外伝 第7話 資金調達
「新しい釜を作りたいって?」
お桐が眉をひそめた。
勇気を振り絞って松三郎が切り出してみたところ、案の定彼女の機嫌が急激に悪化してしまった。
雷が落ちそうと察知したのか、ハナはサッと物陰へ逃げ込んだ。
「どうして新しい釜が要るのか聞かせてもらおうじゃないかい」
とりあえず聞く耳を持ってくれていたようなので、松三郎はおっかなびっくり話を続ける。
「……ふうん。濃い出汁を引くためねえ」
話を聞き終えた彼女は、口元に手を当てて考え込む。
「わたしが何とか用立てしてみるよ」
「いいのか?」
「その代わり、屋号はわたしに決めさせておくれ。どうせ考えていないんだろ?」
「屋号は『力屋』だ。オレが決めるのは通称に過ぎねえ。まあ、明神下に店を出すんだから『明神下力屋』で構わねえだろ」
「相変わらずだねぇ。そんな捻りのない名じゃなくて、縁起を担いだ名を付けようじゃないか」
「たとえばどんな名でい?」
「そうだねえ……」
物陰で夫婦の様子を窺っていた黒猫を、お桐は抱き上げた。
「『あんこ猫庵』ってのはどうだい?」
「何でい、その名は!」
「あんこ猫は縁起ものだよ。ハナが店の守り神になってくれるさ」
「そんな看板出しても、何の店か分かんねえだろうが。そもそも、『力屋』の名はどこに消えたんだよ?」
「仕方ないねえ。良い名だと思ったんだけど。近いうちに新しいのを考えておくさ」
「頼むから、真面目に考えてくれよ……」
激しい不安に駆られる松三郎であった。
「釜を作る銭が用立てできたよ」
外から戻ってきたお桐がそう告げた。
「――いくらなんでも、はやくねえか?」
松三郎が訝しむ。
彼が釜を作りたいと言ったのは昼下がりである。それなのに、夕方には資金が用意できてしまったのだ。
「お父ちゃんに話したら、喜んで出してくれるってさ」
「ご隠居か……」
お桐の父親は、家業を長男に譲って悠々自適の身になっている。
彼は娘に甘いので、頼みごとを一切断らない。今回も娘の頼みに応えたのだろう。
ありがたい話ではあるのだが、松三郎としては少々心苦しい。
「そんなに気兼ねしなくても平気だよ。お父ちゃんは、むしろ喜んでいるわけだし」
「そうは言うがなあ……」
「あんたがそう思うだろうって、お父ちゃんは見抜いているようだよ。新しい釜を使って美味いそばを食わせろと言っているから。婿が肩身狭い思いをしないように、きっちり気を回してくれるねえ」
「――相変わらずだな。あの人には頭が上がらねえ」
ここまで気遣いができる人物だから家業を大きくできたのだろうと、松三郎は思う。
彼がお桐と結婚する時もそうだった。「美味いそばを作れば娘をくれてやる」と言ってきた。もちろん松三郎の実力を知ったうえでの発言である。
家の大きさが違う者同士の結婚を、婿が実力で勝ち取ったという形にわざわざしてくれたのだ。
江戸の庶民は武士と違って自由恋愛を謳歌している。しかし、結婚となると話は別だ。家の都合が若い男女の間に立ちはだかってくる。
松三郎とお桐の場合も大きな壁があったのだが、彼女の父親の計らいのおかげで無事一緒になることができた。
今回の釜の件も同じ形式にしてくれたのだろう。
「分かった。今まで食ったことないような美味えそばをご馳走するって、ご隠居に伝えといてくれ」
「うちのお父ちゃんのことだから、不味いなんて口が裂けても言わないだろうけど、食い道楽ってことでそんじょそこらの味じゃあ満足しないよ? それに、そばは寺方が好きなわけだし」
江戸時代のそばは大別すると二つの種類がある。
一つは寺方そば。僧侶が作るということで、動物由来の材料を使わない精進汁を用いたそばだ。これは一般庶民にも提供されている。
もう一つは鰹節といった動物由来の食材を用いたそば。こちらは生臭汁と呼ばれる。
現代では後者の方が圧倒的に普及していて精進汁を見かけるのは稀となっているが、江戸時代では両者の人気は拮抗している。
道光庵という寺がかつて存在していた。江戸浅草(東京都台東区)の称住院の院内にあった支院だ。
ここの住職が代々そば打ちの名人だったので、江戸中で評判を呼び、連日大賑わいとなった。あまりに繁盛しすぎて、寺なのかそば屋なのか分からない状態になってしまったので、親寺の称住院からそばの振る舞いを禁じられてしまった。
これが天明六年(一七八六)年の話である。二十年経っているが、江戸市民の間ではまだまだ寺方そばの人気は高い。
そば屋の屋号に『庵』の字が入っていることが多いのは、道光庵にあやかって名付けられたからである。それくらいに江戸市民に支持された味なのだ。
「ご隠居が生臭汁をそんなに好まないのは知っている。だが、必ず心の底から美味いって言わせてみせるぜ。任せておけ」
「本当かい? できれば娘の顔が立つように頼むよ」
「心配無用だ。ご隠居だけじゃなく、全ての江戸っ子の度肝を抜くようなそばを作ってみせるさ」
松三郎が自信満々に言い切った。




