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第53話 後退

 十二月二十七日。


「宏明さん、うどん粉を入れてそばを打ってみたらどうだい?」


 お藤が宏明に提案をした。


 今は夜明け直後。そば打ちに失敗して頭を抱えていた宏明に、彼女が声をかけたところである。


「一回、宏明さんの実家の打ち方をして、気分を変えてみるのも良いかもしれないよ。汁取りとか、昨日の汁の湯煎とかは、わたしとお梅がやっておくから、宏明さんはそば打ちの習練を頑張って」


「……気分転換か。ありがとうお藤さん」


 完全に行き詰まってしまっている宏明は、彼女の気遣いを素直に受けることにした。


 力屋古橋に小麦粉は置かれていない。手っ取り早く調達するのは、長屋のものを持ってくることだろう。


 彼は自分の住まいに一旦戻ることにした。たった今失敗した麺を茹でてから外へ出る。長屋の扉の前にお腹をすかせた野良猫たちが待ち構えているはずだ。


 表通りを歩いて長屋の方へ向かっていると、前方から顔見知りが近づいてきた。口入れ屋の親分である。


「おはようございます、親分」


「宏明じゃねえか、おはよう。早起きだな」


「親分こそ、こんなに早くどうしたんですか?」


「寄子が騒動を起こしやがってな。朝っぱらからその始末に向かっているところよ。ったく、恐い顔をして叱りつけたところで、職人連中には馬の耳に念仏だぜ」


「口入れ屋って大変なんですね……」


「これが仕事なんだから仕方ねえ。ところで、店の方はどうでい?」


 力屋古橋の状況を親分は知っている。


「旦那はまだ戻っていませんが、娘さんが汁を作り上げたので、近いうちに店を開けることができそうです」


「――汁を作っただと? あそこの娘、二人ともまだ若えだろ」


 親分の目が大きく見開く。


「信じられないかもしれないけど、本当なんです。俺も頑張らないと……」


「門前の小僧習わぬ経を読むって言うもんな。そば屋の子は店の味を舌で覚えているから、そこらの職人よりも汁取りを覚えやすいのか。てえしたもんだ。あとは立派な婿を迎えれば、古橋は安泰だな」


 よっぽど感心したのか、親分は何度もうんうんと頷いている。


「ともあれ、店を開くと聞いて安心したぜ。うちから職人を送れねえのは申し訳ねえが、辛抱してくれ。年が明けたら出せると思うからよ」


「もう少しですね。地道に頑張ります」


 宏明は親分と別れて自宅を目指す。


 家の前に陣取っていた野良猫親子にエサを与えてから、宏明は中に入って小麦粉を回収した。


「よし、久々に割り粉入りのそば打ちだ」


 力屋古橋の台所に戻って、早速そば打ちを始める。


「あ、やっぱり粉がつながりやすい」


 小麦粉のおかげで、くくり作業が易しくなっているのだ。そこまで苦労せずとも塊になってくれる。


 かと言って、捏ねる力を弱めては江戸流のそば打ちではない。両腕に体重を乗せて、強く捏ねていく。


(本当に気分転換にしかならないかも)


 生粉打ちに通じる何かをつかみたかったのだが、そんなものは全くなかった。


 気分転換だけでも良しとするかと割り切って、彼はのし作業に取りかかる。


 その直後――。


「うっ、ずる玉だ……」


 宏明が呆然と呟いた。小麦粉を入れたそば打ちで失敗するのは久しぶりだ。


「ここのところ、宏明さんはずっと生粉打ちばかりやっていたから、勘が鈍っているのかもね」


「どうせ、あたしたちが食べる分だし、ずる玉でも構わないよ。気にしないで」


 姉妹が交互に慰めてくれるが、彼の落胆は大きい。小麦粉が混ざっていれば上手に打てる自信があったのだ。


 その後、何度も練習を重ねたのだが、生粉打ちでも割り粉入りでも一回も成功することができなかった。


(……ひょっとして、俺ってそばを打つのが下手くそになっている?)


 信じたくないが、認めざるを得ない事実であった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 何でしょうね原因、気持ちなのか環境なのか時期や天気や温度でもって話しはラーメンでもよく聞くけど
[良い点] 江戸情緒、 蕎麦への情熱と真摯さ、 淡くても明瞭な人物描写、 それらが良いと思いました。 原点ともいえる文政年間の味と、現代の知見が立体的に構成されて馥郁たる蕎麦が出来上がりつつあるよう…
[一言] 在来種と品種改良種の違いが原因ですかね。 主人公は在来種での蕎麦打ちの経験ごないだろうし。
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