最終話 大晦日
十二月三十日。
「泣いても笑っても今日が大詰め! 借金を返せるかどうかは、今日の売り上げにかかっているよ!」
開店前、お梅が台所で皆に檄を飛ばす。
「結局のところ、返しきれるのかい?」
お藤が妹に尋ねる。
「閉店間際にお金がなんとか貯まりきるかどうかって具合」
「際どいねえ――」
「もし足りなかったら泣き落としをして乗り切るから。お姉ちゃん、嘘泣きできるようにしておいて」
「ええっ? 芝居役者みたいなことなんてできないよ!」
「泣き落としで許されるなら、世の中誰も苦労しないんだけどね」
「わたしをからかっただけかい!」
姉妹の会話を聞きながら、宏明も気合いを入れる。
(うん。きっと大丈夫)
開店前から、店の前に行列ができているのだ。今日は大晦日。そば屋は普段以上に売り上げがある日だ。
「あ、そうそう。去年の大晦日くらいの売り上げだと、借金を払いきれないよ。今年はもっと稼ごうね」
「――結構ハードル高いなぁ」
ともあれ、今日一日の頑張り次第で力屋古橋の命運が決するのだ。
幸いなことに、開店直後から客足は途切れることなく次々に店を訪れてくれていた。
おかげで、台所はてんてこ舞いの忙しさだ。
「お藤、しっぽくを振り終わったぜ」
「はいよ。父ちゃんは、もりそばのおかわり分をそろそろ茹でておいて。――宏明さんは、もう一回生の追い打ちをお願い」
「了解。腕がぶっ壊れるまで頑張らせてもらうよ」
宏明は朝からずっとそばを打ち続けている。忙しい中でも、ミスだけはしないよう細心の注意を払いながらだ。
お藤からの注文の追い打ちが終わったちょうどその時、花番が宏明を呼びに来た。
「宏明さん、やどやのお嬢さんが会いたいって来ているよ」
「お菊さんかな?」
彼は包丁を置いて、手を拭った。
すると、姉妹が粘りつくような視線を向けてきた。
「この忙しいのに抜けて欲しくないんだけど?」
「うんうん、お姉ちゃんの言う通りだね。そういうのは後回しにしてもらえないかな」
妙に迫力のこもった声に、宏明はたじろいでしまった。
しかし、思わぬところから援護が飛んでくる。
旦那の松三郎だ。
「行ってこい。生があるうちは、タバコを吸いに行こうが、ひとっ風呂浴びに行こうが、誰からも文句を言わせねえのが板前ってもんだぜ」
「――本当に行って構わないんでしょうか?」
「板前は台所の殿様よ。誰も逆らっちゃならねえ。で、今の殿様は宏明、おめえだ」
「分かりました。行ってきます――。あれ? 俺の名を呼んでくれました?」
「うるせえ! とっとと行きやがれ!」
松三郎の怒鳴り声に送られて、宏明は店の外に出た。
「お忙しいところ申し訳ありません」
お菊が礼儀正しく頭を下げた。
「別に外へ出ても構わないって旦那に言われたので平気です。お菊さんの方こそ大丈夫ですか? 明らかに疲れているみたいですけど?」
彼女の目の下に隈ができている。
「平気ですよ。何だかんだで昨晩は休めましたから。あちこち駆け回った疲れは残っていますが、特に差し支えはありません」
お菊がそう言うのだから、宏明は信じることにした。
彼女がわざわざ訪れてきたのは、昨夜の事件のことだろう。宏明としても顚末を知りたい。
「では、いつぞやのように宏明さんの家でお話をしましょう」
二人は宏明の長屋に向かった。
「あら、この絵は? 描かれているのはお店の猫ちゃんでしょうか?」
長屋に入ってすぐ、壁に貼ってある絵にお菊が注目した。
「知り合いの絵師さんからもらった絵です。描いてあるのは御察しの通り、力屋古橋のシロです」
葛飾北斎からもらった絵である。彼の肉筆画なのだから、現代日本なら当然文化財扱い。江戸でも高値で売ることができるだろう。ただし、絵に雅号が書かれていないので、誰が描いたのか証明ができない。
宏明としては売るつもりなんて一切ないので、個人の鑑賞用に飾っている。
「私は絵のことに詳しくないですけど、この絵からはものすごい力強さを感じます。名のある絵師なのでしょうか?」
「本人は『好きで絵を描いているジジイ』って言っていましたね。――さて、昨晩からの話をお願いします」
宏明とお菊は向かい合って話し始めた。
「まずは観桜庵の話をしましょうか。特にお咎めなしで済みそうです。伯父さんがあちこちに手を回したのがあるし、観桜庵が町方(町奉行)に普段から心付けを贈っていたのも功を奏したようですね。ただし、さすがに今日は店を開く余裕はないようで、お休みとなっています」
「大晦日に店を開けられないのは辛いですね……」
「店がお咎めを受けないために、若旦那は勘当されました。甲州の親類に預けられるそうです。人別帳から外されるくらいで済んだのだから、ありがたいと思ってもらわないといけませんね。柳介さんに辻斬りをやらせていたのは案の定あの人だったので」
「――やっぱり、若旦那が裏で糸を引いていたんですね。何の恨みがあって、力屋古橋を執拗に狙っていたのやら」
「その辺りの事情は、私の耳には届いていません」
「実行犯の柳介はどうなりましたか?」
「八丁堀のお屋敷に連れて行かれましたが、『寛大なお裁き』が下るのではないでしょうか」
「どういうことでしょう?」
「辻斬りをしたのだから本来は厳罰に処されるべきなのでしょうが、そうなると周りに迷惑がかかります。もっと軽い罪ということにしてしまって、周囲に及ばないようにするそうです。たとえば、酔って暴れてしまったとか」
「……ずいぶんと小さい話になっちゃいますね」
宏明としては釈然としないが、納得する他ない。小さいとはいえ萩右衛門と柳介に罰が下るのは間違いないわけだし、萩右衛門が江戸の外へ出されるということで、今後は力屋古橋への嫌がらせがなくなるだろう。何よりのことだ。
ここらが落としどころなのだと、彼は強引に理解することにした。
「宏明さんにはまたしても口止め料が届いています。今回は観桜庵の大旦那からですね」
「猫の鰹節代にします」
まだシロに昨日のご褒美を与えていないのだ。ちょうど良い話である。
「猫ちゃんが食べきれないくらいの鰹節が買えると思いますよ」
「そんな大金を送ってきたんですか?」
「宏明さんがうちの宿から借りているお金を全て払えてしまうくらいです」
「はい?」
宏明の口から素っ頓狂な声が出た。
「というわけで、宏明さんの借金は全て完済となりました。この後は八王子に帰ろうがどうしようが、宏明さんのお好きなように」
「ちょ、ちょっと待ってください。急にそんなことを言われても困ります。頭が追いつきません」
思わぬ形で自由の身となってしまった。今までずっと心の中に封印していた、未来へ帰る手段の模索をできるようになったということでもある。
しかし、宏明はこう告げた。
「――やどやにもう少し留まっても構わないでしょうか? せめて、力屋古橋の人手不足が解消されるまでは、あそこで働いていたいです」
これを聞いて、お菊が微笑む。
「構いませんよ。こちらとしても歓迎します。宏明さんにはできれば長く残って欲しかったわけですし」
「俺はたいした稼ぎを生み出しませんよ?」
「今はまだ未熟かもしれませんが、そのうち凄腕のそば職人になるかもしれません。宏明さんみたいにおとなしい人が名人になって皆の手本となれば、他の職人たちも宏明さんを真似するでしょう。腕前を誇るあまりに威張り散らしたり、暴れ回る職人は減るはずです」
「買いかぶりだと思います。そば打ちの腕が上がったら、俺も調子に乗って威張り出すかもしれませんし」
「それはあり得ませんね」
彼女が自信たっぷりに言い切る。
「私の目はそこまで節穴じゃありませんよ。宏明さんはそういう人ではありません」
「そう言い切られてしまうと、悪さができなくなるじゃないですか」
「期待していますよ。――そうそう、宏明さんの借金を引いてもまだ余りがあるので、お渡ししておきます。切り餅半分です」
「餅ですか。ありがたいですね。正月用の餅を準備できていなかったので」
これを聞いて、お菊が怪訝そうな顔になった。
「……切り餅って江戸の言い回しだったのですね。これからは気をつけないと」
言いながら、重そうな物を宏明に差し出す。
「どう見ても餅じゃないですよね?」
「江戸では、百枚の一分銀を紙で包んだものを切り餅と呼んでいます。今回は半分なので五十枚ですが」
「い、一分銀が五十枚?」
彼は頭の中で計算を始める。
「金貨に換算すると十二両二分(およそ百万円)。俺が抱えていた借金を完済しても、まだこんなに残るのか。観桜庵はここまで払うくらいに黙っていて欲しいんだ……」
「若旦那がやらかしたことの大きさを踏まえると、安いくらいかもしれませんよ。ともあれ、私からの用事はここまでになります。この後もお仕事頑張ってください」
話が終わったので、二人は家から出て別れた。
(どうしよう、これ……?)
思わぬ大金が手に入ってしまった。贅沢をしなければ、当分は遊んで暮らせるだろう。
使い道を考えながら店に戻ると、台所ではお藤とお梅の二人だけが働いていた。
「あれ? 旦那は?」
「手水に行っているよ」
そばを蒸籠に盛り付けながら、お藤が答える。
「ちょうど良いタイミングかもね。――お梅ちゃん、ちょっとだけ裏に来てもらって構わないかな?」
「あたし? 別にいいけど?」
お梅が首を傾げながら、先に裏へ向かっていく。
「そろそろお殿様にも働いて欲しいんだけどねえ」
「すぐに戻るから。本当にすぐ」
お藤に頭を下げながら、宏明も外に出た。
外で待っていたお梅は両手を胸に当てて、期待に満ちた目で宏明を見上げている。
「さあ、思う存分口説いて。気障な言い回しでも許してあげちゃう」
「口説かないよ! ったく、何を言い出すかな、この非合法ロリは」
「えー! 今の流れで口説かないなんておかしいでしょ!」
「おかしいのは、お梅ちゃんの想像力だよ! ――まあ、いいや。これあげる」
彼女の小さい掌に、先ほどの切り餅を全て握らせた。
「え? え? これって?」
お梅が驚いた顔で、掌と宏明を交互に見る。
「悪いことして手に入れたものじゃないから、安心して使って」
これが宏明の選んだお金の使い道だ。
誰に預けるかを考えると、力屋古橋の面々の中ではお梅が一番適任だろう。
「借りるだけだからね! 必ず返すから、ヒロお兄ちゃんは八王子に帰ったらダメだよ!」
「別に返さなくても――」
「ダメ! こういうのはキチンとしないと! あと、このことは二人だけの内緒話にしておいてね!」
お梅が店の方へ駆け出していった。
「……未来に帰りにくくなっちゃったなあ。まだ方法は見つかっていないけど」
呟きながら、宏明も台所へ戻っていくのだった。
「よし、看板だ!」
松三郎が閉店を宣言した。
結局、朝から晩まで行列が絶えなかったのだ。商売繁盛である。
「オレはお梅と帳場に行くから、おめえが仕舞いそばを茹でておけ」
店主に指示されたので、宏明が釜の前に立つ。台所に残っている人間は彼一人だけとなった。
そばを茹でていると、客席の掃除をしていたお藤が不思議そうな顔をしながら台所へやってきた。
「帳場で話を聞いてきたんだけど、店の借金は昼のうちに払い終わったらしいよ。看板をしまう頃に貯まるかどうかって話だったのに」
「みんなのやる気を引き出すために、お梅ちゃんが大げさに言っていたんじゃないかな」
真相を知っているが、宏明はデタラメなことを言った。
「そういうことかい。お梅の良いように使われちゃったねえ――」
少しムッとした表情になって、彼女が台所から出て行ってしまう。
再び一人になった宏明は、黙々とそばを洗い、溜め笊の上に乗せていく。
作業をしていると、竈の近くでくつろいでいる白猫が目に入った。
「おい、シロ。今日は忙しかったから、約束の鰹節はまた今度な。その代わり、俺のそばを食べてみないか?」
溜め笊から一本手に取って、シロの顔の前にぶら下げてみる。
すると、彼女はパクッとそばに食いついた。そのままムシャムシャと食べていく。
「よしっ」
宏明は思わずガッツポーズを取ってしまった。なにせ、彼が打って、彼が茹でたそばなのだ。それをシロに食べさせることに成功したのである。そばを茹でることも練習し続けていた成果が出たようだ。
そばを食べているシロを見ながら、宏明は今後のことを考え始める。ようやくゆっくり考える時間ができたのだ。
(力屋古橋の人員補充はそんなに長くかからないはずだ。大晦日が終わって暇になった職人を口入れ屋が派遣してくれるはずだし、鹿兵衛さんの骨折もそのうち治るだろうから)
こちらはそんなに気にしなくても構わないだろう。
問題はお梅に「八王子に帰ったらダメだよ」と言われていることだ。宏明としては渡したお金が帰ってこなくても一向に構わない。しかし、彼女がずっと罪悪感に苛まれてしまっては、後味が悪い。
「……もう少し江戸に残ろうか。ついでに汁取りの勉強もしたいし」
と彼が呟いたその時だ。聞き覚えのある声が耳元に聞こえてきた。
――そうかい。なら、戻すのは先延ばしにしておこうかね。
忘れもしない、八王子の厨房で聞いた女性の声だ。
宏明は慌てて台所を見回した。しかし、彼の他には誰もいない。
いや、正確には一匹だけいる。目の前の白猫だ。
「まさか、お前だったのか?」
宏明は四つん這いになって、シロに顔を近づける。
「俺が江戸に来た時、お前が一番近くにいたもんな。そうか、そうだったのか。今まで全く気付かなかったぞ」
当のシロは、彼の言葉を気にする様子もなく大きなあくびをした。
「おい、誤魔化すな。きっちり話をしようじゃないか」
「――宏明さん、何を本気で猫と語り合っているんだい?」
台所に入ってきたお藤が、心配そうな声で宏明に言葉をかける。
「お藤さん、シロって実は化け猫なんじゃないかな?」
「何をバカなことを言っているんだか。そういうのは長く生きた猫がなるものだよ。シロはまだ三歳、明けて四歳なんだから、猫又のはずがないってば」
「何かの勘違いで、十歳とか二十歳とかだったりしない?」
「あり得ないね。まだ小さい子猫だったシロがうちに迷い込んできたのは、母ちゃんの葬式の日で――」
(完)
これにて本編は完結ですが、外伝という名の蛇足がまだ続きます。よろしければ、もう1週間程度お付き合い下さいませ。




