外伝 第4話 賭け
「昨日の話の続きをしようじゃないか」
帰宅後、話を切り出してきたのは、意外にもお桐の方だった。
「主はあんただ。だからあんたの好きな店作りをすればいい。ただし、わたしは妻として言いたいことは言わせてもらうよ」
彼女の語気は鋭いが、傍らで寝そべっている黒猫のハナを優しくなでている。機嫌はそこまで悪くないと松三郎は踏んだ。
「さっき大旦那と話してきたんだが、俺としては、やっぱり生粉打ちをやりたい」
とりあえず、彼は本音を妻にぶつけてみる。
「それは別に構わないよ。ただ、店を潰さないために出前もしくは、かけそばのどちらかをやってもらうよ」
「……その二つの中なら、かけそばの方がマシだな。遠くに出前するよりも、店の中で食べてもらえるかけそばの方が、多少のびにくいわけだし」
不本意ながら、彼は妥協することにした。ただし、生粉打ちだけで商売するという点は譲らずに済んだ。
「そうかい、そっちを選んだんだ」
お桐が破顔した。同時に懐から二枚の紙を取り出す。
「どちらを選んでも構わないように、両方とも算用していたんだけど、儲けが出やすそうな方を選んでくれたね。重畳だ」
「――おめえ、あらかじめ算盤を弾いていたのか」
妻の周到さに松三郎が舌を巻く。
お桐が銭勘定に強いことは重々承知している。元々はそれほど大きくなかった彼女の実家を、一代で事業拡大したのは彼女の父親だ。その血を強く受け継いでいるのだろう。
「誰かさんがきちんと考えてくれていたら、わたしがこんなことしなくてもよかったんだけどねえ」
「勘定に関しては、おめえの方が秀でているからな。帳場は任せるぜ」
「言われるまでもなく入るつもりだったけどね。さて、昼間に弾いた算盤は勝手に考えた数だったわけだから、ここらで正しい仕入れ値を教えて欲しいよ」
「鰹節が五百匁(一・八七五キログラム)で千文(およそ二万円)。味醂が一升(一・八リットル)二百五十文(およそ五千円)で醤油が一斗(十八リットル)千二百文(およそ二万四千円)。砂糖が……」
「ちょいと待ちな」
お桐が言葉を遮った。
口調に不機嫌さが混じったのを察知したのか、ハナは機敏に部屋の隅へ避難してしまう。
「なんだい、その醤油の値は? 下り醤油でも使うつもりなのかい?」
「そりゃ、力屋と同じ味を出すとなりゃあ、同じ醤油を使うしかねえよ」
「バカ言ってるんじゃないよ! ひと昔前ならいざ知らず、今時下り醤油をありがたがっているのなんて、高いものを美味いと思い込んでいる半可通くらいだよ!」
基本的に、江戸では京阪地方から運び込まれてきた物品が高級品として扱われている。実際に高品質なのだから、江戸の人々は大金を出して珍重しているのだ。逆に江戸周辺で生産される地廻りものは廉価で販売されている。
江戸時代前期では、醤油も他の品物同様に下りものが優勢だった。しかし、関東で濃口醤油が誕生してから風向きが変わる。香り高い濃口醤油は江戸庶民の嗜好に合っていて、あっという間に淡口醤油主体の下りものを追い越してしまったのだ。現時点では、地廻り醤油の方が圧倒的に多く消費されている。
「オレも下り醤油より地廻りが好きだ。家で使うのは必ず地廻りだしな」
「じゃあ、そば汁も地廻り醤油で作りなさいな。半分もしない値で買えるじゃないかい」
「そいつはいけねえ。他の食い物ならいざ知らず、そばの汁を作るとなると、どうしても下り醤油に敵わねえ」
「ったく、ろくに試そうとしないで、よくもまあ言い切るもんだよ」
「おめえは知らねえと思うが、力屋では何度も新しい醤油を吟味しているんだぜ」
「じゃあ、試す数が足りていないんだね。わたしが力屋よりも美味しい汁を作ってやろうじゃないか。地廻り醤油を使ってね」
「おめえ、いくらなんでも無謀だぞ……」
さすがに松三郎が制止する。
「素人が作れるような代物じゃねえんだから」
「じゃあ、賭けようじゃないか。わたしが美味しい汁を作れたら、あんたはタバコをやめる。作れなかったら下り醤油で店を出す」
「――家ではタバコを吸っていないってのに、まだ文句つけるってか?」
「外で吸っていてもタバコの臭いが体についているんだよ」
「草冠に良いって書いて莨だぞ。体に良いもんなんだから、嫌がるなよ」
「良いとか悪いとか知ったことじゃないよ。わたしゃ、その臭いが嫌いなんだから」
「ったく、好きにしやがれ」
「賭け成立だね。とびきり美味い汁を作ってやろうじゃないか」




