寝取られ令嬢は味方を求める
ボソボソと話し声が聞こえる。
「……そうですか。ブラックシール公爵が……」
「前公爵夫妻が……ば、このよう……は……」
「お嬢様のご家族は……ご存じ……か?」
「……伯爵家には鉄格子のついた修道院の馬車が……。実家に……、問答無用で……入れられ……」
「それって……」
「……ことです」
「逃げれば……」
「……助けを望むなら、いくらでも……。……はきっと望まれな……」
自分の話をしているのだと、セシリアはやっと分かった。
話しているのは、さっきの治療師と声の男だ。
セシリアは目を開けて、じっと声の男を観察する。
(あ……。ジョルジュ……。私を助けてくれたのは、ジョルジュだったのね……)
セシリアは自分の視界がうるんでぼやけるのを感じた。
心配そうに白い眉を下げているのは、懐かしい顔だったからだ。
彼は前ブラックシード公爵夫人に長く使えた公爵家の前執事長だ。
彼は主人の親友の娘であり、公爵家の内務のいろはを教え込まれた優秀な生徒、または家族の愛情にめぐまれない哀れな子供として忠誠と親愛の情を注いでくれた人だ。
だが、彼に会うのは実に数年ぶり。
前公爵夫婦が馬車の事故で亡くなった後、失意のあまり職を辞して行方が分からなくなっていたのである。
そんな彼がいきなり目の前に現れたのだ。
セシリアは小さく息を吐く。
覚悟していたような痛みはなく、ほっとした。
その息づかいに、治療師が気が付いたようだ。
「痛みはございませんか?」
セシリアはうなずく。
その後、簡単な質問をいくつかして治療師はそそくさと帰っていった。帰る直前にジョルジュが膨らんだ小袋渡していたのだが、それはきっと治療費と口止め料なのだろう。
二人きりになると、ジョルジュは居心地が悪そうに灰色の目をそわそわとさまよわせた。
前公爵夫人の後ろで気概と夫人の信頼とに満ちたジョルジュの姿しか覚えていないセシリアには、今の老人が別人のように見えた。
それだけ前公爵夫人の死去はジョルジュにダメージを与えたのだろう。
セシリアはジョルジュと反対方向に寝返りをうった。
ここはどうやら市井の家のようだ。
少し無骨な感じがするが、ぬくもりがある。
けれど家族の存在は感じない。
そんな家だ。
「わしの家ですじゃ」
まるでセシリアの考えを読んだかのように、ジョルジュが言った。
「……一人でここに?」
「そうです」
「家族は?」
「私にとって家族は……」
そんままジョルジュは口を閉じた。
愚問だった。
(ジョルジュにとっての家族……。それはきっと公爵夫人だったのね)
どうしてジョルジュは公爵ではなく、公爵夫人に忠誠を誓っていたのかは分からない。きっと二人の間で何かしらのことがあったのだろう。澄んだ二人の目を思い出せば、よこしまな関係ではないはずだ。
セシリアはもう一度寝返りをうって、ジョルジュをまっすぐ見上げた。
「私を助けてくれて……ありがとう」
「助けただなんて……。わしは……わしは……。ルーカス様とセシリア様を放り出し……自分の事だけで……。『ありがとう』だなんて、そんな……わしには……」
「分かっているわ。あなたにとって、どれだけ前公爵夫人が大切な人だったかは……。だから、あなたが失意のあまり公爵家を去ってしまうのも、仕方がなかったと思っているわ」
「……」
ジョルジュはぎゅっとシャツの裾を握りしめた。
きっとこれ以上何を言っても、ジョルジュの後ろめたさは変わらないだろう。
「……私、ルーカス様に婚約破棄されたの」
うつむいたままのジョルジュの目が揺らいだ。
「知っていたのね?」
「……」
沈黙が答えだ。
ジュルジュは、急に言い訳じみた口調で言った。
「その……今の執事長・セバスは、子供の頃からわしが親代わりになって育てました。やつとはルーカス坊ちゃんにもセシリア様にも内緒でずっと連絡をとっておりました。今朝、セバスから連絡があり屋敷の近くで待機するように頼まれたのです。念のためと……」
セシリアは執事長のセバスの顔を思い描いた。
シュッと背が高く、少々神経質だが、思いやりのあるりっぱな中年の男だ。彼はジョルジュが執事長をしていたときも、前公爵担当の執事として仕えていた。しかし、直近のセシリアの思い出は、エドナとルーカスのいる部屋に行こうとした自分を引き留めようとして、ドレスを破られてしまったことだ。
彼の必死な顔を思い出せば分かる。
彼がセシリアを引き留めたのは、セシリアに傷ついて欲しくなかったからだと。
「そう……。セバスが……。彼は何が起こるか分かっていたのね?」
「……」
セシリアはふうっとため息をついた。
少なくともブラックシード公爵家の執事たち――全員ではないかもしれないけれど、少なくともセバスはセシリアの味方のようだ。
「なら教えてもらえないかしら? エドナとルーカスはいつから?」
ジョルジュはしばらく言うか言うまいか悩んだ末に、ようやく重い口を開けた。
「出会ったのは五年前。ああした関係になられたのは……三年前からでございます」
「三年……」
三年間の間にセシリアは何をしていただろうか?
魔物の森に隣接しているせいで魔物被害にあったブラックシード公爵領の対策にあたっていた。
そして魔物退治という公爵の仕事を放り出したルーカスの穴埋めのために傭兵団を雇い、定住するための施策を打ち出した。
ブラックシード公爵家の交易はルーカスが仕切っていることになっているが、実質はすべてセシリアが行い富を生んできた。
ブラックシード公爵家に仕える使用人を統制し、問題を多く処理してきた。
そればかりではない。キャスタール伯爵家でも虐待を受けながらセシリアは身を粉にして働いてきたのだ。
例えば、父の放漫経営のフォロー。
義母とエドナの散財で作った借金の後始末。
領地とのやりとり。
(これらを私がしていた間に二人は……)
セシリアは虚しさに襲われた。
ホロリと涙がこぼれた。
ジョルジュは黙って部屋を出る。
すると涙が後から後からこぼれてきた。
はらはらとこぼれ落ちる涙を手で受けながら、セシリアは呟いた。
「いったい、なんで泣いているの……?」
ルーカスに裏切られたのが悲しかった。
エドナにルーカスを奪われたのが悲しかった。
ルーカスは今までセシリアの施策を顧みたことなんてないのに、エドナに言われて一方的にセシリアが公爵家に損害を与えたと思われたことが悲しかった。
ルーカスに不貞を疑われて悲しかった。
婚約破棄をされたことが悲しかった。
婚約破棄でセシリアがブラックシード公爵家のためにしてきたことが無になるのが悲しかった。
婚約破棄を画策していたのが実の父だということが悲しかった。
そもそもキャスタール伯爵家に自分の居場所がないのが悲しかった。
母の死から一年もたたずにエドナとエドナの母親が我が物顔で、母も自分も生まれ育った伯爵家の屋敷に乗り込んで来たのも悲しかったし、自分とほとんど年の離れていないエドナが父の子供だというのも悲しかった。もちろん、母が生きているうちから父が母を裏切っていたのを知ったのも悲しかった。
母から自分に遺されたものがみんなエドナの物になっていくのも悲しかった。
母の思い出の場所が全て嫌な思い出に塗りつぶされていくのが悲しかった。
エドナは大切に育てられているのに、義母のお気に入りの使用人たちに冬でも冷水をかけられ、肺炎で死にそうになったのに治療師も呼んでもらえなかったのが悲しかった。
……母が死んだのが悲しかった。
まだまだある。
もっとある。
でも、今はもう何が悲しかったのか浮かんでこなかった。
どん底まで落ち込んだセシリアがフッと笑った。
「ああ、なんだ。私、ルーカスに嫌われたことなんか、ちっとも悲しくなんかないじゃない。私……ルーカスを好きじゃなかったんだわ」
少なくとも百合は夫のことを愛していた。愛していた時期があった。だからこそあんなに耐えて苦しんだのだ。
セシリアはルーカスに愛情を持っていると思っていた。けれどそうではなかったのだ。何も持っていない子供が唯一持っている物に固執しるように、セシリアはルーカスに固執していただけなのだ。
それは幸運だ。
だって、これからルーカスが持っている物を一つずつ奪って行くのだから。もちろん、エドナからも。
愛がないのだから、全てを奪われた二人を見ても心は痛まないだろう。