外伝 最終話 二人の夢
「この度は、釜を作る銭を出していただきまして――」
松三郎が深々と頭を下げた。
「気になさるな、松三郎さん。美味しいものを食べられるなら、アタシは銭を注ぎ込むことを厭わないのだから」
にこやかに笑うのは、お桐の父親だ。
新しい釜が完成したので、さっそく彼の家でそばを振る舞うことになったのである。
「ご隠居の言いつけ通り、出汁釜で作るそばをご馳走しやす。このままの味で売り出すべきかどうか、忌憚なく仰ってくだせえ」
出汁釜という名は松三郎が付けた。この名称にお桐は文句を付けたが、結局夫の意見が通ったという経緯があったりする。
「うむ、楽しみにしているよ」
「それでは、台所をお借りします」
松三郎がもう一回頭を下げてから、部屋の外に出た。
そば打ちも汁取りも自宅で済ませてある。ここではそばを茹でて、薬味の準備をするだけだ。
すぐに支度を終えて、義父が待つ部屋に戻った。そして、折敷(四角形の縁付きのお盆)を差し出す。
「おや、アタシの分だけかね?」
ご隠居が隣に座るお桐の顔を見た。
「わたしは既に松三郎さんのそばを食べているから。お父ちゃんはわたしに構わず食べてよ」
曖昧な笑みを浮かべながら、娘が父親を促す。
「そうかい。なら、いただこうかね。――ざるそばかい。なるほど、水をひと切りで済ますから、水が溜まっちゃう皿を使わないんだね。本当は水をきちんと切った方がそばの香りや甘みを感じられるんだけど、近頃は客を待たせないよう手早く出す店が増えてきているね。気が短い江戸っ子が待てないからなんだろうねえ」
江戸時代におけるざるそばとは、笊に盛りつけられたそばのことである。
「それはそれとして、薬味がネギだけなのはどういうことかね? 江戸のそばで大根おろしが付いていないとかあり得ないよ?」
「ちょっくら考えがあって、大根おろしを外しやした。まずは、薬味を使わずに食べてくだせえ。やはり要ると仰るなら、大根を急いで用意しやす」
「ふうむ、松三郎さんがそう言うなら仕方ない」
ご隠居が怪訝そうな表情で、そばを汁につけた。
松三郎は自信に満ちあふれた表情である。
対して、お桐は不安そうな顔で父親の様子を見守っている。
「――なんだい、この汁は?」
そばを口にしたご隠居が驚愕の声を上げた。
「信じられないよ。こんなに濃い汁がこの世にあるなんて……。これは一体どういうことなのかい?」
「ご隠居のお陰で作れた釜で、とびきり濃い出汁を引きやした。濃い出汁があれば、かえしをたくさん入れられるということで、旨味たっぷりの地廻り醤油をこれでもかとばかりにぶち込んでありやす」
「いやはや、やってくれたね。ここまで味わい深い汁ならば、大根おろしなんて要らないよ。辛みを足すってのは大事かもしれないけど、この汁に入れたら蛇足になってしまうね」
よほど気に入ったのか、ご隠居は手放しで褒める。
「お父ちゃん、お世辞ばかり言っていないで、正直に述べてもいいんだよ?」
「お世辞なんてとんでもない! こんなに美味いそばを食べるのは初めてだよ。ここまでの腕を持つ婿を得るなんて、アタシは果報者さ。その腕前を見抜く、目ざとい娘がいるってことも含めてね」
ご隠居が上機嫌で語りながらそばをすする。
「お褒めにあずかり光栄です。これも全て、ご隠居のご厚意のおかげ」
松三郎が深々と頭を下げた。
「お礼を言うのはこっちの方だよ。松三郎さんの店に通うって楽しみができたのだから」
ご隠居が喜んでくれたということで、試食会は大成功と言って構わないだろう。
松三郎は大きく安堵した。
「お父ちゃんがすごく喜んでいたけど、どういうことだい? 生臭汁は好みじゃないはずなのに」
自宅に戻った後、お桐がこんな感想をもらした。
「ご隠居は結局のところ濃い味が好きなんだ。若え頃、毎日朝から晩まで汗水流して働いていたんだから、そりゃあ濃いもの好きになるさ。で、オレが作ったのは、今までのそばでは考えられねえくらいの濃い汁だ。精進汁だの生臭汁だのそんな細けえ話なんか吹っ飛んじまったんだろう」
「そういうことかい。だけど、わたしはどうしても美味しく思えないんだよねえ」
「ここまで濃いのは男が好む味だから、女には合わねえかもしれんな」
「そば屋に来るのはどうせ男衆だけ。出前しないから女の口には入らない。よく考えられているけどさ、お内儀になるわたしは毎日この味のそばを食べなきゃならないわけだ。たまったもんじゃないよ」
「男が大挙して押し寄せてくるなら、大きな儲けになるぜ」
「……この体に流れる商家の血が恨めしいよ。儲けになるとなりゃ、たいていのことなら受け入れざるを得ないんだから」
一つため息をついて、お桐はハナを抱きかかえた。
「ハナ、もうすぐ広い家に引っ越すよ。やっと店の味が決まったってことで、支度がほぼ終わったからね。今日はおめでたい日だよ」
「あまり広くはねえがな、明神下の店は。さすがにこの長屋よりは広いが」
「小さい店でも構わないだろ? 長年見てきた夢が叶うんだから」
「そうだな、本当に長かったぜ……」
松三郎が感慨深く言った。今までの人生の半分以上を力屋での奉公に費やして、やっと自分の店を持てるようになったのだ。
「そういえば、店の通称は決まったのか? 看板を作ってもらわねえとならねえから急げよ」
「もう決まっているよ。『力屋古橋』さ。どうだい、良い名だと思うだろ?」
「古橋……? おい、やめやがれ。小っ恥ずかしい」
松三郎が狼狽する。
古橋というのは、橋の正式な名ではない。地元の人たちが昔からそう呼んでいるだけだ。
幼い松三郎とお桐が駆け回った場所であり、幼なじみ同士から恋人同士に変わった場所でもある。
恥ずかしいが、お桐の提案を受け入れざるを得ないようだ。命名を任せると約束してあったのだから。
「わたしたち二人で店を出すんだ。こんなに縁起が良い名はないと思うよ。なにせ、あんたが『いつか店を出してみせる』って夢をわたしに語ってくれた場所なんだし」
「覚えてねえな……」
「物覚えが悪いねえ」
「おめえも他人のことを言えた義理じゃねえだろ」
「わたしも物を忘れることが多いけど、この日だけは忘れられないよ。あんたから話を聞かされて、わたしの方は『この人を支える』って夢を持ったんだからね。きっとわたしは物心ついた頃からあんたに惚れていた。己の気持ちに気付いたのは、この日。そば屋を開くって夢をあんたが話してくれた時だよ」
「――おい、急に何を言い始めやがる?」
「たまには惚気させておくれよ」
「惚気ってのは赤の他人に言うものであって、夫に言うことじゃねえだろ。べらぼうめ」
「今日はおめでたい日だから別に構わないだろ? 惚気だけじゃなくて、文句も言っておきたいね。誰かさんがわたしのことを見てくれるようになるまで、何年もかかってくれたわけだし」
「無茶を言うな。お互いにガキだったわけだしな」
惚れた側のお桐が積極的に何度も言い寄ったわけだが、松三郎が振り向いたのは四年経った後のことであった。相手が幼なじみということで、彼の方にはなかなか恋愛感情が芽生えなかったのである。
「紆余曲折あったけど、やっとこさ二人でお店を出せるところまで来たんだ。満願成就だねえ」
「そうだな。あとは店を潰さねえようにするだけだ」
「わたしがいる限り潰させやしないよ。きっと守ってみせるから。――もう一つ、おめでたい話があるよ」
お桐が自らのお腹を優しく撫でた。
「やや子を授かったよ。来年の夏くらいに生まれるはず。こっちも長らく待たせてくれたもんだねえ」
「おお! でかした! 本当にめでてえ日だな。一杯やるか」
「今日のところは一人で飲んどいとくれ。身重の女が何を口にするべきなのか、まだ年寄りたちに教わっていないから」
「酒ってどうなんだろうな? オレもさっぱり分かんねえ。一人で飲んでもつまらねえから、今日のところは抜きにしておくか」
松三郎は浮かしかけた腰を、再び畳の上におろす。
「男でも女でも構わねえ。そばの技を仕込みてえから、とにかく指先が器用な子を生んでくれ。不器用な奴だと、そばをブチブチ切っちまうから、それだけはいけねえ」
「わたしとしては勘定が得意な子が欲しいねえ。誰かさんが苦手なわけだし」
「おいおい、おめえみたいに口うるさいのが二人になったら、オレの頭がおかしくなっちまうぜ」
「わたしが先に死んだら、せっかく出した店が傾いちゃうだろうからね。もう一人勘定ができる人が欲しいよ」
「縁起でもねえ。お互い若えんだから、めったなことは起きねえよ」
「そう思うんだけどね。初めてのお産だから、弱気にもなるさ」
お桐が黒猫の顔を覗き込んだ。
「ハナ、万が一わたしの身に何かあったら、お前が代わりに店を守っておくれよ」
「バッキャロー。猫を帳場に入れたところで、それこそ猫に小判じゃねえか。そもそも、猫はオレたちよりも長生きできねえぞ」
「そりゃそうだね。――じゃあ、ハナは猫又になって、末永く店を見守っていておくれ」
すると、ハナは「ニャン」と小さく鳴いた。
「オレが嫌だよ! 化け猫が住み着いているそば屋なんて、誰一人として寄りつかねえって」
「じゃあ、わたしが長生きするしかないね」
「頼むぜ。オレたち夫婦のどちらが欠けても成り立たねえんだから」
「せめて子に店を譲れるようになるまでは無事でいたいね。――さて、辛気くさい話はここまで。店を開いた後の話でもしようじゃないか」
彼女がわざとらしいくらいに元気な声を出した。
「オレたち二人だけじゃ店を回せねえ。やどやに頼むことになるわけだが、力屋の名があるから出し惜しみなく職人を送ってくれるはずだ」
「あそこの親分、おっかない人だけど平気かい?」
「ちょうどいいことに、代替わりするそうだ。若親分はオレと年が近いから、やりやすくなるぜ」
「そりゃありがたいね。ところで、お父ちゃんが言うには、折敷じゃなくて膳にそばを乗せて欲しいってさ。器が高いところにある方が食べやすいんだって」
「ご年配だとそう思うのか。客のことを思えば膳の方が良いかもしれねえな」
「あと、わたしが思うに、笊にそばを盛るよりも蒸籠に盛った方が見栄えが良いんじゃないかい?」
「蒸籠か。考えてみるぜ。美味い不味いは、見た目でも決まるからな」
「薬味はどうするんだい? お父ちゃんは大根おろしなんて要らないとか言っていたけど」
「こちらも考えさせてくれ。お客が欲しいって言うようなら、やっぱり大根おろしを付けなきゃならねえかもしれん」
店のこれからを話している夫婦を、ハナは交互に見つめる。そして、あくびを一つしてから丸くなってしまうのであった。
(完)
今度こそ完結となります。
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次回作を投稿した際も、またお読みいただけますと幸いです。
皆様、本当にありがとうございました。




