第56話 帰路
十二月二十九日。
力屋古橋がそばの販売を再開してから二日目。まだ昼間だというのに、店の前には行列が出来ていた。昨日は行列ができるほどではなかったのだが、そば復活の噂がようやく広まってきたのだろう。
当然、台所の中は大忙しになっている。
「注文通します。もりそば四人前、御酒が二本」
花番が告げると同時に、釜前の松三郎と中台のお藤が素早く反応して動き始める。
店では他に、宏明が板前に入っていて、お梅が脇中兼花番、胡蝶屋から応援に来ている若い衆が雑用係で、計六人が働いている。
「半人前のそばだって正直に伝えているってのに、ずいぶんと客が来るじゃねえか」
釜の蓋を閉めながら言う松三郎に対して、お梅が徳利に汁を注ぎつつ答える。
「分かりやすい名が良かったようだよ。半人前なのにここまで美味いんだから、一人前の職人が作ったそばはどれだけ美味いんだろうって感じで評判を呼んでいるみたい。違いを知るには、今のうちに半人前そばの味を知っておかなきゃならないとかどうとか。食通を自任する人たちもあちこちから集まっているようだね」
「そりゃあ、おめえ、オレのそばの方が断然美味いに決まってらあ。半人前どもが作ったかえしがなくなったら、オレのそばで驚かせてやるぜ」
「お父ちゃん、そろそろ若い人たちに道を譲って隠居したらどうかな? 追い越される前に勝ち逃げしていた方がいいってば」
「はんっ。追いつけるもんなら追いついてみやがれ。オレのそばは年々美味くなっていくんだからな」
親子の軽口の叩き合いを聞きながら、宏明は包丁で生地を切っていく。一寸あたり二十五本で切るのも慣れてきている。
(お客さんに受け入れてもらえて、本当に良かった)
これが素直な感想である。商売をする人間として本望だ。
開店してからずっとそば打ちをしていて、宏明の両腕には疲労感が蓄積されている。しかし、客に喜ばれているということでモチベーションは最高だ。
「おい天狗、そばを上手に打てているようだが、調子に乗るなよ。ずる玉をオレに寄越した日にゃあ、大川(隅田川)の魚のエサにしてやるからな」
「若い才を妬むのはみっともないよ。板前に丸一日立てないお父ちゃんより、ヒロお兄ちゃんの方が店の役に立っているって、みんな分かっていることなんだし」
「ああああああ! ぶっ殺してえ!」
次女に挑発されて、松三郎が叫んだ。
「父ちゃんこそ、川に浸かってきたらどう? ずいぶんと酒が過ぎているようだし、酔い醒ましにちょうどいいでしょ。お梅の方も、腹に据えかねているのは分かるけど、父ちゃんをいじめるのはそろそろよしなさい。無事に帰ってきてくれたわけなんだから」
お藤が冷たく言い放つ。
「宏明さんの方も、父ちゃんや『ろりっこ』の言葉に乗らないで欲しいねえ」
続いて、宏明にも冷たい言葉を浴びせた。
「……俺、ひと言も話していないはずなんだけど?」
とばっちりもいいところである。
一部でギスギスした空気があったものの、概ね問題なく閉店時間を迎えた。
「おや、雨が降っていますね。――すみません、店の傘二本借りまーす」
帰宅しようとした宏明が、戸口から店の中に声をかけた。
松三郎が江戸に帰ってきたので、宏明は店に寝泊まりする必要がなくなった。また元通り、長屋からの通勤に戻っている。
その際、花番さんの家が途上にあるので護衛代わりとして一緒に退勤しているのだ。
「今日はご苦労様。明日もそば打ち頑張ってね」
「花番も今日より忙しいでしょうけど、なんとか乗り越えましょう。おやすみなさい」
別れのあいさつをして、宏明は路地木戸を開けて路地に入っていった。
町と町の境に木戸があるのと同様に、表通りと路地の境にも木戸が設けられている。無論、防犯用だ。夜になると戸が閉じられてしまうが、施錠されるのは深夜なので今の時間なら通行可能である。
現代日本とは比較にならないくらいに明かりが少ない江戸の夜だが、路地はさらに暗くなる。彼は右手に持った提灯の光を頼りに、慎重に歩みを進めていく。
(ん? 何だ?)
視界の片隅、芥溜の陰で何かが動いたことに気付いた。
(――人間?)
人陰が芥溜の陰から飛び出し、宏明の方に駆け寄ってきている。
「って、ちょっと!」
宏明は左斜め後方に飛んだ。
間一髪。
人影とぶつかることは回避できた。
「痛っ」
その代償として、思い切り尻もちを付いてしまった。臀部に強烈な痛みが走る。
手にしていた提灯は手放してしまい、地面に落下させてしまった。その衝撃で提灯の風よけの紙が炎上し始め、辺りが少し明るく照らされる。
(刃物? まさか辻斬り?)
人影の右手に金属らしき物があるのが、宏明の目に映った。同時に、相手が頬被りして顔を隠していることにも気付く。体格はかなり大きい。
慌てて立ち上がろうとするが、恐怖で腰が抜けてしまったのか、足腰に力が入らない。
(助けを呼ばないと)
そう思うが、声も上手く出てくれない。やはり恐怖のせいなのか、口が思い通りに動かない。
辻斬りが刃を宏明に向けた。
宏明を害するつもりなのは間違いなさそうだ。
ゆっくりと辻斬りが宏明の方に歩いてくる。
(く、来るな!)
左手に残っていた傘を相手に向けて、牽制を試みる。
一瞬だけ辻斬りがためらうように動きを止めたが、すぐに行動を再開する。
絶体絶命だ。
そもそも傘で身を守りきることは不可能である。
(何か、何かやらないと……!)
頭で考えはするが、全く思いつかない。
そもそも、思いついたところで、体がまともに動いてくれないだろう。
じわじわと辻斬りが接近する。
宏明の持つ傘を、辻斬りが力任せに取り除く。
二人の間に遮る物はもう何もない。
辻斬りが刃物を高々と振り上げる。
宏明の体は相変わらず動かない。
(……ダメだ)
覚悟を決めたその刹那、視界に白いものが飛び込んできた。
「チッ――!」
辻斬りが舌打ちしながら、大きく下がった。
白い何かが辻斬りに飛びかかったのだ。
(シロ?)
力屋古橋の白猫が、敵を攻撃してくれたのである。
「フー!」
シロは毛を逆立てて、辻斬りを威嚇している。
初撃は敵にかわされたが、白猫はさらなる攻撃を加えようと身を低く構える。
「シロ、無理はするな!」
こわばっていた宏明の口が動いてくれた。
たとえ猫であっても味方が増えて心強く感じたので、麻痺していた心身が再び動くようになったのだろうか。
足も動くのを確認して、彼は立ち上がり、暴漢と対峙する。
「…………」
唐突に、辻斬りは宏明たちに背を向けた。そして、一目散に走り始める。
不利を悟ったのか、それとも騒ぎが大きくなって逃げ切れなくなることを怒れたのか、宏明には分からないが、ともあれ命だけは助かったようだ。
「フギャー!」
その背中にシロが鋭く飛びかかる。
爪で引っ掻いたようだが、衣服に阻まれてそれほど効果をあげられなかったみたいだ。
辻斬りは一瞬だけバランスを崩したが、すぐに体勢を立て直して走り続ける。
「待て!」
宏明も追いかけるが、明かりなしでは全力で走れない。何度かつまずきそうになりながら追いすがる。
対して、敵の足は宏明よりも速い。夜目が利いているのだろう。
辻斬りはあっという間に路地木戸を開き、表通りに出た。そして、道を左に曲がっていく。
宏明が表通りに出た時、辻斬りの背中は遠くまで行ってしまっていた。
(――誰かがいる?)
辻斬りが進んでいるその先に、提灯らしき光が見える。たまたま通りかかった人なのだろう。
このままでは、通行人が暴漢と遭遇してしまう。
「逃げて! 辻斬りだ!」
彼はあらん力を振り絞って叫んだ。




