第7話 口入れ屋との交渉③
届いた膳を見てみると、真っ白なそばが盛り付けられている皿が真ん中に置いてある。徳利が一つと猪口が二つ、あとは薬味箱が乗っている。
「おい田舎者、念のために言っておくが、うどんでも素麺でもねえからな」
「……一番粉で打ったそばですよね。これくらいは分かりますって」
小馬鹿にするような口調の松三郎に、宏明は抗議しておく。
一番粉というのは、そばの実の胚乳部分からできている粉のことである。
「相も変わらず良い腕をしてやがるな。ここの店は」
そばを口に運んだ松三郎が感心している。
「そうですね。素晴らしい味です」
お菊も同様だ。
ついでに、シロもそばを食べ始めている。お菊が小皿に少し取り分けて、床に置いてあげたのだ。
それを横目に見ながら、宏明も空っぽの猪口に汁に入れて、口に運んだ。
(あ、これは良い汁だ)
古橋の汁と較べると口当たりが柔らかく、宏明の実家のものと較べるとキツい。どれが優れているかはその人の好み次第だが、この店の汁は甘辛さと旨味のバランスが取れていて間違いなく出来の良いものである。
「では、頂きます。……あれ?」
そばを汁に付けて口に運んだ宏明だったが、首を傾げてしまった。汁を付ける量を変えてみるも、これでもまだ不思議そうな表情のままだ。
汁を入れるために空っぽだった猪口とは別に、もう一つの猪口には大根おろしが入っている。彼は大根おろしの汁をそば汁に入れてみた。
(うーん、まだ違うな)
今度は薬味のネギを汁の中に入れる。
「おい天狗、さっきから変な顔をしているぞ。一体どうした?」
松三郎が宏明の様子を不審に思ったようだ。
「ここのおそばってどうやって食べるんですかね?」
「どうするもこうするもねえよ。てめえの好きなように食え」
「汁の当たりが少し弱くないですか? 薬味で調整して食べるとか、何かコツがあったりしません?」
さっきから彼が困っているのはこういうわけだ。味がどうにもシックリ来ない。
「ったく、田舎者には江戸の味が分かんねえんだろうな。せっかくだから、味を覚えやがれ」
「そばと汁が合っていない気がするんですよね……」
「何を言ってやがる。食通気取りするのも構わねえが、ちゃんと合っているぞ。そば屋のオレが言うんだから間違いねえ」
そんなことを話している二人を、お菊が興味深そうに見ている。
と、その時だ。シロが宏明の膳の上に前足を乗せて寄りかかった。
「おいおい、いきなりどうしたんだよ?」
宏明の驚きの声を無視して、シロは青い瞳でそば汁が入っている猪口をジッと眺めている。
「天狗、ネギを食わせるな! 猫にネギはいけねえ!」
言われた宏明は、慌てて猪口と薬味箱を高く持ち上げた。
「ミャウ」
シロはというと、薬味の方には目もくれず、徳利を右前足でコンコンと叩き始めた。
「どうしちまったんだ? とうとうボケが始まっちまったか?」
松三郎が不思議そうに飼い猫を見る。
「あら古橋さん。この猫ちゃんってまだ若く見えますけど、ひょっとしてお年を召しているのですか?」
「いや、まだ三つの小娘だ」
「若いじゃないですか。ボケたなんて酷い言い方をしなくても。今はただ徳利が気になるのでしょう」
「今日のこいつはおかしいんだ。朝方に海苔を食い散らかしてくれたし、今だって――。おい、いつまで徳利を小突いてやがる!」
松三郎とお菊が話している間も、シロはずっと猫パンチを繰り返している。
「おめえは猫だから分からねえだろうが、そばの汁を作るってのは手間がかかるんだよ。それなのに何の真似でぇ? ひっくり返したらここの旦那が泣くぜ。特にこの店では汁を二つ作っているから手間が倍かかって……。おい天狗、ちょっとそれを寄こせ」
松三郎が宏明の膳に手を伸ばして、徳利を取り上げた。そして、左掌に汁を垂らして口元へ運ぶ。
「おいおい、天狗の汁は間違っているじゃねえか」
「俺の汁が間違っている?」
「ここでは汁を二つ作っているんだ。これはもりそばの方の汁に違ぇねえ。いやはや、びっくり下谷の広徳寺よ」
(――ひょっとして『びっくりした』って意味? 江戸の言い回し的には)
相変わらず江戸っ子の表現は耳慣れない。
宏明は先ほどお菊が注文した時のことを思い出す。確か「もりそばと御膳そばのどっちにしましょう?」とお菊は言っていた。この店では一般的なそばと、一番粉で作ったそばの二つを提供しているのだろう。
「そっか、そばと汁は合わせるために、わざわざ二種類の汁を提供しているんですね」
「おうよ。なかなかに丁寧な仕事をしているだろ? それなのに、店の者が間違えて持ってくるなんて、旦那の苦労が台無しだぜ。たまったもんじゃねえ」
「当たりが弱かったのはそういうわけですね」
徳利を眺めて驚いている二人に、お菊が声をかける。
「どうやら、お気付きになったみたいですね」
「……お菊さん、あなたは俺の汁が間違っていたのを知っていたんですか?」
「話は後にして、まずは正しい汁をもらってきましょう」
お菊は席を立って下の階へ降りていく。そして、ほどなくまた二階へ戻ってきた。
「はい、今度こそお口に合うはずですよ」
下から持ってきた徳利をお菊が宏明に渡した。
「――あ、味がぴったりと重なった」
新しい汁でそばを食べた感想だ。
やはり、さっきの汁が間違っていたのだろう。良いそばと良い汁でも、組み合わせが悪いと美味く感じなくなってしまう場合があるのだ。
「では、お話しをしましょうか」
お菊が背筋を伸ばして話し始めた。
「実は、宏明さんの汁が違っていたのは私の仕業です」
「お菊さんが?」
「ええ、これは伯父がよくやる意地悪なんです。生意気な職人が入ってきた時に『鼻っ柱をへし折ってやる』って」
言いながら、彼女はシロの方へ目を向けた。
「初めに仕掛けを見抜くのが、まさか猫ちゃんだとは思いもよりませんでした」
そう言ってクスクスと笑う。
当のお猫様は既に膳から下りていて、床にちょこんと座っている。
「シロが徳利を小突いていたのは偶然でしょう。ところで、俺って生意気そうに見えましたか? わざわざそんなイタズラをするなんて」
おそらく、注文の時の「うんと冷たくしてくださいな」が意地悪を要求する合い言葉だったのだろう。さっき松三郎も指摘していたが、そばを注文するにあたって妙な物言いだ。
そういえば、この店を選んだのもお菊だった。最初から仕掛けるつもりだったに違いない。
「宏明さんが生意気そうだなんてこれっぽっちも思っていませんよ」
彼女がゆっくりと首を振った。
「じゃあ、どうしてこんなことをしたのでしょうか?」
「さっきの話に繋がりますが、私は宏明さんの腕を見なくてはなりません。だけど、そば職人の良し悪しを見分けられない。だから、舌の良し悪しを見せてもらおうかなと」
ここでお菊がニッコリと微笑む。
「宏明さんの舌は確かですね。身元の偽りをやらせて頂きます。汁が違うのに気付くことができる職人は少ないのですから、むしろこちらからお願いさせて頂くのが筋でしょうか」
「本当ですか? ありがとうございます!」
宏明は深々と頭を下げた。
同時に、未来世界にいる祖父母と両親にも心の中で感謝しておく。幼い頃からあちこちのそば屋へ連れて行ってもらったおかげで、宏明の舌は鋭く鍛えられているのである。まさかこんな形で宏明を助けることになるとは、彼らも思っていなかっただろう。
「ところで、働き先は本当に古橋さんでよろしいのでしょうか?」
お菊が質問をする。
「先ほどお伝えした通り、古橋さんで働くのは大変かもしれませんよ」
「ああ、職人が次々にやめているって話ですか。そのことだったら――」
宏明は松三郎の方へ向き直った。
「力屋古橋の味に惚れ込みました。味と技を盗んでから実家に戻りたいと思います。未熟者ですが、是非とも働かせてください」
今度は松三郎の方へ頭を深く下げた。お世辞でも社交辞令でもなく、これが素直な本心である。力屋古橋で働けば、間違いなく知識と技術が向上するはずだ。
「チッ、舌だけじゃなくて口も達者なようだな」
松三郎はというと、嬉しいような不愉快なような複雑な顔になっている。
「宏明さんは随分と古橋さんを買っているようですね。これなら心配することは――おや、おそばの二枚目が来ましたね」
店員がおかわりを持ってきた。
「話もまとまったので、あとはゆっくりと味わいましょうか。もう意地悪はしていないので疑わないでくださいね」
「二回も意地悪が飛んで来るなんて、俺も思っていませんよ」
宏明は体を膳の方へ向けた。その彼の元にシロが寄ってくる。
「お前もおかわりが欲しいのか? お手柄だったし、遠慮なく食べろ」
小皿にそばを取り分けて、お猫様の前に置いてあげる。
すると、シロは静かにそばを食べ始めた。
「随分と行儀の良い食べ方をするんだな、猫のくせに。――イタっ!」
突然、宏明の左肩に痛みが走った。松三郎が後ろから鷲づかみにしたのだ。
「な、何ですか、旦那さん?」
「おい天狗、おめえを店で使うってのは取りあえず決まったが、念のために言っておくことがある」
「はい」
「うちの娘に手を出したら、問答無用でぶっ殺す」
「い、いや、それは誤解だって――イタタタタ! 力が強いですってば!」
「そば打ちに力が弱ぇ奴なんていねえよ」
「確かにその通りなんですけど。――いやいやいや、次は両肩まとめて握りつぶしですか! 骨が砕けちゃいますよ!」
悲鳴を上げる宏明を、お菊が楽しそうに見ている。
「お二人とも仲がよろしいようで。これなら長続きしそうですね」
「これが仲良く見えますか。お菊さんの目は節穴ですね」
「借りた金を返さずに逃げ出すとか、悪い考えはくれぐれも起こさないようにお願いしますね。伯父が怒ると大変なことになりますから」
「あの親分を怒らせるなんて恐ろしすぎて無理です。真面目に返しますよ」
「あと、江戸で揉めごとだけは起こさないでください。うちにも古橋さんにも累が及んでしまいますし」
「現在進行形で揉めごとが起きていると――痛い、痛い!」
松三郎の握力がどんどん強くなってくる。お菊は助け船を出してくれるつもりがなさそうだ。
この部屋の中にいる他の存在は、お猫様一匹だけである。
当のシロは知ったことかと言わんばかりに大きくあくびをした。
「そりゃ助けてくれないよね……。イタタタタタ! だから痛いですって!」
そんなこんなで、宏明は江戸時代で生計を立てることができるようになったのであった。