第54話 お手本
十二月二十七日。日暮れ直後。
「どうしよう……」
自室で寝そべりながら、宏明は呟いた。力屋古橋に寝泊まりするにあたって与えられた部屋である。
今は菓子販売を終えた後。片付けも終わったので、ひと休みしているところだ。
(明日からそばの販売を再開するのに、麺だけが間に合わない)
お梅は「ずる玉でも気にしないで売ろうよ」と言ってくれているが、舌の肥えた客に気付かれてしまうのは必定である。仮に大晦日を乗り越えられたとしても、悪評が広まって後々まで影響するだろう。
しかし、今の宏明はずる玉しか打てない。何が悪いのか皆目見当がつかないのだ。
「ん? どうした、ミケ?」
宏明が寝転がって悩んでいると、三毛猫がしきりに甘えるような声で鳴いてくる。
「またお腹がすいたのか? 今は休憩時間なんだから少し待っていてくれ」
彼女はこの言葉を全く受け入れずに、ニャアニャアと鳴き続ける。
「……そんなに腹が減っているのか? このままだと休めなさそうだし、一緒に来い」
彼が台所の方に向かうと、ミケは後ろから軽やかな足取りでついて行く。
「夕飯前だし、少しだけだぞ」
店で使う用の海苔ではなく、安物の海苔を小さくちぎってミケに与えた。
三毛猫はその海苔を一心不乱に食べ始める。
(少し早いけど、せっかく台所に来たんだから、人間様の食事の支度もしちゃおうかな)
ご飯と味噌汁は朝に準備した物を食べるわけだから、宏明が作ろうとしているのは簡単なおかずだ。
何の食材があるのか台所の中を見回してみると、木鉢が目に入った。
「…………」
正直、見るのも嫌になってきているのだが、逃げても仕方がない。思案を始めてみる。
(旦那や鹿兵衛さんの作業と、俺の作業のどこに違いがあるんだろう?)
今までも、彼らの動きを何度も頭の中で思い返しているのだが、全く分からない。ビデオ撮影して好きなだけ確認することが可能な未来社会は、すごく恵まれていたのだと改めて思う。
「おや宏明さん、またそばを打つつもりなのかい?」
お藤も台所に入ってきた。
「無理しないでいいよ。今日も何度も打ったから、腕が疲れているでしょ?」
「さすがに打つ気はないよ。休むのも仕事の内って奴だね」
言いながら、宏明は自分の腕をさする。無理をして腕を痛めてしまったら元も子もない。
「旦那と鹿兵衛さんの動きを思い出そうとしているんだけど、なかなかそれができなくて困ってるんだ」
「お手本が欲しいのかい? じゃあ、わたしが一回打ってみようか?」
「え? お藤さんってそば打ちできるの?」
「父ちゃんに一応習っているよ」
「でも、この前はできないって言っていたよね?」
「あれは、商売として打てないってことだよ。一回二回ならともかく、何回も打ったら手の力がなくなってずる玉しか打てなくなっちゃうだろうから」
「そういう意味だったのね」
そば打ちの中で、くくり作業はとにかく力が要る。屈強な男でも何度も何度も行うのは辛いのだ。
お藤は江戸時代の女性ということで、現代日本の女性よりは筋肉量が多いはずだ。しかし、華奢な体格では、どうしても男性と同じようにはいかないのだろう。
「宏明さんのお役に立てるかは分からないけど、取りあえずやってみるよ」
彼女が木鉢にそば粉を入れ、水を加えながら手でかき回し始める。
「……旦那に教わっているだけあって、手つきがそっくりだね」
「わたしはこれしか知らないからね。他のやり方なんかできないよ」
「でも、手を動かす速さが違うかな?」
「父ちゃんや鹿兵衛兄さんが速すぎるんだよ。わたしの腕では真似できっこない。その代わり、入念にかき回しているよ」
「そば粉が乾いたりしないの?」
「あんまりのんびりしていたら乾いちゃうだろうけど、わたしくらいの動きなら平気なはずだよ」
お藤が二回目、三回目の加水を終えてから、そば粉を少しつまんで宏明の前に差し出す。
「ほら、まだ乾いていないでしょ?」
「本当だ。そこまで急ぐ必要はないんだ」
「急ぎすぎて、水が付いていない粉が残ったらおしまいだからね。宏明さんはそんな失敗していないけど」
「いや、俺はたぶん別の失敗を犯していたと思う」
「そう? わたしには宏明さんに失敗なんてなかったように思えるけど。――さて、まだやりかけだったね」
そば粉を木鉢に戻して、彼女がくくり作業に入った。
男性のような迫力はないが、そば粉はきちんと一つの塊になっていく。
「よし。久々だったけど、上手にできたね」
「ありがとう。見たいところは見終わったから、続きは俺がやるよ」
宏明が生地をのし台に乗せて、薄く伸ばし始める。
「お藤さんのおかげで、上手く打てそうな気がしたよ。明日こそ成功してみせる。――もしダメだった時は、お藤さんに水回しだけお願いをしてそばを売ろう」
「ああ、その手があったねえ」
「でも、それだけは避けたい。せっかくお藤さんのおかげで失敗に気付けたわけだし」
「何に気付いたのか分からないけど、お役に立てて良かったよ……」
こう言う彼女の表情に少し影が差した。
「店が傾いているってのに、何もできませんでしたとかだったら、母ちゃんに顔向けできないし」
「何もできないなんてとんでもない。たった今そばをきちんと打ってくれたし、汁取りだってやってのけているじゃない」
「結局は父ちゃんの真似ごとだしね。店を守るにはそば修行じゃなくて勘定のことを頑張らないといけなかったのに、お梅に任せっぱなしだったから、母ちゃんが夢枕に立って説教しにくるかもしれないよ」
「あー、お梅ちゃんか。あの子はしっかり者だから、お勘定に向いているよね」
「結局のところ、こうやって三人でそば作りをしているのはあの子が引っ張ってくれたおかげだし。生まれてくる順が逆で、お梅の方が姉だった方が良かったんじゃないかって、近頃何度も思っちゃうよ」
どうやら、妹に対してコンプレックスを少なからず抱えているようだ。
たしかに、店の経営立て直しのために年長者たちを叱咤激励して動かす姿は、まるでベテランのお内儀さんみたいだ。精神年齢は、宏明やお藤よりも高いかもしれない。
宏明はのし棒を置いて、お藤の方へ体を向けた。
「お藤さんは今までのやり方で正しかったんじゃないのかな?」
「ん? 何が?」
「お梅ちゃんは勘定が得意だから帳場で頑張る。お藤さんはそば作りが得意だから台所で頑張る。お藤さんの指先は器用でそば打ちに向いているわけだから。だん――」
旦那に似ていて。と言いかけたが慌てて飲み込む。言ったら彼女を怒らせそうな気がしたからだ。
「だ、男子二人のうちなんか、兄貴も俺もそば打ちしか特技がないわけだから、店が傾いたとしてもろくに何もできないと思う」
無理矢理、話をつなげることに成功した。
「その点、姉妹で分業できているのはうらやましいよ。お藤さんが台所で頑張っているから、お梅ちゃんは他のことに気を配れているのかもしれない。そもそも、十五歳で汁取りできる人なんて、江戸でお藤さん一人だけかもしれないよ。きっと、お梅ちゃんもお姉ちゃんのことを頼りに思ってくれているはず」
「わたしも店の役に立っていた……?」
そう呟くお藤の瞳にみるみると涙が溜まり始めた。
「え? え? 俺って何か変なこと言ったかな?」
「――違う。そうじゃない。そば修業していたのが正しいって言ってもらえたから」
涙を拭う彼女に笑顔が浮かんでいたので、宏明はひと安心した。
「そっか。母ちゃんがわたしにそばの習練を励めって言ったのは、こういうことだったんだって分かったよ。そばを作ることなんて、たいして役に立たないって思っていた――」
「そば打ちの技術って、俺も将来的に店を持たないと、たしかに無意味になるからなあ。生きていく上では必要のない技ではあると思う。でも、お藤さんの場合は、役立つ場面があるかもよ」
「わたしの場合?」
「信州だか奥州だか忘れたけど、そばを打てない女は嫁入りできないって風土があるって聞いたことがあるから。――江戸の女性には関係ない話かな?」
「よ、嫁入り?」
お藤の顔がたちまち真っ赤に染まっていく。そして、少し後ずさりをした。
「えっと、やっぱり俺って変なことを言ってる?」
「へ、へ、変じゃないよ! 変なのはわたしの方だから!」
「そうなの? だったら心配する必要――うわっ!」
突然、背中に衝撃が来たので、驚きの声を上げてしまった。
宏明が首を後ろに回してみると、トラが彼の半纏に爪を引っかけて背中を登っている様子が見えた。
「木登りするのは別に構わないけど、いきなり飛びかかるのは勘弁してくれ。ビックリするから」
彼の抗議に耳を貸さず、トラは宏明の肩の上に乗った。
それと同時に台所の入り口から声が聞こえてきた。
「あーあ、トラが邪魔しちゃった」
お梅だ。彼女は両手でシロを抱きかかえている。
「叱るべきか褒めるべきか難しいところだね……」
お梅は複雑そうな表情を浮かべている。
「ちょっと、お梅! いつからそこにいたんだい!」
ますます顔を紅潮させて、お藤が妹に怒鳴った。
「お姉ちゃんがそばを打っているあたりからずっと」
「そ、そ、そんなところから……」
「中に入りにくいなと思っていたら、どんどん入りにくくなちゃったんだよね」
お梅がシロを床に下ろし、そして姉の肩とポンと叩いた。
「あとで二人でお話をしよ。お姉ちゃんとは毎日顔を合わせて言葉を交わしていたのに、心のすれ違いがあったみたいだから」
「――そうだね。わたしもゆっくり話をしたい気分だったよ」
「よし、お姉ちゃんとの件は、そういうことで」
お梅が今度は宏明の腕に抱きついた。
「どうしたの、お梅ちゃん?」
「におい付け」
「猫じゃないんだから」
「あたしのことも構って欲しいにゃあ」
そう言って、宏明の腕に体をこすりつけてくる。
「飼っているだけあって、実に猫っぽい仕草だね」
「にゃーん。このお店はお姉ちゃんにお任せしちゃって、ヒロお兄ちゃんはあたしと新しくお菓子屋さんを始めて欲しいにゃあ」
この言葉にお藤が鋭く反応した。
「お梅、何を言っているんだい!」
「お姉ちゃんなら一人でそば屋を切り盛りできそうにゃあ」
「ちゃんとしゃべりなさい! この間の話と違うじゃない!」
「事情が変わったというか、あたしが心変わりしたというか。ともあれ、この件もあとで話し合おうよ」
「お梅!」
突如として始まった姉妹喧嘩に、宏明はオロオロするばかりであった。
救いを求めるべく肩の上のトラに目をやるが、知ったことかと言わんばかりに毛繕いをしている。
他の二匹も我関せずと台所の隅で丸くなっている。
「えっと、二人とも喧嘩はやめよう。江戸の華かもしれないけど、近所迷惑だよ……」
「別にお姉ちゃんと喧嘩なんかしていないよ。単に話し合いするって決めただけだし」
「そうだね。話し合うだけだもんね。じっくりと」
言葉の節々にトゲを含ませて火花を散らしている姉妹を前に、宏明は立ち尽くすことしかできなかったのであった。




