第6話 口入れ屋との交渉②
彼女が向かったのは、神田明神からすぐ近くのそば屋だった。
「いらっしゃい――おや、お菊ちゃんじゃねえか。それに古橋さんが一緒たぁ、ずいぶんと珍しい組み合わせだねぇ」
三人が店に入ると、羽織姿の男が声をかけてきた。格好から判断すると、おそらくはこの店の旦那なのだろう。
「ご無沙汰しております。上の座敷は空いていますか?」
お菊が礼儀正しく頭を下げた。
「おう、今は誰もいねえから好きに使ってもらって構わねえぞ」
「じゃあ、お邪魔させてもらうぜ」
松三郎が軽く手を上げて店の旦那にあいさつをする。
三人は二階の部屋に移動した。広さは四畳半くらい。少し手狭だが、三人が座るくらいなら問題はない。シロも一緒に上がって来たのだが、店から一切注意をされない。ペット同伴も許されているようだ。
「それにしても、お菊ちゃんは随分と行儀が良いねえ。いくつだい?」
座るなり、松三郎が口を開いた。
「十六歳です。今は伯父さんの所で働いておりますが、この間までお屋敷に奉公へ出ていまして、そのときに折屈(礼儀作法)をひと通り叩き込まれました。ご覧の通り、体つきが大きいので奉公先ではとても可愛がっていただきましたね」
お菊の身長は一六○センチメートルに少々足りないくらい。二十一世紀の日本では珍しくもないが、この時代だと相当な大女だろう。体が大きいということは力が強いと思われる。人力が頼りの江戸では、重宝されて当然だ。
「うちの娘たちも奉公に出そうかね。二人そろっておちゃっぴい(お転婆娘)で困ってんだ」
「大変なことも多いですが為になるものなので、良い話があったら一考してみては?」
ここで、中年女性が注文を取りに来た。
「冷たいおそばでよろしいでしょうか?」
お菊が壁に吊されている連板を眺めながら、松三郎と宏明に確認をする。
二人とも黙ってうなずいた。
「もりそばと御膳そばのどっちにしましょう? ――では、御膳そばを三人前お願いします。うんと冷たくしてくださいな。あと、猫ちゃん用に小皿も一つ」
注文を受けた中年女性が出て行き、再び部屋の中は三人と一匹だけになった。
「そばを冷たくしろってとんでもねえことを言いやがるな」
松三郎が呆れる。
「歩いて体が火照っているので、冷たいものが恋しくて」
「そうじゃねえ。そば屋からしたら、たとえ真夏でもぬるいそばなんか出すわけにはいかねえ。客に言われるまでもなく冷えたそばを出すのが心意気ってもんだぜ」
「あら、余計なことを言ってしまったようですね。あとで店の人に謝っておきます。――では、古橋さんのお話を伺いましょうか」
彼女が姿勢を正した。
「話はこいつがする。おい天狗、手早くまとめろ」
「実は……」
促されて宏明が話し始めた。内容はさっき力屋古橋で話したこととほとんど同じだ。気が付いたら八王子から江戸に飛ばされたこと。無一文だから松三郎の店で働きたいこと。無宿人だから口入れ屋になんとか助けて欲しいということ。
「……天狗にさらわれた? どう返せば良いのか困りますね」
言葉の通り、お菊は当惑の表情を浮かべている。
「信じられねえのは分かる。オレもそうだ。だけど、こんな怪しい奴でも雇わねえといけねえこちらの事情を汲んでくれると嬉しいな」
「古橋さんの噂は耳に入っていますし、力になりたいのですが……」
とんでもない話に、お菊は頭を抱えてしまっている。
「なんとかなりませんかね?」
宏明が食い下がる。ここで説得に失敗すると、この時代で生きていくあてがなくなってしまうのだ。
「人別帳を偽るとなると、お金がかかりますよ? 宏明さんは払えますか」
「……どのくらいになりますか?」
「確かなことは言えませんが、五両十両の話ではないと思います」
「十両って言われましてもピンと来ないです」
江戸時代の通貨の価値なんて分かるはずがない。
「ったく、田舎では小判を使わねえのか? 一両ってのはだいたい四千文って覚えとけ」
松三郎が口を挟んだ。
「四千文あったら何日くらい食べていけます?」
「――八王子ってのは銭すらねえのか? ここのもりそば一人前が十六文だ。あとはてめえで考えやがれ」
「そば基準で教えて頂いて助かります」
宏明は頭の中で計算を始めた。
(この時代のもりそばは二枚で一人前だから、東京のど真ん中で食べるとしたら……。計算しやすいように千六百円ということにしておこうか。となると、一文が百円くらい)
正しい価値を求められたのかは分からないが、大まかな見当は付いた。
(一両で四十万円、五両で二百万円、十両で四百万円……)
宏明の背中に冷たい汗が流れる。さっきお藤が「宿屋に頼むのはやめといた方がいい」と言っていたのは、こういう理由だったのだろう。
「こんなに借金を背負うのかよ……」
「宏明さん、分かりましたか?」
お菊が尋ねる。
「分かりたくないけど、分かってしまいました。支払いとか普通に無理だと思います」
「うちの宿で立て替えることになるでしょう。何年か働いて支払ってもらうことになると思います。もしそうするなら、宏明さんのそば職人としての腕前をあらかじめ見せて頂きますが」
彼女が宏明の目をのぞきこむ。
「う、腕前ですか……」
「借金の有無にかかわらず、全ての職人に言うことです。うちの宿はそば職人を送り出すのが仕事なのですから」
「ごもっともです……」
宏明は口ごもってしまう。そばを打てないし、薪の火の調整もできない。これでは身元の偽造を断られるかもしれない。
しかし、江戸時代で生計を立てるためには人別帳に記載してもらわなければ話にならない。多額の借金を背負うことになろうとも、どうにかして認めてもらう必要がある。
黙ってしまった彼をよそに、お菊は話を続ける。
「うちの宿に入ったあとは、当面は古橋さんで働いてもらうことになりますが――」
言葉を切って、お菊が目を松三郎の方へ向けた。
「話しても構わねえぞ。全てオレの不徳の致すところってやつだ」
「では、話します。古橋さんの店では近頃次々に職人がやめてしまっています。そば職人というのは長続きしないことが多いのですが、古橋さんは度が過ぎていますね。それでうちからも職人を送るのを止めています」
「情けねえ話だぜ。ったく」
「というわけで、宏明さんがどのくらい続くか分かりません。まあ、そうなったら他の店へ行ってもらいますが……」
ここで注文したそばが届いた。
「話の続きは、おそばを頂いてからにしましょう」
お菊が箸を手に取った。
主人公がそばの価格で貨幣価値を計算してしまったので、とんでもない数値になってしまっています。
江戸では現代よりもそばが安かったようですね。
以後、この物語では大工の賃金を基準とした、一文=二十円で表記していきます。