ある少女の憂鬱と戦い
ある日、うっかりマンホールに落ちてしまった片割れを助けようとして、二人して穴に落ちてしまった。
そんな漫画や小説のようなドジなど生まれてこの方初めてだ――そう思いながら、彼女は自分が落ちた穴が下水以外に通じているだなんて、これっぽっちも思っていなかったのだった。
そうして今――彼女はさながら高潔な騎士のように、ある一室の中で、一振りの剣を抱えて目蓋を閉じていた。
静かな宵闇の中で、ふと耳に届いた、ごく僅かな衣擦れの音。
かつて猫のようだと言われた釣り目がちの大きな目を開くと同時に、目にも止まらぬ速さで彼女は抜刀していた。
「――――ごきげんよう、殿下。こんな夜更けにどんな御用でしょう?」
「…や、やあ、アリス。少々その――散歩をしていたら、ミオが無事かどうか確かめたくなってね」
「この子のことでしたらお気になさらず。私がきちんと御守りいたします――あなたのような狼からね!!」
首筋に突き付けていた刃を横に引かれそうになって、相手は慌ててそれを避けた。
ばちん、と何かに白刃を弾かれた少女は、ちっと剣呑な表情で舌打ちをする。
「寝込みを襲うような下種にどうして精霊は加護を与えるのかしら…」
「アリス、それはひどくないかい?僕はただ、ミオを愛してるだけで…」
「勝手に相手を手篭めにしようとする輩はね、私のいた世界では社会的抹殺をされてしかるべき存在なんですよ」
にっこり、と微笑んだ少女が構える剣が、闇の中で月の光を受けてぎらりと光った。
顔を蒼白にするのは、艶やかな銀色の髪に深い海色の瞳をした、信じられない程に美しい容貌の青年。
「ま、待ちたまえアリス。僕だってはじめからこんなことを企んでいたわけじゃ――愛を囁こうにも、昼間は君があまりミオに近寄らせてくれないし…」
「どこの世界に、純粋無垢な天使を飢えた狼の目の前に差し出す姉がいますかっ!!しかも、貞操を狙う男達の前に――大事な大事な双子の弟を!!」
すよすよと聞こえてくる健やかな寝息。
何も知らずに、天使はまどろむ。
さらさらの黒髪と長い睫毛、笑顔なんてもう天使としか言いようのない程に可愛らしい容姿をした――少年は、名を海央という。
剣を構えた勇ましい黒髪の少女、有空の双子の弟であり、彼は今しがた、目の前の美貌の青年の毒牙に掛かりかけていたところだった。
海央を狙うのは、実のところこの青年だけではないのだけれど……。
「――カイルアース!!」
「……何だ…」
「あなたのご主人さまにお引き取り願えますかしら?……早くしないと…扉の前の人たちを含め、血の雨が降るかもしれないわよ」
その時の少女の笑顔は、まさに戦慄を覚える程に恐ろしかった、とその場にいた者たちは後に語る。
「わかった。…殿下、失礼致します」
低く通る声がそう言うと、青年の姿は一瞬にして掻き消えた。
空間転移、というやつらしい。
同時に、部屋の扉の向こう側に在った複数の人の気配も消えていた。
やれやれ、と溜め息をつき、有空は剣を鞘に納めると、無駄に大きな寝台によじ登った。
大の大人が五人はゆうに横になれる程に大きな、天蓋つきのベッド。
真っ白なシーツにころんと転がると、こちらへ、無防備な寝顔がさらされた。
「んー…もう、おなかいっぱい…」
「………」
胸の内で、大きな溜め息を吐き出した有空は、そもそも何故こうなったのかということを、ふいに思い出した。
マンホールに落ちて、やけに落下時間が長いなと目を開けてみれば、暗い暗い空間の中、真下の方に、淡い光が見えた。
下水にしてはおかしいと気付いた時には全てが遅く、二人してその光に落ちて――気付けば、見知らぬ場所にいた。
やけに豪勢な造りの煌びやかなホール。
呆然と声も出せずにいた有空の隣で、恐ろしいほどに無垢な弟は、ふにゃりと万人を魅了する笑みを浮かべた。
その瞬間、周囲の人々の胸を天使の矢が射抜く音を、有空は聴いたような気がした。
例え、弟が微笑んだ理由が、そこが晩餐会が行われていた所で、「ご飯おいしそー」ということでも。
彼に心を奪われた人たちの恋情は冷めなかった。
そしてその後、有空は、そこが地球とは違う異世界であり、自分の弟が「巫女」として喚ばれたのだと知る。
男なのに巫女っておかしくないか、とはいうものの、元々はこちらの世界にあった尊い巫女の魂がなにかのミスで地球に行ってしまい、男として生まれたのだとかなんとか。
その巫女というものは、ただそこに在ればいいらしい。
それだけで世界のバランスは保たれるのだとか。
不可侵だとか婚姻禁止だとかそんな存在であればよかったものを――あろうことか、この世界は恋愛に寛容で、今まで何人もの巫女が結婚してきたという。
別に、弟が好きになるのであれば、相手が男だろうが女だろうが関係ないと思う。
だが、海央は基本的に食べることと寝ることが好きで、ぽやんとしていて人を疑うことを知らず、赤ん坊のように無垢なのだ。
そんな海央に惚れた人間の中で取り分け主張してくるのが、全員身分の高い男で、一癖も二癖もある奴らばかりとは、どういうことだ。
海央は本当にぼんやりとしている。
一度既成事実を作られてしまえば、そっか自分はこの人が好きなんだといつのまにか丸めこまれて、勝手に結婚させられるに違いない。
地球でも何故か弟は同性にもてた――昔から、それから守るのは自分の役目だった。
海央が可愛いのはわかる。本当に、そこらの少女よりも可愛い。
ほとんど顔の造作は変わらないはずなのに、自分よりも遥かに愛らしいし、妙な色香がある。
それはわかるが――なんだか虚しさを覚えるのは何故だ。
幼い頃から剣道をしていたせいだろうか。
確かにそのせいで自分は凛々しくなってしまった気がする。こちらもまた女の子からの告白が絶えなかったし――知人は皆、何故性別が反対じゃないのかと言う。
色々と、いまいち納得がいかない。
取りあえず、何とか武器を手に入れ、日々鍛錬を欠かさず、いつも弟の護衛として付き従う日々。
巫女とやらは最高権力者よりもある意味地位が高いらしいので、不逞の輩を刀の錆にしても文句は言われない。……実際、まだ誰も手にかけてはいないけれど。
妙なハーレム状態の双子の弟を守るべく、彼女は今晩も、神経を研ぎ澄ますのだ。
弟を狙うのはこの国の王太子に宰相に魔法使いに騎士長にと、最低でも手強いのが四人はいる。
それらと日々戦いつつ、少女はただひたすらに己の行く末を憂うのだった。
――――異世界トリップとかいうやつと、何か違うんじゃない?
それは常日頃彼女が思いつつ、口に出せない疑問である。
剣や魔法といったファンタジーの世界で、乙女は今日も立ち向かう。
とりあえず後悔はしてない。楽しかった。
唯一名前が出てきた人は護衛の人です。
別視点とか、いつか書くかもしれません。
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