第52話 つかんだコツ
十二月二十六日。
仕入れた醤油に砂糖を煮溶かしてから六日目。かえしとして使用できる日がとうとう訪れた。
今日からこのかえしを使っての汁取りを行う。
「じゃあ、久々に出汁釜に仕事してもらおうか」
宏明が竈に薪をくべていく。
普段通りの濃さの出汁を引くために、七日ぶりの出汁釜使用となる。
「やることは結局のところ平鍋で作るのと全く一緒なんだよね、ヒロお兄ちゃん?」
「そうだね。沸騰したお湯に鰹節を入れて、アクを取りながらかき混ぜ続ける。で、しばらくしたら弱火にして煮詰める。火加減とか煮詰める時間とか細かいところは違うけど、流れはだいたい同じだね。今日は出汁釜を使うのに慣れているお藤さんにお任せするよ」
そんな話をしながら、作業を順に進めていく。
およそ二時間煮詰めるのだが、さすがに長時間鍋に付きっきりになるのはバカバカしい。この間に菓子の下ごしらえや、そば打ちの練習等で時間をつぶす。もちろん、火加減の調節は忘れたりしない。
「やっぱり、俺の実家の作り方とくらべたら、圧倒的に濃い出汁だね」
二時間ほど経った後、味見をした宏明が感想を述べた。
「うん、これがうちの出汁だね。お梅、昨日までとの違いは分かる?」
「――舌に重いとか言われても分からないよ」
「今日のところは、これがうちの店の良い出汁と覚えておきなさい」
「悪い出汁ってあるの?」
「鰹節が悪いと、あまり出汁が出ないんだよ」
「そういうのは煮る前に取り除いてよ。薪代がもったいないでしょ」
「出汁が出るかどうか、引いてみないと分からないんだよね。鰹節問屋ですら煮てみないと分からないって言っているようだし」
「何それ。アコギな商売やってるね」
「向こうも悪気があって悪い節を納めているわけじゃないと思うよ。本当に分からないんでしょ」
鰹節から出汁が出るかどうかの話は、現代日本でも状況は同じだ。実際に出汁を引いてみないと分からないので、そば屋は毎日頭を悩ませている。
「お藤さん、そろそろ鰹節を引き上げちゃって構わないかな?」
「うん、お願いするよ。宏明さんの家の出汁とは違って、濃くなった時を狙わなくても構わないのは楽だね」
「ここまで濃いと多少の差は気にする必要ないってのは助かるよ」
言いながら、宏明は鰹出汁を濾していく。
鰹出汁ができたので、ここからはかえしと味醂を合わせての汁取りとなる。
三人がそれぞれ丼を持って味の調整に入った。
「――うん、できたよ」
数回ほど丼にかえしと味醂を入れた後、お藤が大きく頷いた。
「えっ? 早すぎじゃない、お姉ちゃん?」
「ここ何日かの習練でなんとなくコツをつかめていたからね。それに、今日の汁はよく知っている味に近いわけだし」
彼女が、今度は鍋にかえしと味醂を入れていく。
「はい、お梅と宏明さんも味見してみて」
「うわあ、本当にお姉ちゃんが汁を作り上げちゃったよ。でも、お父ちゃんやシカお兄ちゃんの汁とくらべると、少し味が濃い気がするんだけど?」
味見をしたお梅が驚嘆するが、同時に疑問を持ったようだ。
「ここから二日寝かすわけだから、その間に味が落ち着くんだよ。お梅も二日後の味を思い浮かべて舐めてみなさい。わたしはそうやって味を決めたんだから」
「……明後日の味を思い浮かべろなんて、神様でもない限り無理だよ。かえしを作った時もそうだったけど、難しすぎだってば」
「それを毎日やっているのがそば屋なんだよ」
お藤が妹に言い聞かせる。
「すごいよ、お藤さん。褒めるしかない」
宏明としても、ただただ脱帽するのみだ。
「けど、やっぱり父ちゃんたちの汁とは味が少し違うねえ。醤油を変えちゃったからかな? 明後日の味もきっと変わってくると思う」
お藤が首を小さく傾げた。
「わりと似てはいるんだけど、味が物足りないんだよね。こうなるって分かっていたから、父ちゃんはこの醤油を選ばずに銚子まで行ったのかも」
「俺も同じ意見。ほんのちょっとだけ旨味が少ないかも。これに気付ける人なんてそうそういないとは思うけどね」
しかし、味に通じている客には見抜かれてしまうかもしれない。この汁を売りに出すのは勇気が要る。
「何を弱気なことを言っているの、二人とも。ここまでの汁が出来たんだから、売るに決まっているでしょ!」
「お梅ちゃんの言う通りだね。旦那の汁には及ばないかもしれないけど、これだけの汁を提供できる店が江戸にどれだけあるんだってくらいに良い汁なんだから。――あとは俺が打つそばと、人手か」
ますます焦ってくる。同い年の女の子が汁を作ることに成功したのだ。ここで宏明が足を引っ張りたくはない。タイムリミットは、汁が完成する明後日二十八日である。
「あれ? 誰か店先に来ている?」
戸口から人を呼ぶ声が聞こえてきた。
宏明が台所から出て、応対へ向かう。
「よお、久しぶりだな、宏明」
宏明より少し年長の男性が手をあげて挨拶をしてくる。
「あれ、胡蝶屋さんの? どうしてここに?」
彼は胡蝶屋の若い衆だ。この間、吉原出張した時に色々と手伝ってもらって、顔見知りになっていた。
「まだ店を開いてねえのに、押しかけてすまねえ。商売の話があるんだが、旦那はいらっしゃるかい?」
「旦那は不在なので、ここ数日は長女のお藤さんが代行しています」
「そうかい。じゃあ、娘さんに話を聞いてもらおうか」
若い衆を店の中に招いて、お茶を出す。
宏明とお梅も同席して構わないとのことなので、力屋古橋の三人で胡蝶屋の若い衆の話を聞くことにした。
「てえした話ってわけじゃねえんだが――」
二十八日に飴団子を大量発注したいという話であった。
「うちのお菓子を買ってもらえるなんて、たいした話じゃないかい――たいした話ですよ。でも、胡蝶屋さんの望みには応えられません。飴団子をたくさん作るのはできますが、吉原まで運ぶとなると難しいかと……」
お藤が若い衆に頭を下げる。運ぶ人手が足りないのだ。
「運ぶだけなら、うちの店の連中がやるから気にしなくて構わねえ」
「そこまでしていただけるなら、必ず飴団子を支度します。御内所にお礼をお伝えくださいな」
「御内所も喜ぶと思うぜ。あともう一つ話があるんだが」
「何だい――何でしょう?」
「力屋古橋さんに人手が足りていないと吉原まで風の噂に聞こえてきて、そしたらうちの御内所が若い衆を貸し出したいって言い始めてな」
「――うちとしては、こんなありがたい話はないですけど、本当によろしいのですか?」
「困った時はお互い様って御内所は言っているぜ。この間、古橋さんに助けられたわけだから、その恩返しってこった。なあ、そうだろ?」
ここで若い衆が宏明の顔を見る。
「あの時ってそんなに困っていたんですか? 俺は内情を全く知らなかったわけで」
「そりゃ大困りだったさ。しばらく見世を開けられねえんじゃないかってくらいだったぜ」
筆頭遊女の真菅のわがままが、そこまで影響を与えていたのかもしれない。宏明はそう見当を付けた。
「俺は別にたいしたことをしたつもりはないんですが、ありがたいお話です。噂通りにうちは人手不足なので。でも、胡蝶屋さんは人が足りているんですか?」
「今は少し余り気味だからそんなに気にするな。どうにでもなる」
「なら遠慮なくお借りしようか、お藤さん?」
「うん、ご厚意に甘えさせてもらおう。――ありがとうございます。父が帰ってきたら、必ずお礼に行かせます」
これを聞いて、若い衆がニッと笑った。
「力屋古橋と胡蝶屋がますます仲良くなるんだから、働いている身としてもありがてえぜ。ところで、うちにはそば作りに詳しい奴はいねえが、それで構わねえか? 男だから力仕事くらいはできると思うが」
「その力仕事をできる人が欲しかったんです。明後日二十八日から大晦日まで人をお借りしてよろしいでしょうか?」
「飴団子の日と一緒か。承知した。御内所には伝えておくぜ」
会話している宏明の背中を、お梅が指でつついた。
「ヒロお兄ちゃん、お土産に飴団子を持っていってもらおうよ」
「そうだね。今から作るので少々お待ちください」
お梅と宏明が立ち上がって、台所へ向かう。
その背に若い衆が声をかける。
「そりゃありがてえ。真菅の姐さんも喜ぶぜ」
「あの人に美味しいって言ってもらえたのが、飴団子が売れるきっかけになったわけですから、真菅さんにもお礼を言っておいてください」
「お前さんが吉原に来て伝えればいいじゃねえか。花魁も会いたがっているぜ」
「会うためのお金なんて持っていませんから!」
宏明が全力で断るのとほぼ同時に、お藤が冷え冷えとした口調で言葉を紡ぎ出した。
「……吉原で何をやっていたんだろうねえ? これは後でしっかりと聞き出しておかないと」
「そばとお菓子を出しただけで、他に何もやっていないってば」
そう弁解する宏明の掌を、お梅が強くつねってくる。
「うんうん。あとでじっくりお話を聞かないとね」
お梅がジト目で彼をにらみつける。
「だからね、本当に何もしていないわけで……」
急激に機嫌が悪くなってしまった姉妹からの疑念を晴らし終えるのは、店が開けてからしばらく後までかかることになるのであった。




