第48話 のし作業と包丁作業
十二月二十二日。
今日も早朝から宏明がそば打ちの練習をしている。
昨日の朝は大失敗。夕方以降の練習ではマシになったものの、やはり失敗に終わっている。
(よし!)
今朝の水回しは満足できる仕上がりになった。そば粉がソラマメほどの大きさの粒に育っている。昨日の朝とは違って手にベタついたりはしない。
ここで、宏明は体を前に傾けて体重が両掌にかかるようにし、そば粉を寄せ始めた。「くくり」作業である。力一杯練り上げ、そば粉を一つにしていくのである。
(小麦粉が入っていないから、粉がくっつきにくい)
それでもどんどん大きな塊が形成されていく。
一つの塊になったら、ツヤが出てくるまで練る。そして、キズや穴が一切ないきれいな球体を形成し、水滴型にする。
「上手くできたんじゃないの、これ」
最後に、水滴型の塊を押しつぶして円盤形にしながら、宏明は自賛した。
「お父ちゃんとか、シカお兄ちゃんが作るのと同じようになっているよ。やったね、ヒロお兄ちゃん」
隣で見ていたお梅も賞賛する。
これで木鉢作業は終了で、次はのし作業に入る。
宏明はのし台にそばの生地を置き、のし棒で軽く伸ばしていく。ある程度の大きさになったら、台と生地に打ち粉をまぶす。
ここから本格的に生地を薄く伸ばすのだ。
「……嘘だろ?」
生地を四角形に拡げようと、のし棒を転がし始めてからすぐ、宏明は声を上げた。
「どうしたの、ヒロお兄ちゃん?」
「ずる玉だ。どういうことなの?」
生地がのし棒にくっついてしまっているのだ。先ほどの木鉢作業で、実は水を入れすぎていたことが、ここで判明した。のし棒で伸ばされたことで、そば粉に含まれていた余分な水分がにじみ出てきたのである。
「今のでダメなのかよ? 信じられねえ……」
彼としては相当に自信があっただけに落胆が大きい。
「今朝のエサも失敗作だ。野良猫の親子に申し訳ない」
言いながら、生地に打ち粉をまぶしていく。
「あれ? まだ続けるの?」
「ずる玉でも、打ち粉を多く振るとくっつかずに伸ばせるからね。失敗作とはいえ、のし作業や包丁作業の練習をしておきたい」
言いながら、生地を伸ばしていく。宏明の体感では、小麦粉を混ぜた生地と生粉打ちの生地を比較すると、後者の方が破れやすく感じる。適度な力加減を体得しておかなければならない。
厚さ一・五ミリメートルほどまで伸ばしたら、今度は生地を折りたたんでいく。
「ヒロお兄ちゃん、手慣れているね」
「江戸では毎日練習できているから、慣れてないとヤバいよ」
「八王子じゃやっていなかったの?」
「忙しくて毎日やる時間も気力もなかったね」
学校、部活、学習塾。日々の生活に追われていたのだ。そばの技術向上ということだけなら、江戸で暮らしていた方が良い。それが正しいかどうかはさておき。
「最後は包丁っと」
折りたたんだ生地を包丁で切っていく。これがそば打ちの最終工程となる。
「ずいぶんと慎重に切っているね。ヒロお兄ちゃん」
「この店の切り方は一寸(およそ三・〇三センチメートル)あたり二十四本だからね。俺はずっと実家の二十三本で練習していたから、二十四本の感覚をまだつかめていないんだよ」
「一本しか変わらないけど、そんなに違うの?」
「かなり違うように感じるね。二十三本でも『こんなに細く切っていいの?』って思うくらいなのに、それより細く切るわけだから」
二十三本で切るのが江戸そばの御定法だ。もちろん、これより細いそば太いそばを出す店もあるわけだが。
ちなみに、二十三本で切ると幅がおよそ一・三ミリメートル。のし作業で伸ばした厚さが一・五ミリメートルだから、手打ちそばの麺の断面は長方形になる。
のし棒で伸ばすよりも、包丁で切る方がそばを細くするのが楽だからこういう作り方をしている。本来は正方形の方が良いとされているのに、長方形のそばを作っているのは江戸のそば職人の不精なのだ。
機械製麺ならきちんと正方形のそばが作られるので、この観点から見ると手打ちそばよりも機械打ちのそばの方が正当だと言える。
「取りあえず、同じ細さに切れたかな?」
切り終わったそばを確認して、宏明は一応満足した。あくまで一応である。ずる玉なわけだから。
「早速茹でて、野良猫たちにあげてくるよ。野良連中ならずる玉でも食べてくれるはず」
「ずる玉ってそんなにダメなものなの?」
「うん。本当にダメなんだよ、お梅ちゃん。まず、いつも通りの火力で茹でられない。縮れ麺になっちゃうから。釜前さんが気を利かして火を強くしてくれたら真っ直ぐに茹であがるけど、結局は水っぽいわ、角が煮崩れしちゃうわで美味しくない。ずる玉でも構わず客に出している店もあると思うけど、力屋古橋だとあり得ないよね。ずる玉なんか打った日にゃ、釜の中に叩き込まれちゃうし」
「水回しでしくじったら、ずっと引きずっちゃうんだね」
「その通り。結局は木鉢なんだよね……」
現代の東京のそば屋で機械打ちのそばを提供している店でも、木鉢作業だけは人間が担当しているという店が多数ある。そのくらいに木鉢というのは繊細で難しいのだ。
「とにかく、数をこなして上手くなってみせるよ」
そばを茹でながら、宏明は宣言するのであった。




