外伝 第5話 素人の汁
「そんな話になっちまったのか」
翌日、松三郎から話を聞いた大旦那が再び呆れかえった。
「おめえの女房は、とことん強気だな。どこかで汁取りの修業したことあるのか?」
「まさか。一切ありません」
「なら無理だな……」
「たいした料理も作れねえくせに、よりにもよってそばの汁を作ろうなんてバカな真似を。賭けはオレの勝ちっすね」
「そば打ちならともかく、汁取りを素人ができるようになったら、江戸中のそば屋はみんな店じまいだ。俺だって汁を作れるようになるまで何年か修業したんだぜ」
「女房がしばらくタバコに文句を言わなくなるだろうからヨシとします」
そう言って、松三郎が煙管をくわえる。
「お前さんの女房は紺屋(染め物屋)の娘さんだったっけか? 結構な大店らしいし、そもそも水仕事に縁がなかっただろうな。どうやってそば汁を作るつもりなのやら」
「いや、あいつの家が大きくなったのは、ここ十年ばかりでさぁ。それまでは小さな商いでした」
そうでなかったら、貧乏職人の息子の松三郎と出会うことすらなかったかもしれない。
「じゃあ、多少は台所に立っているのか。けど、そば汁は無理と思うがね」
「オレもそう思いやす」
玄人二人の見解は一致していた。
それから九日後。お桐のそば汁がとうとう完成したということで、試食することになった。
「なんでえ、そばがきじゃねえか」
目の前に出された箱膳を見て、松三郎が文句を言う。
「素人がそば切りなんか打てるわけないだろ? そもそも、わたしが作るって言ったのは汁だけだし」
「――汁も素人では無理だと思うんだがな」
ともあれ、彼はそばがきを汁につけて、口へ運んだ。
(これは……)
松三郎の目が大きく見開く。
「どうだい?」
お桐は自信満々の表情で彼を見ている。
「酷えもんだ。出汁がきいてねえし、醤油の塩気が思い切り残ってやがる。人に食わせるもんじゃねえ」
「ちょっと! 女房が作った料理なんだから、少しくらい褒めなよ!」
「オレはそばに関して嘘を言わねえ。けど、オレの負けだ。汁の出来は悪いが美味えのは確かだ」
「おや、タバコをやめてくれるんだ?」
「こんな美味えものを突きつけられたんだ。煙管なんざ今すぐ投げ捨ててやらあ」
松三郎が土間に飛び降りた。
「この汁を作ったかえしは残っているか?」
「水瓶の隣にある壺がそれだよ」
「ハナ、ちょっくらどいてくれ」
壺の前で涼をとっていた黒猫のお腹を軽く叩く。
すると、ハナはお桐の膝元に走っていった。
「この壺か」
中に入っているかえしを舐めてみる。
(――信じられねえ。なんだこの味は?)
彼が知るかえしよりも旨味が強く、そして雑味が少ない。
素人のお桐が作った汁は残念な出来映えだったが、玄人がこのかえしで汁を取ったらどれだけ美味になるのか。想像するだけで心が躍る。
「おめえ、この醤油は何でい? どこで手に入れた?」
「近頃評判になっている土浦(茨城県土浦市)の醤油さ。火事の後にも江戸に届いてくれていて助かったよ」
ハナを膝の上に乗せながら、お桐が答える。
「地廻り醤油の質が年々上がっているのは知っていたが、ここまで美味くなっているなんて気付いてなかったぜ。醤油は残っているか?」
「かえしに全部使っちまったよ」
「なら仕方ねえ。明日にでも探しに行くぜ。――いや、これよりも美味え醤油があるかもしれねえ。江戸にある全ての醤油を舐めてくる」
「――ハナ、どうしよう? うちの主人がとうとうバカになっちまったよ」
お桐が飼い猫を撫でながら、心配そうな顔になる。
「バカにでもなんでもなってやるぜ。早速力屋の味を超えられるかもしれねえんだからな」
松三郎の方はやる気に満ちあふれていた。
「うーん、妻の役割を果たせたということにしておこうかねえ」
お桐も満足することにしたようであった。




