外伝 第1話 のれん分け
外伝は松三郎が若かった頃の話になります。
【主な登場人物】
松三郎 江戸のそば屋「力屋」の番頭。二十四歳。
お桐 松三郎の妻。二十二歳。
ハナ 夫婦の飼い猫。
文化三年(一八○六年)五月。
「おい松三郎。おめえ、鴨南蛮って知ってるか?」
釜前職人が、番頭の松三郎に尋ねた。
「そりゃあ、半年くらい前に食いに行ったから知ってるけどよ、こんなクソ暑い時に話すことじゃねえだろ」
団扇をあおぎながら松三郎が返す。
ここは大江戸本石町(東京都中央区)。幕府により金座が置かれ、金融の中心地になっている地域である。
その一角にあるそば屋、「力屋」の台所で二人の男が会話をしている。
「松三郎が食ったことあるのなら話は早ぇ。大旦那がうちの店でも鴨南蛮を売り出すって言っているらしいぜ」
「おいおい、夏場に何を言い出しているんでい? どこの誰が熱いそばなんか食べるんだって話だぜ」
ただでさえ気温も湿度も高いのに、台所では火を使っているのだ。働いている男は全員上半身裸になっている。
話を続けながら、松三郎は煙管を口に運ぶ。今は暇な時間帯で休んでいる最中だから、のんびりとおしゃべりが可能だ。
「そもそもの話、鴨は冬の鳥だろ。大旦那はどうやって手に入れるつもりなんだ?」
「さあな。代わりに雉でも使うんじゃねえか?」
「それじゃあ、鴨南蛮じゃなくて、雉南蛮になっちまうじゃねえか」
「違えねえ」
釜前が薄く笑う。
「で、松三郎。どうして『鴨南蛮』って名が付いているか知っているか?」
「そりゃ、南蛮人が食ってるからだろ?」
「俺もそう思っていたんだが、どうやら南蛮人はあんな料理は作らねえらしいぜ」
「ずいぶんと詳しいじゃねえか。南蛮人の嫁でも、もらったのか?」
「べらんめい、どこへ行けばそんな嫁をもらえるってんでい? 新入りのかつぎが、南蛮人の屋敷に出入りしていたらしくてな。さっきそんな話を聞いたんだ」
「へえ、そういえば長崎から来ていたんだっけな」
「で、新入りが言うには、長崎であんな料理は見たことねえそうだ」
「じゃあ、笹屋はどうして鴨南蛮なんて名で種物を売り出したんでい?」
鴨南蛮の元祖は馬喰町(東京都中央区)に店を構える笹屋である。販売を始めたばかりではあるが、既に評判となっていた。
「新入りが言うに、南蛮人はネギをよく食うから、ネギのことを南蛮って呼んでるんじゃねえかってこった」
「たしかに鴨とネギが乗った種物だったけどよ、名に凝り過ぎだろ。誰も分かんねえよ」
「まったくもってその通りだぜ」
「で、南蛮人はどうやってネギを食うんだ? 丸かじりか?」
「豆とか山鯨(猪肉)とかと一緒に鍋へ入れて煮るらしいぜ。なんでも肉がトロトロに柔らかくなるくらいに長く煮込むんだとか」
「肉がトロトロになるってのが分かんねえ。どんな味になるんだ?」
「そばを長く煮るとフニャフニャになるべ? きっとそれと同じだろ」
「聞くからに不味そうだな」
西洋料理など見たこともない二人は、勝手な想像をしている。
そこに店の若旦那が近づいてきた。まだ十九歳の若者だ。
「松三郎さん、親父が呼んでいます」
「大旦那が? 何の用でい?」
「それは親父に聞いてください」
「そうかい。じゃあ、オレの代わりに若旦那が板前に入ってくれ」
松三郎は全身の汗を拭ってから半纏をまとった。
そして、店の奥にある大旦那の部屋に向かう。
「大旦那、お呼びで?」
「わざわざ来てもらってすまねえな」
煙管をくわえた、四十代半ばくらいの男性が笑顔で迎える。彼がこの力屋の主だ。がっしりとした体躯に、分厚い筋肉の鎧をまとっていて、まだまだ現役でそばを打つ力を備えている。
「まあ、座れや」
大旦那が松三郎の前にタバコ盆を差し出す。
「おめえ、うちの店に来たのは何年前だっけか?」
「十一の時からお世話になっているから、十三年前っすね」
松三郎がタバコに火を点けながら返答する。
「そうか、洟垂れ小僧がずいぶんとでっかくなったもんだ」
大旦那がタバコ盆に灰を落として、少し顔を引き締めた。
「今までよく奉公してくれた。力屋の名を持って行け」
「――よろしいので?」
「俺としてものれん分けは初めてのことだが、いの一番は、やっぱりおめえしかいねえ。おめえほどの腕前だ。きっと繁盛するだろう」
江戸時代ではのれんが店の権利・信用を意味する。それを分けてもらって独立を許される、のれん分けは非常に名誉なことなのだ。
「力屋の名を汚さぬよう、精一杯励みやす」
「てえした歴史もねえ、汚えのれんだ。そんなに気負うようなもんじゃねえぞ」
そう言って大旦那が笑う。
「本当ならもう少し早くのれんをくれてやろうと考えていたんだが、この間の火事のせいでゴタゴタしちまった。すまねえな」
「大旦那が謝ることじゃありやせん。あの火事じゃあ……」
去る三月四日。江戸は大火に襲われた。後の世で「江戸の三大大火」の一つと呼ばれる「文化の大火」である。
芝車町(東京都港区)で発生した火災が、強風にあおられて延焼し、他の町も次々に焼き尽くした。火の勢いは翌日まで続き、江戸の下町区域の大半は灰燼に帰してしまったのである。
本石町周辺も壊滅的な被害を受けて辺り一帯が焼け野原となったが、この力屋は奇跡的に火災を免れた。加えて、店の従業員の全員が無事という幸運にも恵まれた。
鎮火後すぐに復興事業が開始されたわけだが、力屋は貴重な外食提供店として大きく賑わうことになった。昼間はそれほどではないが、夜になると独り身の男たちを中心に連日客が押し寄せてきている。
「噂によると、新しい建物が次々と建っているのはいいが、店主がまだ入っていない表店が多数あるらしいぜ。表店が余り気味な今のうちに、客が集まりやすい場所を押さえておけ」
「お心遣い痛み入りやす。ただ、力屋が忙しい時に抜けるのは……」
「気にするんじゃねえ。今いる連中で店は回せる。番頭として残ってもらいたいって気持ちもあるんだが、うちの愚息がおめえに頼りっぱなしになるからな。バカ息子の独り立ちのためでもあるってこった」
「大旦那は若旦那に厳しすぎですぜ。毎日真面目に修業しているじゃねえですか」
「あいつはどうにも頼りねえところがあるからよ。――ところで松三郎、力屋の看板を出すからって、同じ味にするんじゃねえぞ」
「……どういうことで?」
「力屋の本家を潰すくらいの心意気で来い。今でこそ灰になっちまったが、この大江戸には何千というそば屋がひしめき合っていた。すぐに火事より前の数に戻るはずだ。生半可な気持ちだと、すぐに客が飛ぶぞ」
「しかし、力屋の味ならそうそう負けませんぜ?」
「考えが甘え。俺が生きてきた何十年かで、江戸のそば屋は大きく変わったぜ。蒸しそばを出すところなんてサッパリなくなっちまったし、垂れ味噌もほとんど見かけねえ。どこの誰が考え出したんだか知らねえが、酒の代わりに味醂を汁に使うのはどんどん広まってやがる」
「たしかに、オレがガキだった頃にくらべてそばは変わってますね……」
「味に差がつかねえと思えば、凝ったそばの名を考えたり、キレイな器に盛りつける。それでも足りなければ、引札をばらまいて客を呼びよせる。どれもこれも、生き馬の目を抜くそば屋界隈で、てめえが勝ち残っていく術よ」
「へえ、肝に銘じやす」
「よし、これで楽しみが増えた」
「――は?」
呆気にとられた顔になった松三郎の顔を見て、大旦那が意地悪そうに笑う。
「いや、なんだ。おめえが本気で作るそばを食ってみてえと、前々から思っていてな」
「人が悪いですぜ、大旦那。オレは毎日本気でそばを打ってるってのに」
「結局は俺の味のそばじゃねえか。俺が食いたいのは、おめえの味よ」
「へえ……」
「ともあれ、今日は早く上がって構わねえぞ。女房に話を伝えてやれ。きっと喜んでくれるだろ」
鴨南蛮が誕生したのは文化年間なのですが、正確な年月は分かっていません。物語では既に登場しているということにしています。
そば屋では南蛮=ネギ、もしくは南蛮=唐辛子を意味するそうです。ただし、薬味のネギは南蛮とは呼ばないとのこと。
単にネギを指すだけではなく調理方法にも色々と注文が付くようですが、そば屋によって異なるようです。
語源も諸説あって確定していないそうです。
物語内では、南蛮=ネギ・南蛮=唐辛子がまだ広まっていないと勝手に設定しています。




