第44話 かえし作り
夕刻。お菓子の販売を終えて閉店したばかりの力屋古橋に醤油が届いた。
花番さんだけが帰宅して、宏明と姉妹が台所に残っている。
「早速『かえし』を作ろうよ」
開口一番、お梅が姉を急かす。
「いつもの醤油だったらすぐにでも作り始めるんだけど、新しい醤油だからそうはいかないよ」
「どうして?」
「そりゃあ、味が変わっているからね」
言いながら、お藤が醤油を味見をする。
「問屋でも味見したけど、やっぱり少し塩辛いね。今まで使っていた醤油と似てはいるけど」
「塩辛いならどうするの?」
「昔、父ちゃんが醤油を変えた時、砂糖の量を変えて味を調えていた。わたしも同じやり方をする。というか、それしかやり方を知らない」
「砂糖を増やすんだ。どのくらい入れるの?」
「元々は醤油一斗(十八リットル)に対して五斤(三キログラム)の砂糖を入れていたわけだけど、どれだけ増やすかなんて分からないよ。味見をしながら足していくしかないね」
どうやら、方針が決まったようだ。
「じゃあ始めようか、お藤さん。旦那と同じ作り方でやるんだよね?」
「それしか知らないんだから、他を選ぶ余地はないよ」
そばの汁は、醤油・砂糖・鰹出汁・味醂を混ぜ合わせて作るのだが、何も考えずにただ合わせるだけではない。全く同じ材料を、全く同じ分量使ったとしても、作り方を少し変えるだけで大きく異なる味になってしまう。
例えば、かえしを作る際、醤油を火にかけるか否かで味が一変する。前者は「本がえし」と呼ばれて柔らかい丸みのある味になり、後者は「生がえし」と呼ばれる引き締まった辛みを感じる味となる。
そば汁の作成方法は店によって千差万別。店主がどのような製法を選ぶかは、そばとの相性・店の立地・想定する客層等、様々な要因を考慮した経営戦略に基づく。
「じゃあ、瓶に醤油を入れておくよ」
東京のそば屋には「かえし蔵」と呼ばれる、かえしの貯蔵場所がある。戦略上かえしを作らない製法のそば屋には存在しないかもしれないが、あいにく宏明はそういう店の台所に入った事がないので内部構造は分からない。
ともあれ、力屋古橋にはかえし蔵がある。そこには二つの瓶が土の中に九割ほど埋められている。片方は空で、もう片方は使用中のかえしが入っている。
空の方の瓶に宏明は届いた醤油の半分を注ぎ入れた。
力屋古橋の場合、醤油の半分には火を入れずにそのまま使う。残りの半分は火にかけて砂糖を溶かしこむ。そして、両者を混ぜ合わせるのだ。「半生がえし」と呼ばれる手法である。「本がえし」と「生がえし」の長所の両取りを狙っている。
ここで味醂をかえしに入れる店も多いが、古橋のやり方だと味醂は後回しである。
「ただ醤油同士を混ぜ合わせるだけで出来上がりだったら、楽できるんだけどねえ」
砂糖を煮溶かした醤油を瓶の中に注ぎながらお藤が嘆息する。
そして、作ったばかりのかえしと、松三郎が作った古いかえしを順になめた。
「もう少し足そうかね」
砂糖が入っている醤油は全て入れず、微調整用に少し残してある。これを使って味を調えているのだ。
「お姉ちゃん、少しだけじゃ全く足りないよ。今日作ったかえしの方がしょっぱいってば」
お梅も宏明も一緒に味見をしている。お梅が言う通り、新しいかえしの方は、塩気が強く舌に刺さる。
「かえしってのはね、何日か寝かせると味がやわらかくなるんだよ。だから、新しいかえしがしょっぱく感じて当たり前」
「なら、二つの味を較べるのは無駄じゃない?」
「六日後に味がどれだけやわらかくなるのかを思い浮かべながら、かえしを作るんだよ」
「何それ? 難しすぎでしょ」
「だから、汁を作るのは難しいって言ったでしょ。しかも、これなんてほんの序の口だからね」
何度も味を確かめながら、お藤が砂糖入りの醤油を少しずつ足していく。
「こんなものかね。どう思う、宏明さん?」
「俺が口を出しちゃってもいいの? 雇われ人だよ?」
「相談くらいには乗っておくれよ」
「なら答えるけど、俺も良い具合の味になったと思うよ。きっと今までのかえしと似た味になるはず」
「良かった。なら、取りあえずひと仕事片付いたね」
「今日はこの辺りで終わりにしようか。朝から色々とあって二人とも疲れたでしょ? 実は俺も疲れている」
松三郎の失踪が発覚してから、ほとんど休まずに動き続けていたのだ。宏明の体力もそろそろ限界を迎えようとしていた。
姉妹も彼の言葉に頷いた。父親が急にいなくなったという心労もあるのだから、彼女たちの方が疲労しているに違いない。
「じゃあ、また明日」
後片付けを終えてから宏明が帰ろうとすると、お梅が彼の手をつかんで引きとめた。
「ちょっとヒロお兄ちゃん、帰るつもりなの?」
「他に何かやることあったっけ?」
「そうじゃなくてさ。お父ちゃんが留守なんだから、今夜からこの家はあたしとお姉ちゃんだけになっちゃうんだよ」
「そりゃそうだよね」
「だから、お父ちゃんが帰ってくるまで、ヒロお兄ちゃんはここに泊まってよ」
懇願するような顔でお梅が宏明を見上げる。
「ああ、そういうことか」
宏明がやっと話をのみ込めた。
現代日本人の感覚と、江戸時代の人間の感覚に隔たりがあったようだ。
平和な時代が長く続いているとはいえ、江戸の治安は現代日本とは較べようもないくらいに悪い。若い女性だけで夜を過ごすというのは、宏明が想像する以上に恐怖を覚えるのだろう。
「俺が泊まっても構わないかな?」
「わたしからも拝むよ」
お藤に確認してみると、彼女も手を合わせて頭を下げてきた。
二人から許可をもらえたのなら、宏明からすると断る理由はない。
(毎朝家の前に来る野良猫たちには、ここからエサを持って行けばいいか)
せいぜいこのくらいしか心配事がないのだから。
「それじゃあ、数日間この家のお世話になります」




