第58話 工作
「――え?」
宏明の目の前で信じられないことが起こった。
通行人が辻斬りを殴り倒してしまったのだ。
走る足が驚きで止まりかけたが、気を取り直して通行人の方に近づいていく。
「あれ? やどやの親分とお菊さん?」
「誰かと思えば宏明じゃねえか。おめえが辻斬りを追っていたのか」
「はい。ついさっき襲われたんですが、運良く助かりまして。で、その後にこいつが逃げたから追いかけていたんですが――」
宏明はお菊の方に顔を向けた。
「お菊さんが捕まえてくれたようですね」
「はしたないところをお見せしてしまいましたね」
彼女がはにかんだような顔になって、傘を開く。そして、着物に付いた雨露を手で払い始める。
「武芸に覚えがあるって言っていましたけど、本当だったんですね」
「女中奉公がこんな形で役に立つなんて思っても――。あら、ひょっとしてお店の猫ちゃん?」
シロも一緒に付いてきていたようだ。
もう犯人が捕まったということが分かったからなのか、シロはのんびりと歩いてお菊の傘の中に入っていく。
「今日はお手柄だったぞ。一番高い鰹節をごちそうしてあげるから、楽しみに待っていてくれ」
毛に付いた水を飛ばそうと身体を震わせている白猫に、宏明は声をかけた。命の恩人ならぬ恩猫なのだから、最大限のお礼をするべきだ。
「おい、宏明。このバカをふん縛るから手伝え」
親分に言われたので、宏明は倒れている辻斬りに恐る恐る近づく。
「こいつは……。いやいやいや、あり得ないだろ……」
頬被りが外れかかっていたので、ようやく暴漢の顔を見ることができた。
それは知っている顔だった。
「宏明、このバカ野郎を知っているのか?」
「観桜庵の若旦那と一緒にいた、かつぎの人ですね。一回会ったことがあります。たしか柳介って名前でしたっけ」
この言葉にお菊が眉をひそめた。
「伯父さん、今まで黙っていたけど……」
彼女が親分に素早く耳打ちをする。
「若旦那が? こいつはいけねえ――」
親分の顔が曇る。
「オレが自身番を呼びにひとっ走りしてくる。それまで、こいつの顔はもう一回隠しておこう。お菊と宏明は、近所連中が辻斬りの顔を見ないように見張っておくんだ」
言うが早いか、親分は駆け出した。あっという間に夜の町に消えていく。
提灯の光を親分が持って行ってしまったが、かろうじて闇に慣れた目のおかげで周囲の状況は確認できる。
「はあ……。今夜は帰れないかもしれませんね」
この場に残されたお菊が深々と嘆息した。
「宏明さん、私の傘に入ってください。風邪を引いてしまいますよ」
「もうずぶ濡れだし今さらな気もしますけど、ご厄介になります」
今までずっと興奮状態で感じていなかったが、お菊に言われて全身が冷え切っていることに気付いた。手をこすり合わせて少しでもあたためようとしてみる。
「ところで、俺には親分の狙いがサッパリ分からないんですけど? 一応、言う通りにはしますが」
「このままだと観桜庵に累が及びかねませんから、それだけは阻止したいのでしょう。職人を守るのが信条の伯父さんが、宿の者の行き場が失われるかもしれない事態を見過ごすはずがありません」
「……まさか、柳介を奉行所に突き出さずに、もみ消すつもりですか?」
ついさっき殺されかかったばかりの身としては納得しかねる話だ。
「それはもう叶わないでしょう。近所の人も出てきていますし、隠しきれません。ここから先は、いかにして観桜庵を守るかですね」
「若旦那も守るんですか? あいつが一番の元凶と思うんですが」
「跡取り息子とはいえ、店を守るためには――。さて、人が集まり始めましたね。柳介さんの顔は誰にも見られないようにしましょう」
「釈然としませんが言う通りにします」
「分かっていただきましてありがとうございます」
口入れ屋に人別を偽ってもらっている立場なのだ。強く逆らうことはできない。
親分と一緒に現場へ駆けつけてきた自身番が、気絶したままの柳介を運ぶのを見届けるまで、宏明は寒さに耐えながらこの場にとどまった。
その後、家に帰るように親分から指示を受けたので、素直に帰宅することにした。一刻も早く暖を取りたい。
「お前はどうする? うちに来るか? 長火鉢で毛を乾かすくらいはできるぞ」
顔を洗っているシロに、宏明が声をかけた。
すると、シロは彼の足もとに近づいてくる。
「来るのか。けど、鰹節は明日以降な。今日は部屋の中にある食べ物で我慢してくれ」
こうして、宏明はようやく自宅に戻れたのであった。
口入れ屋の二人が過剰な反応をしていますが、これは幕府が法を庶民に公開していないので、何をやらかしたらどんな罰が下るのか正確に分からないからです。
もちろん噂話や経験からある程度は推測できるでしょうが、ここまでの大事件は彼らにとって初めてのことになります。




