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外伝 第3話 そば屋の勘定

「それで夫婦喧嘩になったってわけかい」


 力屋の大旦那が呆れ顔になった。


 翌日。松三郎がことの顚末を大旦那に伝え終わったところである。


「女房のキンキン声だけでも頭に響くってのに、おかみさん連中にも責められて、ひでえ目に遭いやした」


 夫婦喧嘩の声を聞いた長屋のおかみさんたちが押しかけてきて、「亭主の方が悪い」と抗議をしてきたのだ。中には、松三郎が浮気したから喧嘩になったと勝手に勘違いしたおかみさんまで混ざっていて、それはそれはメチャクチャな騒ぎとなった。


「女の口から『一昨日来やがれ』が出てくるたあ、たまげるね。おめえの女房、そんなにきゃんな性分だったのか」


「小童の頃は棒きれ振り回して男を追いかけまわすような女だったから、オレとしては何ら驚くことじゃねえっすが、言われてみれば大概な性分っすね……」


 松三郎とお桐は幼なじみの間柄である。


「うちの女房は商家の娘だから、外面そとづらだけは良いってことで」


「地女(江戸の女)なんて気が強えのが相場だが、なかなかに肝が据わっているようだな。――まあ、生粉打ち一本で行きたいって、お前さんの考えは分かるぞ。けど、出前とかけそばをやらないってのは勇み足なんじゃねえか?」


「厳しいですかね?」


「うどんを切り捨てるのは、よくぞやったと褒めてえ。俺が力屋を始めた時は、うどんがそこそこ出ていたが、近頃はめっきり売れねえからな。江戸っ子の好みが、そばに移っちまったんだろう。俺もうどんをやめたいと思っていたところだ」


 大旦那が一定の理解を示した。が、その後に苦言を呈する。


「しかし、出前とかけそばを切り捨てるのはなあ」


「オレとしてはもりそばだけでやっていけるつもりなんですが」


「出前ってのは、かつぎをわざわざ雇って運んでいるのに、店売りと同じ値でそばを売らなきゃならねえ。これには俺も頭を抱えているわけだが、良い面もある。店が暇な時分に出前が入れば、職人連中を働かせることができるってことだ。実際、そういう時に出前がよく入ってくれるわけだしな」


「へえ、働いている身としては、暇すぎるってのは辛いのが分かります」


「雇っている身としても、銭を払って置いている職人が遊んでいるのを見ると辛いぜ。次にかけそばだが、こいつを出さないのはもったいないぞ」


「美味いもりそばを出せば、客が付いて店が繁盛すると思っているんですがね」


「世の中そう上手くいかねえんだ」


 大旦那が算盤を取り出し、弾き始める。


「うちの店だと、もりそば一人前を十四文(およそ二百八十円)で売っている。十人前で百四十文(およそ二千八百円)だな。で、十人前を作るのにかかっている銭だが、汁は五十五文(およそ千五百円)だ。火事のせいで仕入れ値が上がっているから、これはその前の話だがな」


「汁だけで半分近くになってますぜ」


「そば粉とつなぎとを合わせてだいたい八文(およそ百六十円)。これに薬味を付けなきゃならねえわけだから、全て合わせて七十文(およそ千四百円)くらいになる。まあ、売値の半分だな。これを作るのに職人を雇って、薪で湯を沸かすわけだ。店を構えるわけだから店賃も忘れちゃいけねえし、夜には油を燃やす」


「……これって儲けはあるんで?」


「少ねえがあるにはある。おめえ、そばを打たせたら右に出る者がほとんどいねえくらいの腕前だが、勘定はサッパリだもんな」


「自覚はあるんで、銭勘定は女房に任せようかなと」


「女房がきちんとおめえを見張ってくれると思うから、のれん分けを許すわけだしな。女房の声も聞いてやれ」


「話を戻して、かけそばだと儲けは大きいんすかね?」


「かけそば自体はそんなに儲からねえ。儲けが大きいのは種物よ」


 算盤の珠を大旦那が軽快に動かす。


「種物を頼んでくれる客がいるから、店はもりそばとかけそばを安く売ることができているってくらいに、種物は儲かる。ちょいと調べたところ、鴨南蛮はかなりの儲けが見込めそうだぜ。うちも冬場に売り出すことにした」


「となると、割り粉を入れたそばか……」


 松三郎が腕を組んで考え込む。力屋の場合、店で出すもりそばは生粉打ち、かけそばと出前のそばは十杯一杯のそばを使っているのだ。


「酒やツマミも儲けが大きいわけだから、こちらに凝るって手もあるぜ?」


「大旦那も知っての通り、そば屋は料理が苦手ですぜ。酒はともかくツマミに凝るのは難しいかと」


「そりゃ、そばを打つのに忙しいからな。だが、そばを打たずに料理だけをする職人を雇うのもアリだ。俺としては、生粉打ちにこだわるお前さんの考えを後押ししてやりてえから、相談ならいくらでも乗るぜ」


「前々から思っていやしたけど、大旦那はどうして生粉打ちを売っているんすかね? もりそばも十杯一杯で出して構わねえはずなのに」


「まだ話してなかったっけか?」


 大旦那が算盤を文机の上に置いて話し始める。


「俺がそば屋を始める前、臼屋をやっていたのは知っているよな?」


「へえ」


「とあるそば屋に言われたんだ。『お前さんが挽いた粉だと繋がらねえから、うどん粉をたっぷり入れなきゃならねえ』って。心底頭に来たけど、そん時は言い返せなかった。それから仕事の合間にそば打ちの修業をして、件のそば屋の前で打ってみせて『臼屋が生粉打ちできるのに、そば屋ができねえなんて、おめえの腕が悪いだけじゃねえか! そば粉のせいにしているんじゃねえぞ、このすっとこどっこいが!』って言ってやったのよ」


「昔からいたんすね。てめえの腕が悪いだけなのに、粉のせいにする輩は」


「胸がすいたところで思ったんだ。俺もそば屋を開けるじゃねえかって。で、始めたのがこの力屋ってわけよ。生粉打ちから始まった店だから、どうしても生粉打ちをやめられねえ。お前さんが分家で続けてくれるなら、嬉しい限りだぜ」


 そう言って、大旦那が優しい目で松三郎を見る。


「帰って女房ともう一回話してみやす」


「どう決まるか、楽しみにしているぜ」


「女房の機嫌が直っているのかどうかが、ただただ心配なわけで……」


 話し合いができるかどうかは、お桐の機嫌次第なのである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いや~、面白いですね。 下のほうの感想にもありましたが、私も昼に蕎麦を選ぶ頻度が増えました(w [一言] 現代に戻ったら是非力屋古橋を探してみて欲しいね。
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