちは貯蔵魔力も生成魔力も多いからしばらくは凌げるだろうけれど、一部の高魔力保持者を除いた人間たちは自然魔力を取り込めなくてはあっという間に枯れてしまって生命維持もままならないのでは」
お客人は首を傾げた。姿は見えないのだけれど、首を傾げた気配がした。
「何か問題がありますでしょうか。亡くなったら順次つつがなく、また転生をするだけです」
「……うーん」
問い返されて、わたしは唸った。
正直に言ってしまえば、わたしにとっても大きな問題はない。問題はないが、恐らく数千万から下手をすると億に上るであろう人びとの死を看過するのは何となく据わりが悪い。
まあ、良心だなんて『ぶる』つもりはないけれどさ。思いながら、わたしは適当な理由を口にした。
「あまり死体がごろごろと転がっていると、単純に邪魔だろう。流れ出た液体で大地が汚れるだろうし、わたしも些か不愉快だ。臭いも気になるしね。それに何より、一気に仕事が増えては冥界のものたちも困るよ」
挙げた理由は本心でもある。実際に、死体がごろごろと転がる場所に行って大喜びするものはそれなりの変わりものだろう。
言えば、お客人は得心したようだった。
「では、眠らせるときには仮死状態にするように頼みましょう」
あっさりとそう言う。これで一通りの問題は洗い出せたかな。
あとは衣食住だけれど、これは力を持つものたちが集まればどうとでもなるだろう。わたしも備蓄をありったけ持ち出すか。
お互いに合意が取れたと認識をしたのか、流れる空気がわずかに緩んだ。
「確認だけれど、わたしたちはつまり、この世界にあいてしまった穴を塞げば良いのだよね」
「その通りです。人びとの営みによって生み出されたものを再生する必要はなく、かつてあったように自然をお戻し頂ければ十分です。そもそも文明を取り戻すことは一帯の時間を巻き戻しでもしない限りできませんので、あなたやあなた以外の力を持つものたちでは権能も権限も足りません。いまは大地そのものがほとんど死んでしまっていますが、再生させればこの世界の穴は塞がり、自然が戻れば小妖精や他の魔法生物たちも戻り、一部が薄くなってしまったこの世界の守りもいずれ戻るでしょう」
わたしは頷き、ホットミルクの最後の一口を飲み干して立ち上がった。恐らく時間が経つほど状況は悪化する一方だろう、動くのが早いに越したことはない。
「委細承知つかまつる。では明日の穏やかな夜明けのために働こうじゃないか」
「頼みます、払暁の魔女よ。夢が醒める前に」
「夢が醒める前に」
挨拶を返せば、尊いお客人は言った。ぽつりと、小さな声で。
「どうかどうか、人びとの願いに侵されたアリサ・ペルセパッサの魂を救ってあげてください」
あるいはそれは、祈りのように聞こえた。
「あの子は本当に、心の優しい良い子だったのです」
わたしの性癖だけを煮詰めました。もはや悪役令嬢というタグも詐欺な気がしてきたので外します。わたしは毎回タグとジャンル選びに困ってる。
遥か遠い王国で何が起きたのかというと、一通りのテンプレが起きました。母を喪った先妻の娘である公爵令嬢と、元愛人であり後妻の娘である異母妹。本来の婚約者である公爵令嬢よりも異母妹を選ぶ王太子。歓迎する公爵夫妻に、迎合する貴族たち。民衆は悪意のある風説を疑いもせずに信じ込み、王太子に婚約を破棄されたのはどれほどの悪女なのかと面白おかしく噂しました。みんな楽しく自分が幸せになる道を選んだので、国が丸ごと崩れ落ちたってきっとそれが人びとの望みなのです。良かったね。
書きたいところだけ書いたので別に壮大なお話は始まりません。きっとこのあとアリサ嬢は無事に魂を回収されて、次には優しい両親のもとに生まれ落ちるでしょう。
【追記20241230】
活動報告を紐付けました。何となく習慣になっちゃったけど使うかなー
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