第45話 生粉打ち挑戦
「おはよう、ヒロお兄ちゃん! ――どうしたの? すごく眠そうだけど?」
翌朝。心配そうな顔でお梅が宏明を覗き込んだ。
「お梅ちゃん、おはよう。猫の足音で何度も起こされてね。これは予想外だったよ……」
夜中に猫たちが家の中を歩き回ってくれたのだ。しかも木造住宅ということで、足音がやたらと大きく響く。
宏明の長屋と比較したら圧倒的に快適な住まいなのだが、思わぬ落とし穴があった。
「そういうことね。そのうち慣れるよ。あたしもお姉ちゃんもほとんど気にならずに眠れるし」
「俺も早くその境地に達しないと」
身支度を手早く終えて、台所に向かうと既にお藤が飯炊きを始めていた。
「おはよう、お藤さん」
「あら、宏明さん。すごい顔をしているけど、寝れなかったの?」
お藤にも指摘されてしまった。
「そんなに酷い顔しているかな?」
「それはもう、倒れちゃうんじゃないかってくらいに見えるよ」
「どこかで手が空いた時に休むよ」
倒れてしまったらもっと心配をかけてしまう。
「おはよう、ミケ、トラ、シロ。お前たちも早起きだな。夜中にうろうろしていたわりに」
三匹の猫は竈の近くで身を寄せ合っている。家の中で今現在最も暖かいのはここだから集まっているのだろう。
人間の宏明としても、台所の中が暖かくてホッとしているわけだし。
「お藤さん、そば打ちの練習しても構わないかな?」
「好きにやってくれて構わないよ。粉は昨日のがまだ残っているから」
店主代理の許可をもらったので木鉢台の前に向かった。
まずは何も入っていない木鉢に両手を入れて具合を確かめてみる。
(高さが少々低いけど、問題なくそば打ちできるかな?)
松三郎や鹿兵衛に合わせた高さなのだろうが、宏明の身長でも大丈夫そうである。
次にそば粉の確認をする。
(俺が練習で使っている安物とは全然違う。適度に湿り気のある良いそば粉だ)
江戸のそば屋では、基本的に脱穀されたそばの実をそのまま購入して、必要な粉の量を臼屋に頼んで毎日挽いてもらう。要するに自家製粉で、常に挽き立てのそば粉が店に置いてある。そばの実を粉にしてから三日くらいは挽き立てなのだから、一日前のそば粉であっても上々なのだ。
ちなみに、自家製粉をしているのは力屋古橋みたいな小さな店の話で、大店は粉の状態で仕入れる。使用量が多いので、自家製粉では間に合わないのだ。
(湿り気はあるけど、粒子が粗いな。これは安物と同じか)
このあたりは江戸時代の製粉技術によるものだろう。現代とは雲泥の差があるのだ。ともあれ、宏明はこの粉を使って、小麦粉を混ぜるそば打ちよりも難易度が高い生粉打ちをしなければならない。
「打つ前に、お藤さんに聞いておきたいんだけど、どのくらいの水を入れるか目安ってあるかな?」
「今は冬場だから、そば粉一升(およそ一・八リットル)に対して、卵水二合二勺(およそ〇・四リットル)くらいだね」
そば粉一升の重量はほぼ一キログラム。水の重量は四百グラム。加水量四十パーセントということだ。
宏明の知識では、生粉打ちでの加水量は三十七パーセントから三十八パーセントくらいである。これはそばの実を冷温貯蔵できる現代での数値であって、常温保存の江戸では違ってくるのだろう。秋に収穫されたそばの実の水分が若干減っていると思われる。
加水量が変わる要因は季節や保存状態によるものだけではない。その日の天候でも変わってくる。つまり、打ってみないと適切な加水率は分からないのだ。数値化できないカン・コツの世界なので、己の感覚だけが唯一の頼りとなる。未来知識なんてたいした助けにもならないだろう。
(やるっきゃないんだ)
宏明は覚悟を決めて、そば打ちを始めた。
木鉢の中にそば粉を入れ、右手に持った柄杓で卵水をゆっくりと全体に振りかけていく。同時に左手で素早くかき回す。
柄杓に入った水の三分の二程度を注いだ後、柄杓を横に置いて両手でかき回し始めた。
そば粉の一粒一粒に水分を与える「水回し」の作業だ。ここで水分を持たないそば粉を残してしまうと、そこから切れて短いそばになってしまう。
(旦那も鹿兵衛さんもうちの親父より手を早く動かしていた。木鉢作業は粉が乾く前に終わらせないといけないわけだけど、江戸のそば粉は現代より水分が少ないから、より急がないといけないんだろうな。小麦粉を混ぜるなら親父くらいの速度でもつながるって長屋での練習で知っているけど、この店は生粉打ちだからのんびりやるのは許されないはず)
二人の動きを思い出しながら、可能な限り両手を速く動かしてそば粉をかき回していく。大きな塊ができたらすぐに崩して、塊の中に入っている粉にも水を与えていく。
(よし、木鉢の中のそば粉にだいたい色が付いた)
最初の作業は成功した。木鉢の中では、そば粉全体がくっつき合って粟粒くらいの大きさになっている。
ここから次の段階に進む。柄杓に残された水の三分の二を、先ほどと同じように木鉢の中に振りかけていく。
そして、再びかき回して、まだ色が変わっていない粉に水を付ける。
(結構いい感じになってきた。一発で成功するんじゃね?)
全ての粉の色が変わったので、少しずつ力を加えながら掌でそば粉を転がし始める。粟粒大のそば粉が、小豆くらいに大きくなり、続いて大豆程度に大きさの塊になる。
ここで指先に水を付けてそば粉に振りかける。この三回目の加水が最終調整になるのだ。ここから転がせば、そば粉は最終的にソラマメほどの大きさに育つ。
そのはずだったのだが……。
「久々にやっちまったぁ! 水を入れすぎた!」
宏明が天を仰いだ。粘ったそば粉が手にくっついているのだ。この時点でそば打ちに失敗したことが確定してしまった。
「野良猫どもの今朝のエサは失敗作だ。きっと食べてくれるだろうけど、ゴメンよ……」
「ヒロお兄ちゃん、水を入れすぎたのなら、そば粉を足せばいいんじゃないの?」
彼の作業を途中から見物していたお梅が問いかける。
「江戸流のそば打ちでは、後から粉を足すのは許されないんだ。『切らず玉』といって、包丁で切る前に捨てるべき生になっちゃう」
「どうして? もったいないじゃない?」
「足したそば粉は水を持てずに乾いたままだから、麺がそこから短く切れちゃうんだよ。江戸のそばが短いなんて許されないでしょ?」
「そんなのありえないよ。田舎のそばじゃあるまいし」
「あと、乾いた粉が麺に練り込まれるわけだから、茹でた後の口当たりも当然粉っぽくなる。だから捨てるしかないんだ。まあ、そば団子とかそばがきとかにはできるけどね」
竈の近くにいる三匹の猫に目をやると、宏明の方なんて全く見ていない。出来が悪いそばなんて興味すらないのだろうか。
「ここの飼い猫、本当に贅沢だな……」
人間としての尊厳を否定されたような気持ちになる宏明であった。




