第51話 練習成功
十二月二十五日。
「――できた」
丼に口をつけたお藤が呟いた。
「何ができたの、お姉ちゃん?」
「辛さと、甘さと、旨さの真ん中を作り出せた。――つもり」
「つもりってどういうこと? ちゃんと言い切ってよ!」
「まあ、待ちなさい」
お藤が鍋にかえしを入れる。
丼の中に作った汁をお手本として、全く同じ味・同じ色の汁を作っているのだ。交互に味見をしながら鍋の中身の味を丼の味に近づけていく。
「よし。お梅と宏明さんも味を確かめてみて」
完成したようなので、二人は小皿に汁を入れて味見をしてみる。
「――すごい。本当に味のバランスが取れている」
宏明は驚嘆した。売りに出せるレベルの汁を、彼女は本当に作り出してしまったのだ。
「お姉ちゃん、やったね! 汁取りができるようになったんだ!」
「一昨日に宏明さんから教わった、しょっぱい汁にあえてかえしを入れるというのが、思ったよりも役に立ってね。この濃さの出汁なら、毎日上手く作れそうだよ」
「うちの店の出汁でも、ちゃんと作ってね」
「それはやってみないと分からないけど、明日も頑張ってみるよ。さっき新しいかえしの味を見てきたけど、たぶん明日には使えるようになると思うから」
仕込んでいた醤油がとうとう使えるようになるのだ。
(お藤さんは結果を出し始めたけど、俺の方は全く前進できていない……)
宏明の心に焦りが生じる。
そんな彼に気付いていないのか、姉妹は普段の調子で会話を続けている。
「ねえ、お姉ちゃんが作った汁でそばを食べてみようよ」
「気が早いよ。この汁は一晩寝かせて、湯煎して、もう一晩寝かせてからやっと出来上がりになるんだから」
「そういえばそうだっけ。汁作りって長くかかるんだよね。もっと手早く作れたらいいのに。――ってお姉ちゃん、今日作った鰹出汁を全部汁にしちゃったの? 少しくらい残しといてよ!」
「上手く汁が出来たんだから、別に構わないでしょ?」
「出汁が残っていたら、ヒロお兄ちゃんが美味しいおかずを作ってくれるのに」
宏明がこの家に寝泊まりしてから毎日、彼は出汁とかえしを使って簡単な煮物や焼き物を調理していた。
「まさかと思うけど、お姉ちゃんはわざと鰹出汁を使い切ったりしてない?」
「そ、そんなことするわけないでしょ。宏明さんの料理を食べて屈辱に打ちひしがれたくないから、出汁を残したくなかったなんて、全く思っていないからね」
「語るに落ちるってのは、まさにこのことだよ! とんでもなく後ろ向きな考えをしていたんだね、この姉。悔しかったら、ヒロお兄ちゃんに師事するなりして腕を磨けばいいでしょ!」
「うるさいうるさい! 毎日のように心をくじかれる身にもなってみなさい!」
思わぬ方向で姉妹喧嘩が始まってしまった。
宏明としては、良かれと思って調理していたのだが。
「……俺が料理していたのは迷惑だったかな?」
「迷惑だなんてとんでもない! お姉ちゃんがバカなだけなんだから、ヒロお兄ちゃんは気にしないで!」
「誰がバカだって? いつもながら口が悪いね、このおちゃぴいは!」
「バカをバカと言って何が悪いの! ――とにかく、お兄ちゃんは毎日料理して。できれば、お父ちゃんが帰ってきた後もずっと」
お梅が懇願するような瞳で宏明を見つめる。
「店が本格的に動きだしたら難しいと思うよ。人手がギリギリの状況なんだし」
「うっ……。確かに、ヒロお兄ちゃんが料理する暇なんてないよね……」
新しい働き手を探してはいるのだが、未だに見つかっていない。
「先のことはさておき、今日ヒロお兄ちゃんの料理が食べられないのは辛いよ。あたしにとって毎日の楽しみになっているんだし」
「出汁は使い切っているけど、お藤さんが今さっき作ったばかりの汁を使って料理はできるよ。ただ、作っちゃって良いのかな?」
現代でも、市販のめんつゆを使ったレシピがたくさん公開されている。そば屋の場合、さらに濃厚なものを持っているのだ。完成したばかりで寝かしていない汁でも、市販のものに負けることはないだろう。
たとえば、薄めた辛汁で鶏肉とネギを煮込んで、卵とじをする。これをご飯に乗せたら親子丼になる。
問題は姉妹の感情だけだ。
「作って構わないよ! お姉ちゃんの言うことなんか無視しちゃって!」
「宏明さんの料理は美味しいから楽しみなのは確かなんだけど、わたしの女としての立場がね……」
「お姉ちゃんは黙ってて! ヒロお兄ちゃん、今日のおかずも楽しみにしているからね!」
「料理人じゃない男の人でここまで料理が上手ってのが、そもそもおかしいんだってば! 宏明さんの実家はそば屋なんかじゃなくて、お殿様に仕える料理人の家柄なんでしょ?」
お藤からの矛先が宏明の方に向いてきた。
「えぇ……。お藤さんからも出自を疑われることになるとは思わなかったよ。じゃあ、俺がそばのことを色々とできるのはどうしてなの?」
「料理の片手間でそばを打っているとか?」
「片手間でそばを作れるなら、江戸の料理茶屋はそばを提供しているよ。そば打ちがそんなに容易なものじゃないって、お藤さんもよく知っているでしょ」
「あぅ……。そば屋の子がこんなに料理できるなんてズルい……」
ネガティブな思考に染まってしまったお藤をなだめ終わるのは、店の開店時間までかかってしまうのであった。




