寝取られ令嬢は前世を思い出す
セシリアは夢を見ていた。
そこはセシリアが見たことがない世界だ。
けれど何故かセシリアには、ひどくなじみがあるように思えた。
セシリアが上を見上げると箱形の建物が空高く伸び、伸びた先の空には鉄の鳥が飛び交っている。街に目を移せば、夜でも昼のように明るく、ゴミのように行き交う大勢の人々は、小さく光る板をのぞき込んでいた。
セシリアは思い出した。
彼女はセシリアとして生まれる前。その世界で百合という名で生きていた女性だったということを。
箱のような建物を見上げる小さな古い家で、夫の家族の介護をしながら帰りを待つばかりの主婦だったことを。
夫は仕事を理由に家にほとんどいなかった。
けれど少しも休む暇などない。
認知症を患う義理の祖父は目を離せず、寝たきりの義理の祖母は百合が義祖父をたらし込んでいると百合を憎み、義父は飲み歩くばかりで家庭を顧みず、義母は百合について回り子供ができないことを責め立てた。
しかし彼らはまだましな方だ。仕事もせずに子供部屋に暮らす義弟からは、いつも脂ぎった視線を向けられていたからだ。夜中に目を覚ますと、すぐ真上に義弟の顔があったこともある。恐怖で叫び声さえ上げられなかった。もちろん、そんなときも夫は百合の側にいない。嫁の分際では部屋に鍵を取り付けることも許されず、それ以降は自分の部屋でゆっくりと眠れたためしがない。
しかしそんな義家族でも百合は心をこめて尽くして世話をした。愛する夫の家族だったからだ。
すでに本当の家族が亡くなった百合にとって、夫の家族だけが自分の家族でもあったのだ。
――その夫は浮気をしていた。
それも百合の親友と。
小学生の時からの親友で、百合が仲間はずれにされたときも、よくない噂を立てられた時も、両親が死んだときも側にいて助けてくれた。百合の結婚を誰よりも喜んでくれた。そんな親友だ。
悪いのは夫と親友。
それなのに夫からは、百合が悪いのだと責め立てられた。女を捨てた百合が悪いのだと。介護でゆっくり入浴する時間もなく、家計を管理する義母のせいで基礎化粧品すら買う金もないというのに。
親友からは、今までの友情が全て嘘だったと告げられた。いじめを裏で操っていたのは親友だったし、両親が死んだときは百合の不幸を楽しんでいたというのだ。
それは百合の心をズタズタに引き裂いた。
そんな中、親友が妊娠した。
義家族は大喜びで百合を追い出しにかかった。義祖母の暴力は増していき排泄物まで投げつけられた。義母は百合に同じ食卓で食べることを禁じ、百合が作った食事なのに百合の分を床に置いた。義弟はだけはすれ違いざまに「自分は百合の味方だ」と言うようになったが、実際は義祖父母、義父母の暴言暴力を止めることさえせずに見ているだけだった。
肝心の夫は百合を徹底的に無視した。
百合が洗濯した服を着て、百合が作ったご飯を食べるくせに、百合そのものは目に入っても何もないように振る舞った。
百合は心がズタズタに引き裂かれた。
ものが食べられずにどんどん痩せていく。
そんな中、義祖母の訪問看護師の前で倒れてしまった。しかしそれは幸いだった。そうでなければ、救急車を呼ばれることはなかっただろうから。
百合が気付いたときにはそこは白い部屋だった。
そこへ義祖母の看護師が訪れる。彼女は百合のやつれていく様子から介護鬱を疑っていたのだそうだ。ここまで放置していて申し訳なかったと頭を下げられた。
そういえばと百合は思い出した。
義祖母のケアが終わると、訪問看護師は百合と世間話をしようとしていることがたびたびだった。そのたびに義母に呼ばれて、話などできたこともないが。あれはただの世間話ではなく、百合の体調や精神状態を調べていたのだと、やっと思い当たった。
訪問看護師には感謝しかない。お礼を言う最中に、百合の目から涙がこぼれ、次第に号泣となった。
そしてあの家であったことを、全て話してしまったのだ。
百合は介護鬱ではなくDVを受けていたことによる鬱だと診断された。
入院中、面会制限をすりぬけて夫が百合の元にやってきた。見舞いではなく、「家事をする者がいないから、さっさと帰ってこい」と命令するためだ。百合をひきずってまで行こうとした夫は、反対に男性看護師や警備員に取り押さえられ、どこかへ連れて行かれてしまった。
その後、百合は別の病院に移され、やっと安心して眠れるようになり、退院後はシェルターに身を移した。
シェルターでは夫と親友のことをたびたび思い出した。そのたびに吐き気と頭痛に悩まされ、義家族を思い出すたびに罪悪感にさいなまれた。
けれど体も心も回復するうちに、気が付いたのだ。
自分はあの家を自分の家。みんなを自分の家族だと思っていた。けれど彼らにとっては自分は家族ではなくただの家政婦……いや、奴隷でしかなかったということに。あの家は自分の家ではなかったということに。
その後、シェルターを管理するケースワーカーに紹介された弁護士を通じて、百合は夫と正式に離婚した。
夫と……いや、元夫と元親友は再婚することなく別れたそうだ。人前で言い争う醜い終わりだったという。その終わりの過程で、家族、友人関係、それに仕事も犠牲にしたと聞いた。そのときにだけ、少しすっきりした気持ちになったものだ。
他の義家族の方は……。すでに百合は関心がない。一度だけ義弟が弁護士を訪ねて来たそうだが、何を言うでもなく居心地悪そうにして帰って行ったそうだ。ひどく汚らしい格好だったという。
その後、百合は仕事に打ち込んだ。もともとの能力があったのか、昇級と昇進をぐんぐん果たしていった。
そんな百合に想いを告げてくれる人もいたけれど、どうしても受け入れらなかった。
そんなある日……、百合は刺されたのだ。
そして死んだ。
顔は見ていないが、犯人は多分……。
◇◇◇◇◇
セシリアは、ハッと息を吐き出して意識を取り戻した。
どうやら気を失っていたときに、夢を見ていたようだ。夢とは思えないような、生々しい夢。まるで過去にあったことを思い出している時のような。
「目を覚まされましたかな?」
セシリアを気遣う、優しい声だった。
「……誰?」
そう呟やこうとしたただけで、吐き気が伴うほどの痛みが襲う。
「……ぐっ!!」
「じっとしておいて下され、セシリア様。すぐに治療師が到着いたし……」
その言葉の途中に、ドアをノックする音がした。
慌てて飛び出た声の主が、頭からフード付きの白いローブを頭から着た女性を連れてきた。
女性は、セシリアを一目見るなり「これはひどい」と呟いた。
「……下級治療師すぎない私の力では、完全に治すことはできません。それでも、かまいませんか?」
セシリアは、うなずく代わりにまばたきをした。
「分かりました。お助けいたします。……事情は、後で聞かせて下さい。よろしいですね!?」
もう一度、まばたきをした。
「では、いきます」
治療師はセシリアの肌に直接手を触れた。それだけで、雷に打たれたような痛みが全身に走る。その触れたところから、今度は言葉にしようもない何かが体の中に侵入してくる。
セシリアは思わず悲鳴をあげた。
「お静かに!! 動くと、正しい場所に骨と筋肉が戻らなくなります!!」
その言葉通り、砕けた骨や引きちぎれた筋肉が、癒やしの魔術の力により正しい場所に動かされる。ただし体内で動くそれらは、痛み、不快、その他のあらゆる苦痛を新たにもたらす。
治療師の術を受けるのはセシリアは初めてだったが、術を受けたことのある傭兵の話を聞いたことがある。怪我よりも癒やしの術の方がよほどつらかったと言っていた。その傭兵の言葉が本当だということを、セシリアは思い知った。
再び気を失ったセシリアに、その方が幸せだと治療師は呟いた。