第50話 木鉢三年、のし三月、包丁三日
十二月二十四日。
二十一世紀ではクリスマスイブの日だが、江戸の町で祝うことはあり得ない。キリスト教が禁じられているのだから。そもそも旧暦だから日取りも違ってくるわけだが。
異教のお祭りを行わない代わりに、江戸の町は煤払いの日の翌日以降ずっとお正月を迎える支度に追われている。
町のあちこちから、餅つきの音がしきりに響き渡るのが江戸の年末風景である。
そんな江戸の町でも、正月準備とは全く縁がない人たちもいる。
たとえば力屋古橋の面々だ。
「だあ! またずる玉だ!」
宏明が叫びながら、のし台に突っ伏した。
今日も今日とてそばの修行である。正月の支度に費やす時間もお金も力屋古橋にはないのだ。
「ずる玉ってことは、水回しがダメなんだよね?」
「その通りだよ、お梅ちゃん。何をどうしたら良いのやら……」
目で見た様子と指先で感じた手触りでそば粉の状況を判断しているのだが、水を減らしてみると粉がきれいにまとまってくれないし、そこからほんの少し水を加えると一つの塊にはなってくれるもののずる玉になってしまう。
「最適な水加減にするのに、あとちょっと水を減らせってことなんだろうけど、その感覚が全然つかめない……」
先が見えない闇の中を進んでいるような気分だ。打開する手段が全く思いつかない。
「お姉ちゃん、ヒロお兄ちゃんに何か助言してあげてよ」
「何も言うことはないよ」
「――ちょっと、それって冷たくない? ヒロお兄ちゃんは店のために頑張ってくれているんだよ」
「見放しているとかそういうわけじゃなくて、助言なんて一切無用ってこと」
「どういうこと?」
「わたしが見るに、宏明さんはほとんどできているから」
「え? そうなの?」
お梅が姉の言葉に驚く。
「水回しで全てのそば粉の色が変わるまできっちり混ぜているし、文句を付けられないよ。どう見ても、父ちゃんや鹿兵衛兄さんの木鉢とほとんど一緒」
「じゃあ、何が悪いの?」
「水回しだね」
「お姉ちゃん、言っていることが違うよ!」
「何かがおかしいんだろうけど、それが何なのか皆目見当が付かないんだよねえ」
「水回しの他に変なところは見受けられないかな?」
「くくりの時、そば粉にツヤが足りていないね」
「そこだよ! 初めに教えてってば!」
「ツヤがきちんと出ていないのは、ずる玉だってことだから、結局は水回しが悪いってことなんだよ」
「えー、やっぱり水回しなの?」
お藤からの指摘事項は、宏明も重々承知している。最初の水回しで失敗しているから、後の工程まで悪影響が続いてしまっているのだ。
分かってはいるのだが、対処方法が思いつかない。
「さっきも言ったけど、宏明さんはほとんどできているわけだから、近いうちに水回しも体得すると思うよ」
「近いうちってどのくらい?」
「明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、一年後かもしれない」
「幅が広すぎるよ!」
「『木鉢三年、のし三月、包丁三日』って言われるくらいに、木鉢作業ってのは難しいからねえ。宏明さんが到達できるのがいつなのか、はっきり言い切るのは無理」
「ヒロお兄ちゃん次第ってこと?」
「二つの瞳と十本の指先で、正しい水加減を見極めるしかないんだよ。宏明さんは既に分かっていると思うけど」
話を振られたので、宏明は頷き返す。
「うん、なんとか数日中にできるようになってみせるよ」
残り日数は少ない。やるしかないのだ。
「ちなみに、汁取りは『一生の修行』って言われているわけだから、お梅がわたしに甘いものを差し入れしてくれてもバチは当たらないと思うよ?」
「ヒロお兄ちゃんが何か作ってくれるでしょ」
「俺かよ! まあいいか。気分転換がてらに何か考えておくよ。江戸の事情で作れるものがあるかどうか分からないけど」
「美味しかったら売りに出そうね」
「結局は金儲けに結びつけるのか!」
何だかんだと、お梅に操られているような気になる宏明であった。
現代における手打ちそばの定義です。
「木鉢作業」「のし作業」「包丁作業」のうち、「のし」と「包丁」を手作業でおこなわれたそばが「手打ちそば」と名乗ってよいとされています。「木鉢」に関しては、人の手でも機械でもどちらでも構いません。
東京の老舗そば屋や、名店と呼ばれるそば屋の多くは「木鉢」だけは手作業で行い、「のし」と「包丁」を機械任せにしているようです。全てを手作業でやっているお店は、現代では少数派とのこと。
サブタイトルの「木鉢三年うんぬん」と似た口伝に、「一鉢、二伸し、三包丁」というものがあります。そばの良否を決めるのは、「木鉢」が第一で「のし」「包丁」が続くという意味だそうです。
というわけで、どうしても「木鉢」だけは機械に任せられないようです。
これを踏まえると、「のし」と「包丁」だけをやっていれば手打ちと名乗れる現代日本の基準は、少しずれているのかもしれません。




