寝取られ令嬢が取り戻した最初のもの
「これは何の騒ぎですかな!?」
大きな本と分厚い書類の束を抱えた眼鏡の男が、扉の影からおそるおそる顔を出した。
「あ! 管理官!! いいところに来て下さいました!!」
案内係の若者は管理官に、この部屋で起こったことの一部始終を説明する。時々、管理官からもセシリアに質問もし、セシリアもそれに答えた。
その間中、セドリックは伯爵である自分にこんなことをして許されるのか!? セシリアの言うことなど聞く必要がない。セシリアを叩くのは、ただの躾だ。この娘は妹と違って、本当にできの悪い娘で、修道院に入れるしかないのだと叫んでいた。
案内係の話とセシリアの話を聞き終えた管理官は、一言。
「正気とは思えない」
とつぶやき、首を振った。
「そうだ!! その娘は正気ではないんだ!! だから修道院に入れる必要があるんだ!! 分かっただろう!? 分かったなら、この手を離せ!! この野蛮な衛兵め!! キャスタール伯爵の名前にかけて、こんなことをしたお前もお前の家族も処分してやる!!」
「いえ。正気じゃないのは、あなたの方ですよ。キャスタール伯爵代理」
「…………は?」
キャスタール伯爵代理と呼ばれたセドリックは、ポカンと口を開けた。
「衛兵。床にねじ伏せられたままでは話しづらい。縛り上げて、床に座らせなさい。そしてセシリア様はお口の周りの血をお拭きになって、こちらのソファーにお座り下さい」
そう言って管理官は、丁寧な仕草でセシリアにハンカチを渡した。
「あ……。ありがとうございます」
セシリアは、渡された真っ白なハンカチで口をぬぐった。ハンカチは、すでに固まった血で赤黒い筋のような汚れを作る。
「き、貴様……。な、何を言っている? 代理だと? わしはキャスタール伯爵だ!! わしがキャスタール伯爵だぞ!!」
管理官はチラリとセシリアに目をやる。
セシリアが、小さくうなずいたので管理官は声を張り上げた。
「衛兵!! その者の口を閉じさせよ」
「は!!」
セシリアの父に厳しい目を向けた管理官に、セシリアは困ったように微笑んだ。
「父は思い込んでいるのですわ。自分が本物のキャスタール伯爵だと……」
セシリアは不憫そうな目で父を見つめた。百合が認知症の義祖父に向けていたような、憐憫と慈愛に満ちた姿そのままに。
管理官は、感銘を受けたかのように「そうですか……」と眼鏡をずらして、目の付け根をギュッとつねった。
キャスタール伯爵家の跡継ぎだったのは、セシリアの母である。もちろんキャスタール伯爵家の邸宅も母の生家だ。
父はただの入り婿であった。
そしてセシリの祖父が亡くなり、相次いで母セレスティーが亡くなった。そのとき、後継者であるセシリアがまだ幼く、またブラックシード公爵家に嫁ぐことが決まっていたため、セドリックがキャスタール伯爵代理として名乗りを上げたのである。
家門の者からも特に反対はなかった。
すでにセシリアはルーカスと婚約していたからである。
セシリアとルーカスに子供が二人以上できれば、そのうちの一人をキャスタール伯爵家の跡継ぎにすればいい。それまでの長い時間、キャスタール伯爵家の管理をセドリックに任せるだけの話だ。
それをセドリックは都合のよい誤解をしたのだ。もしくは強気を通せば本当になるのかと思ったのかもしれない。
セレスティーが亡くなってすぐに、愛人であった義母と自分と血の繋がったエドナを伯爵家に入れた。そしてセシリアを虐待した。セシリアの持ち物、母が遺した物全てを奪い取った。セシリアを庇う使用人は追い出し、自分たちの言うことをきく使用人だけを雇った。
セシリアは全てを我慢した。
父も妹も血の繋がった家族なのだ。心を尽くし愛情をもって接すれば、いつか分かってくれるはずだ。そう願いに近い思いを抱いていたのだ。
だが今のセシリアは、百合の記憶により家族が裏切ることを知っている。どんなに愛情を込めても無駄な人たちもいるのだ。
だから、セシリアは全てを奪い返すことにした。
「まずお手紙でお尋ねの件ですが……」
ジョルジュに出してもらった手紙のことだ。
管理官は分厚い本をパラパラとめくり、手を止めた。
「ええっと。キャスタール伯爵家とブラックシード公爵家の婚約は破棄されております」
「そうですか」
貴族の婚約は全てこの貴族名簿管理局に届けることになっている。もちろんその破棄についてもここに届ける。
セシリア自身がサインをしていないのだから、手続きをしたのはルーカスとセドリックだろうが、とりあえず肩の荷が一つ下りてホッとした。
すでにセシリアの中で、ルーカスとの結婚は地獄でしかない。
「そして伯爵位継承の件でございますが……」
思わずセシリアはゴクリと喉を鳴らした。
「令嬢は十八歳。爵位を継がれるのにはあと二年待たなければなりません。まあ、その間は『小伯爵』をお名乗り下さい」
「かしこまりました」
小伯爵とは伯爵位を受け継ぐ内定者ということだ。これは当主のいない伯爵家内では、当主と同じほどの権威を持つことになる。
「また他家に嫁ぐ場合は……」
「それはございませんわ」
セシリアはチラリと父を睨む。
「そこにいる父と腹違いの妹のおかげで」
「……ふむ。なるほど。では問題はありませんね」
管理官は持っていた書類の束の一番上の書類に、バンと大きな判子を押した。
ポワッと魔方陣が浮かび上がり、その魔方陣が管理官の持っている本に流れ込んだ。管理官が持っているこの本こそ、貴族名簿なのだ。この名簿に書かれた事は、王家に速やかに伝わる。
「では簡易ではありますが、これを持ってあなた様をキャスタール小伯爵と登録いたします。正式な爵位継承は国王陛下から任命をお待ちください」
「かしこまりました。ありがとうございます」
セシリアは立ち上がってカーテシーをした。
「小伯爵様。頭をお上げ下さい。美しいカーテシーですが、その礼は身分の上な方にするものです。爵位を継承いたしましたあなた様の方が私よりもお立場は上。頭を下げる必要はございません」
そう言って、管理官の方が立ち上がり、胸に手を当てて深々と頭を下げたのだ。それを見て、案内係の若者も、衛兵も頭を下げる。
「小伯爵位ご継承おめでとうございます」
その礼を受けて、セシリアは鷹揚にうなずいた。それが正しい対応だからだ。
管理官は言葉を続けた。
「正しき血筋に爵位が戻ったことをお喜びいたします。またこれを以て、セドリック・キャスタール殿の伯爵代理を終了とし登録変更とさせていただきます。ご足労ありがとうございました」
父はこのためだけにこの場に呼び出されていたのだ。
管理官は父――いやセドリックから当主の証である指輪をするりと外して、うやうやしくセシリアに捧げた。
「ありがとう」
これでようやくセシリアは父に奪われていた身分を取り戻したのだ。
衛兵に拘束を解くように命じかけた管理官を、セシリアはやんわりと止めた。
「まだ帰されては困りますわ」