第46話 出汁を引く前に
宏明がそば打ちに失敗してから少し経って、力屋古橋では朝食の時間になった。
今朝の献立は、ご飯と豆腐の味噌汁と沢庵。江戸時代の標準的な食事である。
未来人の宏明としては少々物足りないが、久しぶりの炊きたてのご飯ということで、かなりありがたい。なにせ、自宅では米を一切炊かずに自作のそばを食べているし、力屋古橋で出るまかない飯はお茶漬けか冷たいおにぎりだったからだ。
「お藤さんとお梅ちゃんに相談があるんだけど」
食事をしながら、宏明が切り出した。
「なあに、ヒロお兄ちゃん?」
「この後、汁取りの練習をすると思うけど、鰹出汁はどうしようかなと」
「いつも通りに作ればいいんじゃない?」
「そうすると、単なる練習なのにたくさんの出汁を引く羽目になるんだよね。余りは捨てることになるから、鰹節と水と薪の無駄になっちゃう」
これを聞いて、お梅の顔が引きつった。
「そんなのダメだからね!」
「一回くらいなら自分で料理に使ったりご近所にお裾分けしたりで、捨てなくても平気かもしれないけど、毎日続くとなるとね。俺としても、もったいないって気持ちが強いかな」
今度はお藤の方の顔が引きつっていく。
「――宏明さん、ひょっとしてお菓子だけじゃなくて、おかずも作れるの?」
「簡単なやつしか作れないよ。ただ、そば屋って鰹出汁とかえしが常にあるから、色々な料理を作りやすいよね。これだけは他の商売とくらべて恵まれているかなと」
「ああ、やっぱり宏明さんは料理できるんだ……」
お藤が絶望的な表情で呟く。
そんな姉を横目にお梅が決意を秘めたような顔になる。
「――あたしはちゃんと料理修業しておこう」
「そば屋は包丁が立たないって昔から言われているし、そば屋の手伝いをしている娘さんなら料理が苦手でも大目に見てもらえるんじゃないのかな?」
「あのね、ヒロお兄ちゃん。そば屋云々で見逃してもらえるほど世間様の目は甘くないよ。毎日作るかどうかは別として、料理はできた方が良いんだから」
「そうなんだ。江戸の女性は大変なんだね」
「八王子の女って料理下手も許されるの?」
「昔ならいざ知らず、今はそこまで言われないと思うけど、実際のところはどうなんだろ? 大人にならないと分からない事情かな」
「ひょっとして、八王子って女が料理しないで、男が料理するのかな?」
「夫婦で家事を分担かな。今時、家事は女の仕事だなんて言ったら炎上しちゃいそう」
「そんな些細なことで家を燃やすの? 江戸だと重罪だよ!」
「――炎上って本来そういう意味だったね。なんかゴメン」
盛大な勘違いをさせてしまったようである。
「話を戻すけど、練習用の鰹出汁はどうしようか。お梅ちゃんたちの意見をちょうだい」
「もちろん、たくさん作るのはナシだよ。少なめに作ろう、ヒロお兄ちゃん」
「少なく作ると店の味ではなくなっちゃうけど、それで構わないかな?」
「どうして?」
「力屋古橋の出汁は一刻(およそ二時間)ほど煮込んで作るわけだから、量を少なく作ろうとすると水が全部飛んじゃう」
「煮込むのを短くしたら、水は残るよ」
「それだと出汁が薄くなっちゃう」
「薄くても構わないんじゃないの?」
「練習用って割り切るなら構わないけど、店の味とは別物になっちゃうよ。いつもと違う味で練習するか、それとも普段通りの店の味で練習したいのか、これを二人に尋ねたい」
「出汁って味を足すだけでしょ。だったら、ちょっとくらい薄くても平気なはずだよ」
こう言うお梅からだけでなく、続いてお藤からも疑問の声が上がってくる。
「薄い出汁の何が悪いんだい? あまりに薄すぎるのは困るけど、少しくらいならそう味は変わらないと思うけど」
「お藤さんも知らないんだ」
「父ちゃんもそこまで出汁の濃い薄いに頓着しなかったし」
「そりゃ力屋古橋のやり方なら多少は――。そっか、二人は他の店の作り方を知らないから、そういう考えになるのか」
昔のそば屋は自分の店の調理方法を隠していた。企業秘密だったのだ。
この流れが変わるのは第二次世界大戦後である。老舗そば屋同士の交流が始まり、各々の店のレシピを公開し始めたのだ。結果、二十一世紀では紙の本で読むこともできるし、インターネットで閲覧することも可能となっている。
現代人の宏明と、近世人のお藤とお梅の間に知識量の差があるのは仕方がない。
そして、この公開されている伝統的製法の正しさは、科学者によって論理的に証明されている。
「どう説明したものか……。そば汁があれば一番分かりやすいんだけど、無い物ねだりだよな」
考えながら宏明は台所へ向かった。そして塩水を作って、二枚の小皿に入れる。それとは別の小皿を二枚準備して、こちらには醤油を注ぐ。
「お待たせ。塩水と醤油を順になめてみて。どっちが塩が多く入っていると思う?」
「――明らかに塩水の方がしょっぱいよ。こっちでしょ」
お梅が顔をしかめながら答え、その隣でお藤が頷く。
「残念。塩がたくさん入っているのは、醤油の方なんだよね」
「え? 嘘でしょ?」
「天地神明に誓って本当の話」
宏明は塩分濃度十パーセント程度の塩水を作った。醤油の方はその二倍前後の濃度だろう。
「醤油の中のアミノ酸――言い換えると何になるんだ? えっと、旨味の成分が舌に塩気を感じなくさせなくしているんだよ。『塩なれ』って呼ばれる効果だね」
不思議そうな顔をしている姉妹に、説明を続けていく。
「二人とも、かえしの味を覚えているよね? ――良かった。持ってくる手間が省けた。かえしにも塩辛さがあるでしょ。醤油の時よりはかなり弱くなっているけど、まだ残っている」
宏明の言葉に、彼女たちはそろって頷いた。
「次に店の辛汁を思い出して。塩気なんて全く感じないよね。汁の中にも塩が入っているはずなのに」
姉妹が再び頷く。
「出汁の旨味成分にも塩なれ効果があるから、塩を感じさせないそば汁を作ることができる。で、この塩なれなんだけど、出汁が濃ければ濃いほど力が強くなるんだ。汁に鰹出汁を入れるのは旨味を付け足すってだけじゃなくて、塩なれの力も欲しいからだったりするわけ」
「ということは、薄い出汁を使ったらそば汁に塩気が残るってこと? そんなの許されないよ」
「お藤さん正解。薄い鰹出汁にいつも通りの量のかえしを入れたら、塩気が残っちゃう。塩を感じさせないようにするには、かえしを減らす必要があるよ」
「かえしの量が減るとなると、全く別のそば汁になっちゃうよ。店の味と違ってくるってそういうことだったんだね……」
お藤が納得してくれたようだ。
「じゃあ、すっごく濃い出汁を引いたら、かえしをたくさん使えるってことなんだよね、ヒロお兄ちゃん?」
「それはそれで店の味が変わっちゃうよ。自分の店の味に合った鰹出汁を用意しないとダメ」
「――なるほど、お父ちゃんも色々と考えていたんだ」
「力屋古橋くらいにとんでもなく濃い出汁を引いているのは、江戸には存在しないかもしれないよ。ちなみに俺の実家だと、四十分間――えっと四半刻(およそ三十分)とちょっとしか煮詰めないから、ここより相当に薄い出汁だね」
「そんなに短い間しか煮詰めない出汁で、どのくらいのかえしを入れられるんだい?」
少し驚いた顔になったお藤が質問をする。
「出汁三杯に対して、かえしが一杯。それが実家の辛汁」
「すごく少ないじゃない。うちは出汁が十で、かえしが八だよ。八王子だとそんなに薄い汁が許されるの?」
「観桜庵の辛汁がうちの実家と同じくらいの割合だと思うから、江戸でも珍しくないんじゃない?」
「――うちが濃いだけなんだね。これが井の中の蛙ってやつかい」
「というわけで、改めて二人に質問。汁取りの練習をするのに、普段通りの鰹出汁を引くのか、それとも薄い出汁でやるのか」
宏明のこの言葉で、姉妹は顔を見合わせた。
「汁のことは任せたわけだし、お姉ちゃんが好きなようにやるべきだと思うよ。できれば鰹節と薪の無駄遣いはやめて欲しいけど」
本音がだだ漏れである。
「……そうだね。あんまり無駄遣いできる立場じゃないし、習練は薄い出汁でやるよ。上手くできるようになれたら、父ちゃんのやり方で出汁を引くということで」
お藤が決断したので、当面の方向性が定まった。
「朝ご飯の片付けが終わったら、早速出汁を引こうか。どうせ練習だし、俺の実家の作り方で構わないよね?」
「ちょっと待って、ヒロお兄ちゃん」
お梅が制止した。
「何か問題あったかな?」
「その前に湯屋へ行かせて」
「あ、そうか――」
配慮が欠けていたことを反省する宏明であった。




