第4話 江戸のそば屋③
お梅の言葉が終わらぬうちに、痩身の中年男性が店に入ってきた。年齢は四十歳くらいだ。
「帰ぇったぞ」
「父ちゃん、どうして昼間から酔っ払っているんだい!」
お藤が中年男に詰め寄った。男の顔は真っ赤で、羽織はだらしなく着崩れしている。
「近所の集まりに顔を出したら、酒が出てきてな。まあ、たいして飲んでねえよ」
「ったく、もうすぐ看板を出すってのに……」
ため息をつきながらお藤が首を振る。
(この人がそば名人の松三郎さん?)
宏明が呆気にとられた。相当な腕前のそば職人のはずなのだが、まさか店を開く前から酒を飲むような人だとは予想外だ。
「ところで、こいつは誰でい? 何だってうちの半纏を着てやがる?」
松三郎がうさんくさそうな目で宏明をにらんだ。背丈は一六五センチ程度。この時代の男性としては背が高い方だ。
「えっと、信じてもらえないかもしれませんが、俺は……」
宏明は自分のことを説明した。さっき、姉妹に話した内容と同一の話だ。
「――ああん? なんだそりゃ? 八王子から江戸に飛ばされただと?」
全部聞き終えた松三郎だが、全く信じる様子がない。
「天狗にさらわれたかもしれないということで……」
「何が天狗だぁ? デタラメ抜かしてうちの店に居着く腹づもりだろ。その手は桑名の焼きハマグリって奴よ」
「……はい? ハマグリ?」
松三郎の言葉の意味が宏明には全く分からない。
「その手は食わないってことだよ」
横からお藤がそっと教えてくれた。
「江戸の言い回しって難しすぎでしょ……」
「なんでい、江戸の言葉も知らねえのか? そんな田舎者には用がねえんだよ。とっとと故郷に帰ぇれ帰ぇれ」
松三郎が出て行けと手を振った。
そんな父親に、お藤が眉を上げて詰め寄る。
「父ちゃん、何を言っているんだい! うちで働いてくれる人がやっと来てくれたんだよ! それなのにどうして追い払おうとするのさ!」
「うるせえ! ここはオレの店だ! オレが好きに決めて何が悪い!」
「宏明さんの何が気に食わないんだい!」
「何がって、全てに決まってんだろ、べらぼうめ!」
二人の口論を横で聞いていたお梅が呆れたように首を横に振った。
「あー、そういうことね。お父ちゃんが大きな勘違いをしているみたい」
そう言って、父親の肩にポンと手を置く。
「お姉ちゃんが急に男を連れてきたもんだから、お父ちゃんは驚いているんだね」
「バ、バカなことをぬかすんじゃあねえ! オレはそんなケツの穴が狭えことは言わねえよ」
「年頃の娘が心配なのは分かるけど、うちのお姉ちゃんに限ってそういうのはないから気にしなくても――。イタっ!」
得意げに話しているお梅の頭をお藤が叩いた。
「ったく、この子は要らないことをペラペラと。――父ちゃん、つまらないことに気を回さなくて良いから、宏明さんを雇おうよ」
「そんなんじゃねえって言ってるだろうが。そもそもの話。無宿人をどうやって雇うってんだ? お上に目ぇ付けられてとっ捕まっちまうだろうよ」
そうなのである。宏明の身分という根本的な問題が解決していないのだ。松三郎を説得したところで働くのは不可能だ。
「フッフッフッ。あたし思いついちゃった」
お梅が自信満々な顔で笑う。
「親分に話を持って行こうよ。あの人って人別帳(現代でいう戸籍)を偽って無宿人を引き受けているんでしょ? ――イタっ!」
妹の頭をお藤が再び叩いた。
「そんなことを大声で言うんじゃないよ!」
「頭を叩かないでってばぁ!」
姉妹が言い合い始めたが、宏明としてはどうしても質問しておきたい。
「……あのぉ、親分って?」
あまりにも不穏な単語だ。
「お梅ちゃん、それって岡っ引きの親分さん? それとも博徒の親分さん? どっちにしろヤバそうなんだけど……」
「違うよ。『やどや』の親分だよ」
「ああ、口入れ屋さんね」
口入れ屋とは、二十一世紀風に言えば人材派遣会社のことだ。宏明の祖父も古風に「やどや」と呼んでいたので理解ができた。
「ああん? わざわざ親分の所まで行けってか? もうすぐ店を開けるってのに、そんな暇はねえよ」
松三郎が否定するが、お梅は構わずに言葉を続ける。
「さっき、すぐそこで親分に会ったんだよね。明神様へお参りに来たんだって。今から行けば会えるはずだよ」
「……どうしておめえはありがたくねえことばかりばかり思いつくかな。ったく」
「ほら、早く行きなよ。親分が帰っちゃうよ」
「うるせえ! オレはこいつを雇うなんて一言も口にしていないぞ」
「いい加減にしてよ! 人手が足りないまま店を潰すつもりなの? そんなことしたら、お母ちゃんがあの世から怒鳴り込んでくるよ!」
「ああもう! 口やかましいのは母親そっくりだな! どうして要らねえところが似ちまったんだよ! ――お、おわあ!」
娘と口論をしていた松三郎が急に慌てた声を上げた。
今までおとなしくしていたシロが急に彼の肩へ飛び乗ったのだ。
「何だ? いきなり何をしやがる?」
「ニャアァァ!」
「うるせえ! 耳元で大声出すんじゃねえ!」
松三郎が大きく身体を動かしたので、シロはピョンと地面に飛び降りた。そして、もう一度彼に向かって大きく鳴く。
「ほら、早く親分のところへ行けってシロも言っているよ」
猫の鳴き声をお梅が都合良く解釈した。
「シロの方がお父ちゃんよりも店のことを考えてくれているんだね。よしよし」
「会いに行けばいいんだろ! 会いに行けば! 確かに店を潰すわけにはいかねえからな! 天狗、おめえも一緒に来い!」
松三郎が宏明を手招きした。
「て、天狗?」
呼ばれた方としてはさすがに戸惑う。
「俺はどっちかと言えば、天狗様にさらわれたポジションで……」
「べらんめえ、細けえことを言うな!」
松三郎が先に店から出て行ってしまった。宏明も慌てて追いかけようとする。
「ちょいと、宏明さん」
歩き出そうとした彼の袖を、お藤が軽く引いた。
「お梅はああ言ったけど、やどやに頼むのはやめといた方がいいかもしれないよ」
「え? それってどういうこと?」
「どうにか路銀を工面して八王子に帰った方が……」
彼女の話は途中で切れてしまった。松三郎が外から怒鳴ったからだ
「おい天狗、モタモタするんじゃねえ! 江戸っ子ってのは気が短えんだ!」
「はあい、今すぐに行きます!」
お藤の言葉が気になったが、宏明は続きを聞くのを諦めて早足で店の外へ出て行った。