寝取られ令嬢の婚約者①
母でありブラックシード公爵夫人であるテレサとその娘を、初めてブラックシード公爵邸に連れてきた日、ルーカスはその少女に見とれた。
少女の母親は、淡雪のような――すぐに溶けてなくなってしまいそうな危うい美しさの人だったが、その少女は凜として、まるでダイヤモンドのような硬質な光を放っていた。
テレサはハラハラと涙をこぼしてるいる友をなぐさめていたが、その時、ずっとルーカスはセシリアに見とれていた。
硬い表情をしていたセシリアが、何かの時に自分も泣きそうな顔で微笑んだ。そのときのホッとした気持ち。大切にしたいと思った気持ち。そんな気持ちをルーカスは大人になっても覚えている。
「婚約者」の意味さえ分からなかった幼い頃の話だ。
「はあ……。こんなことも分からないなんて……」
テレサは、頭を押さえた。
ルーカスにテレサが課した問題は、会計の基礎演習だった。領地を持つ貴族の子供なら、すでに習得していてもおかしくないレベルの問題だ。けれどルーカスにとっては、外国語で書かれた問題のように、何を質問されているのかさえさっぱり分からない。
「ご、ごめんなさい……」
問題が解けないことよりも、母をがっかりさせていることの方がつらかった。そんな気持ちが伝わったのか、母は大きなため息をつく。
そんな母の腰に、するりと大きな腕が巻き付いた。
「ルーカスは、まだ子供じゃないか」
「でも、あなた……。この子は、あなたの後を継いでブラックシード公爵家とその領地を守らなくちゃいけないのよ」
「まあそうだが……。けれど、我々のことを考えてみたまえ。ブラックシード公爵は私だが、家や領地のことは、私よりも君の方がうまく回しているだろう?」
「ええ……。まあ……」
「この子も、君のような配偶者を授かれば、問題ないさ。この子の婚約者……ええっと、セシリアといったっけ? その子を仕込んでみるのはどうかな?」
「セシリア……? ええ。まあ……そうね……」
テレサの顔が曇った。
「ん? どうしたんだ?」
「最近、連絡がないの……。こちらから連絡しても返事もないし……。なんだか、嫌な予感がするわ。あの男が、セレスティーに」
シッ!
ルーカスの父は、テレサを黙らせた。
「子供のいるところでする話じゃない」
「そうね……」
その話がどうなったのかは、ルーカスには分からない。ただ、それから数週間後に、母はセシリアをブラックシード公爵邸に連れてきたのだ。セシリアは、かつてダイヤモンドのような輝きを放っていたというのに、痩せこけて、生気のない顔をしていた。ルーカスの言葉にも何も反応をしない。
それから数ヶ月の間、セシリアはブラックシード公爵家で生活をした。
栄養状態もみるみるよくなり、バサバサだった髪も、カサカサだった肌も元の調子を取り戻した。けれど、目つきだけは以前の凜としたものには戻らない。いったい、何があったのか分からないが、セシリアはおどおどとして、人の顔色をうかがうような子供になっていた。
「ねえ……。どうして、セシリアはあんな風になっちゃったの?」
そう問うルーカスに、テレサは目元を押さえながら、セシリアの母親が亡くなったのだと教えてくれた。
(もしも、僕も母上が死んじゃったら……)
胸が痛くなったルーカスは、セシリアに優しくしようと心に誓った。けれどその誓いは、すぐに揺らぐことになる。テレサがセシリアに内務仕事を教え始めたのだ。
セシリアはルーカスが全くできなかった会計の演習基礎問題も、さらには実際の会計に使われる帳簿の扱いもすらすらできるようになってしまった。そうなるとテレサはセシリアの教育にのめり込み始めた。
ルーカスがいつテレサに会いに行っても、セシリアの後回しにされてしまう。
母に見捨てられたような寂しさに、セシリアを妬む気持ちがルーカスに生まれた。その気持ちを受け止めて包み込んでくれたのは、ブラックシード公爵たる父親だ。
「なあに。公爵としての仕事は、内務ばかりじゃないさ。戦いの時に先頭に立って戦う力も必要なんだ。ルーカスは、その才能を伸ばしてみなさい」
父に風魔法での攻撃と、剣技を教えてもらったルーカスはメキメキと強くなった。甘えたところも抜けて、性格は明るくなり、社交的になった。成長とともに友人だけで集まる事も増え、派手で愚かしい素行も増えてきた。
そんなある日。
「父上! 私は王宮騎士団に入ります!!」
ルーカスがそう宣言したのは、セシリアがテレサの教えを受け始めてから四年が経った時だった。
ルーカスの両親は絶句した。
なぜなら、ブラックシード公爵として求められる強さとは、魔の森から出てくる魔物を狩り、領民を守る強さだからだ。国の顔として外国の要人たちを護衛したり、典礼試合などで強さを競ったりする王国騎士団とは根本的に求められる強さの質が違う。
魔物の血まみれになり空腹を雑草でしのいでも戦いを止めないのが公爵として求められる強さであり、弱い姿をさらすくらいなら棄権する方がましと考えるのが王宮騎士団の強さなのである。
ルーカスの最近の言動や付き合いを考えれば、派手で華やかで若者からの人気も絶大な王宮騎士団入りを望むのは当然であった。
思わず立ち上がり、何かを言おうとしたテレサをその夫は止めた。
「……まあ、やってみるがいい。ただし、公爵として民に力を求められた時は、必ず彼らを守っておくれ」
「はい!!」
意気揚々と立ち去るルーカスを見つめ、その両親は不安そうな顔を隠せなかった。
「あなた……。よろしいんですの?」
「ああ。私も若い頃は華やかな王室騎士団に憧れたものだ。けれど、すぐに王室騎士団は私に必要な強さではないと気づいたんだ。ルーカスもきっと、すぐに分かる。そのときに、改めて、公爵としての強さとは何かを教えればいいさ」
「でも……」
「なあに。私もまだまだ現役だ。ルーカスが王宮騎士団を引退するくらいまで、私が頑張るさ」
ははは……と笑う夫にテレサは何も言えなかった。テレサ自身も、最近では手に負えなくなってきたルーカスと、言い争いになることを避けたかったのだ。
……そのことをテレサが後悔したのは、夫と共にその命を失うその瞬間だった。
領地の視察の帰り。雨でぬかるんだ地面で、馬車が転倒したのだ。二人は下敷きになってしまったのだ。
「ル、ルーカス……どうか……領地の人々を……」
そう言って、彼女は命を閉じた。




