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第42話 作戦会議

「じゃあ、現時点で抱えている問題点を整理しようか」


 宏明が切り出した。


 お梅が泣き止むのを待ってからの作戦会議である。


「力屋古橋に足りない物は四つ。醤油、汁、そば、あとは働き手の人数」


「――何もかもが足りていないね」


 お藤が遠くを見るような目になる。


「一つずつ話し合っていこう。まずは醤油。今日中に問屋さんへ行って、江戸に在庫がある醤油の中からどれかを分けてもらおう。幸い、俺は少し前に味見をさせてもらっていて、力屋古橋で使っていた醤油に似たものがいくつかあるのを知っているし、他の味も提案ができる。違う醤油問屋さんに置いてある醤油の味は知らないけど、頼んだら味見させてくれるかな?」


「他の醤油問屋はダメだよ。長いお付き合いがあるわけだから。それにいつもの醤油屋さんじゃないと、急ぎで持ってきてくれるかどうかも分からないし」


「なら、お梅ちゃんの言う通り、いつもの問屋さんから醤油を選ぼう。どの醤油にするのかはお梅ちゃんとお藤ちゃんの二人で相談して決めてね。俺は醤油を教えるだけ」


「どうして、ヒロお兄ちゃんじゃダメなの?」


「醤油の味は汁の味に直結するからね。次の汁の話にも関わるけど、汁の味を決めるのは店の旦那の仕事であって、雇われの職人が決めることじゃないからだよ。今は旦那が不在なわけだから、娘さんたちが代理として醤油を選んで」


「じゃあ、ここは長女にお任せだね」


 任された方のお藤は大きくため息をついた。


「先に生まれたってだけなのに、次々と重責を背負わされるねえ……」


「お姉ちゃんの方が向いているから任せるだけだってば」


(ひょっとして、うちの兄貴も見えない苦労をしていたのかな?)


 姉妹のやり取りを見て、宏明は兄のことをふと思い出した。彼自身は次男坊だから家のこととかあまり気にせずにここまで生きてきたが、長男となると様々なことが付いて回るかもしれない。


 未来に帰れたら労ってあげようと心の中で決心した。


「この後、日本橋まで俺とお藤さんの二人で行こう。醤油の次は汁の話だけど、こちらもお藤さんに頑張ってもらうってことで」


「はいよ。何とかマシな味にするよ。はあ……」


「俺もお梅ちゃんも手伝うから、一人で抱え込まないで。で、汁なんだけど、力屋古橋はかえしを作るのに六日、その後に出汁と合わせて二日、合計八日間かけて作るわけだから、新しい醤油が今日中に届いたとしたら、完成は早くとも二十八日だね」


「多少は前後するかもしれないけどね。なにせ初めて使う醤油だから、勝手が分からないし」


「残っているかえしは、練習用に使おう。お藤さんが汁取りの技を早く習得できれば、古いかえしを使って二十八日より前にそばを提供できるかもね」


「わたしとしては、どうやって二十八日までに間に合わせるか思案しているところなんだから、あんまり急かさないでおくれ」


「どういう味にするか考えている?」


「父ちゃんの味にできる限り近づけるよ。わたしもお梅も父ちゃんの味しか知らない。他所の店のそばなんて数えるくらいしか食べたことがないからね」


「汁の味が決まりと。――予想していたけど、やっぱりこうなるよなあ」


 ここで宏明は大きく深呼吸をした。覚悟を決めなければならないのだ。


「三番目のそばの話に移るよ。これは俺が打つってことで。――二十八日までに生粉打ちができるようにならないといけないのか」


 正直な話、全く自信がない。


「さっきも言ったけど、うどん粉を混ぜたそばでも構わないよ。看板の『手打』の字を消せばいいだけだし」


「ダメなんだよ、お梅ちゃん。お藤さんが作る汁を決めちゃったから」


「どういうこと?」


「汁とそばは、相性が合うように作らないといけないんだ。まとめると――」


 とある老舗そば屋の口伝に、「そば粉の含有量が多いほど汁は濃く、当たりはキツく」「小麦粉が増えるにつれて薄く、おだやかに」「そばの色が濃いほど当たりがきつく、白いほど穏やかに」「そばが細いほど汁は濃く、太くなるほど薄く」「あげ出しはきつく、出前はおだやかになっている」とある。(有楽町更科・藤村昇太郎氏)


「力屋古橋の汁もこの考えに合致しているんだよ、お梅ちゃん」


「うちは、『生粉打ち』で、二番粉(一番粉にならなかった胚乳部分や子葉部の粉)・三番粉(甘皮部分の粉)も混ぜる『色が濃いそば』で、『細打ち』で、『水をひと切りしかしないそば』だから、濃くて当たりが強い汁が正しいんだ。お父ちゃんもきちんと考えて作っていたんだね」


「お藤さんが旦那の味に近い汁を作るんだから、俺はそれに合うそばを打たないといけない。小麦粉を混ぜたそばを打ったら、汁が濃すぎて美味しく感じないはずだよ」


「そばって面倒くさい食べ物なんだね……」


「俺もつくづくそう思うよ」


 こんなに面倒なことをしなくとも、そばの実を美味しく食べられる方法は他にもいくつもあるというのに、日本人はどういうわけか麺状にして食べたがるのだ。そのおかげで生計を立てられているのだから、宏明としては文句を言えないが。


「最後の働き手の話だけど、これも大問題だよね」


 ここにいる三人と、あとは新人花番だけしかいないのだ。松三郎の帰りが遅れた場合、到底店を回せない。


「父ちゃんほど顔は広くないけど、あちこち声をかけて働き手を探してみるよ」


「いよいよもって猫の手を借りないといけないかも。猫って人の言葉をある程度分かっているみたいだし、花番の仕事ならできるかもよ?」


「バカなことを言っていないで、お梅も働き手を探してよね」


「色々と難題があるけど、みんなで話し合ってみたら何とかなりそうな気がしてきたよ」


「きっとそれはあんただけ。お梅もわりと楽天家かもね」


 いつも通りの笑顔が戻ってきた妹を見て、お藤が呆れる。


(空元気かな?)


 お梅の様子を見た宏明は、こう感じた。空元気でも周囲を明るくする効果がある。狙ってやっているのなら、末恐ろしい少女である。


 ともあれ、話がまとまったので、宏明とお藤は日本橋の醤油問屋に向かうことにする。


 お梅は店に残って、花番さんが来たら二人で菓子販売をすると決まった。お菓子作りだけならお梅もできるので、彼らが問屋から戻ってくるまで台所は彼女一人で頑張ってもらう。


「みんなで力を合わせれば、きっと上手くことが進むよ。だから、お姉ちゃんもヒロお兄ちゃんも諦めないでね」


 お梅に見送られながら、宏明たちは醤油の買い付けに行くのであった。

出典

藤村和夫『麺類杜氏職必携 そばしょくにんのこころえ』(ハート出版)




【補足】

そば以外の料理やお菓子を売るべきだという感想をいくつかいただきましたので、この場を借りて言い訳を書き連ねます。


現状把握として、力屋古橋の評判はそば屋として長年積み上げてきたものがあります。お菓子もこの一ヶ月ほどで急激に知名度が上がっています。あと、良い酒が置いてあって、サイドメニューのおつまみが上々という評判でしょうか。葛飾北斎のおかげで、店の名は相当に広まっています。


松三郎と鹿兵衛がいなくなったということで、そばの提供が不可能になってしまっているのは本文の通りです。

残された主人公たち三人の料理の腕前ですが、姉妹は湯屋での会話の通りそば関連以外は他人様に売れるようなものを作れません。主人公はそば以外でも簡単な料理は可能ですが、あくまで素人レベルです。頼りになるのは未来知識でしょう。


既存商品の販売量を増やそうとしたり、新商品を売ろうとする場合、当然リスクが大きくなります。冷蔵庫がないので食材のロスが発生しやすいですし、夜間営業を行うと照明用の油代がかかります。味自慢の店が悪臭の発生する安い魚油を使うとは思えないので、高い菜種油等を使っているでしょう。一発で成功させなくては、店の状況はさらに悪化します。


この時期の江戸では飲食店が非常に多いです。およそ6000店舗ほど。

このうちそば屋は3000店オーバーで、半分以上を占めています。この3000件超えという数字には屋台が含まれておらず、こちらは別に900件くらいあったそうです。江戸の町のそば屋は競合店だらけです。

現代の東京23区内のコンビニエンスストアが4600店ほどだそうです。江戸は23区より狭いわけですし、武家のお屋敷が広い敷地を占めていて庶民の生活する地域はさらに限られているわけだから、現代のコンビニ以上にそば屋が密集していたことになります。数分歩けば他のそば屋へ行くことができたでしょう。


以上を踏まえてそば以外の品を売り出せるか見ていきます。

まず、お菓子。既に固定客が付いているので一番有望と思います。しかし、菓子だけでは借金返済に足りないとお梅が算盤を弾いています。


となると、主人公が未来知識を生かして新商品を作る必要があります。

ここで引っかかるのが江戸時代での広告です。引札を作る時間がありません。文章の依頼・彫り師の作業・摺師の作業を待っていては年が明けてしまうでしょう。


こうなると口コミ頼りですが、こちらも相当な期間根気よくやる必要があります。筆者はマーケティングについて門外漢ですが、戦前のそば屋さんの新商品宣伝が大変だったという話が残っているので江戸でも同様だったと考えます。10日程度ではそれほど売り上げを伸ばせないでしょう。


そば粉クレープやカラメルソース団子が短期間で人気になっているのは、流行の発信地吉原で「飴団子」が話題になったというブーストが大きく影響しています。同様の幸運は見込めません。


次に料理ですが、広告に関してお菓子と同様です。10日程度でどれだけ売り上げが見込めるのかという壁が存在します。


あと、味に関しても問題があります。新たに売り出すとして考えられるのは、小料理・丼物・弁当でしょうか。これらに関して江戸に強力な競合店がひしめいています。居酒屋・一膳飯屋(定食屋)・仕出し屋がそれぞれのライバルになるでしょうが、どれもプロの料理人が経営しています。素人料理でこれらに立ち向かうのはかなり無謀です。

勝負に持ち込むとすると、江戸人が知らない未来料理を出さなければならないでしょう。


ただし、丼物は消します。江戸人も現代人と一緒で熱々のご飯が好きです。この物語の時点で江戸では既に鰻丼が人気になっています。熱々のご飯と熱々の蒲焼きが評判です。


注文が入ってから短時間で熱々のご飯を客に出すノウハウなんて、力屋古橋は持っていません。姉妹は、朝ご飯以外は冷めたご飯が当たり前という生活をしています。

現代人の主人公も保温ジャーを使わずに温かいご飯を用意する方法なんて知らないでしょう。ひょっとしたら、お櫃なんて江戸に来て初めて見たくらいかもしれません。


冷めたご飯を提供したところで客が喜ぶわけがないので、熱いお湯やお茶をかけた湯漬け・茶漬けあたりになるでしょうか。こちらに関しても、未来人よりも江戸人の方がバラエティ豊かなレシピを持っていると思われます。一膳飯屋に勝てないでしょう。


丼物以外の未来料理を発明したとします。江戸人には未知の食べ物です。

ここで、お客さんになったつもりになってください。


・マクドナルドに行ったら、ハンバーガーもポテトもナゲットも売っていないでハマーム・マハシー(エジプト料理)を売っていた。

・カレー屋に行ったら、カレーではなくフェジョアーダ(ブラジル料理)だけが置いてあった。


こんな状況だったとしてお店に入りますか? 食べれば美味しいとは思いますが、私なら回れ右して他の店に向かいます。よほどお腹が減っていれば食べていくでしょうが。

ハンバーガーを食べたくてマックに行ったり、カレーが食べたくてカレー屋に行くわけなんですから、無理に未知の料理へ挑戦する気力はおきません。


同様に、そばを食べに力屋古橋を訪れた江戸っ子が未来料理を素直に食べてくれるか考えると、相当に微妙だと思います。数分歩けば他のそば屋に向かえるわけですし。


想定を少し変えてみます。


・マクドナルドに行ったら、いつものメニューとは別にハマーム・マハシー(エジプト料理)を売っていた。

・カレー屋に行ったら、カレーだけでなくフェジョアーダ(ブラジル料理)がメニューに載っていた。


これならお店に入りますし、ついでに新しい料理も試してみようかなという気もおこります。


長々と言い訳しましたが、そばの販売にこだわっている理由は以上となります。

これを本文内で説明しなければならなかったのですが、筆者の実力不足で余分な補足に目を通さなくてはならない状況を作り出してしまい、大変ご迷惑をおかけしました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新嬉しい。蕎麦が打てるようになるまでの平均的な修行期間がわからないので、どのくらい無謀なことなのかわからないのですが、主人公は何年ぐらい修行してるのでしょう。ネットでは3年半とありました…
[一言] 汁が濃い薄いというのは想像できますが、当たりがキツい穏やかはどんな感じなんですか?
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