第41話 残された子供たち
「何それ? 醤油に砂糖を溶かすために、わざわざ銚子まで出向いているの? そんなの、まるっきりバカのやることだよ!」
宏明の報告を聞いたお梅が吐き捨てるように言った。
「――旦那なりに考えた結果だと思うよ」
「考えが間違っているんだから、動きそのものがおかしくなっているってば!」
父親の安否が分かったからなのか、お梅の調子がいつも通りに戻ってきているようだ。
「どうして銚子くんだりまで行かなきゃならないの? 江戸にある醤油を使って汁を作ればいいのに!」
(ひょっとして、旦那が無断で出かけたのは、お梅ちゃんから猛反対をくらうことが分かっていたからなのかも)
宏明はふとそう思った。
「江戸にある醤油を父ちゃんが気に食わなかったんだろうねえ。味にうるさい人だから」
お藤も顔色が良くなっている。彼女の方はそこまで父親を批判するつもりはないようだ。
そのお藤に妹が食ってかかる。
「気に食うとか食わないとか、この際どうでもいいよね。店を開けてお客を呼び込むのが、今やるべきことなんだし」
「味を落としたら、お客が離れるかもしれないしね。幸いなことにお菓子は作れるわけだから、父ちゃんが言うようにこっちを売り続けましょ」
「お菓子の売り上げだけじゃ足りないんだってば! 夜にお菓子なんか売れないから、そばが要るの! そもそも、お父ちゃんが大晦日までに帰ってこないかもしれないし、待っているだけじゃダメだよ! なんとかしてそばを売り出さないと!」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ!」
最初は妹をなだめる口調だったお藤だったが、だんだんと声が高くなってきた。
「父ちゃんは醤油を買いに銚子、鹿兵衛兄さんはお義父さんの見舞いで常州。汁を作れる人がいないのに、どうやってそばを売り出すの!」
「お姉ちゃんが作れば良いでしょ! やり方は習っているんだし!」
「少し教わったくらいの汁じゃあ、それっぽい味にしかならないよ!」
「それっぽい味でも売ろうよ! この際何でも有りなんだから!」
「その汁につけるそばはどうするのさ? こっちも作れないんだよ?」
「お姉ちゃんが打ってよ」
「できるわけないでしょ!」
「じゃあ――」
お梅が、宏明の方に目を向けた。
姉妹の口論をハラハラと見守っていた宏明だったが、急に話を振られて当惑してしまう。
「俺は打てないよ。小麦粉を混ぜても他人様からお金を頂けるようなそばを作れないし、ましてや生粉打ちなんてやったことすらないし……」
「うどん粉を入れても構わないから、ヒロお兄ちゃんが打ってよ!」
「そう簡単に済む話じゃないよ。手打蕎麦の看板を出せなくなるし、それにそばを変えるとなると汁の味も変える必要が出てくるから」
「そんなの――」
なおも食い下がろうとするお梅を姉が制止した。
「いい加減にしなさい! 無理を言って宏明さんを困らせるんじゃないよ」
「なんでお姉ちゃんもヒロお兄ちゃんも、試しもしないで、できないできないって逃げるの!」
「試すまでもなくできないって分かっているからなの!」
「何もしなかったらお金を返せなくて店が潰れちゃうのに、どうしてなの!」
「――ちょっと! 宏明さんの前で何を言うんだい!」
「知らない知らない! お姉ちゃんのバカー!」
とうとう感情を抑えられなくなったのか、お梅が声を上げて泣き出してしまった。
「ええと……」
ばつが悪そうな顔をお藤が宏明に向ける。
「ごめんなさない。変な話を聞かせちゃって」
「別に構わないけど、かなり驚いたというのが正直な感想かな」
宏明が来た時から、夜間には客が大勢入っていたのだ。まさか借金を抱えているとは思いもしなかった。
「今月の頭の話では、何とか間に合うってことだったんだけど、その後に色々と起こりすぎちゃってね……」
「鹿兵衛さんが怪我をして、今度は醤油がなくなる。普通は考えられないようなことが、立て続けに起こっちゃったもんね」
「もう少しで何とかなりそうだったところで、急に無理になっちゃったもんだからこの子も――。ほら、いつまでも泣いていないで」
姉がなだめるが、お梅の方はいやいやと首を横に振りながら泣き続けている。
その様子を見ていた宏明は思い切って提案してみることにした。
「お藤さん、やってみようか」
「何を?」
「そば作り。ここにいる三人の力を合わせて」
「宏明さんまで何を言っているんだい。そばを作るのは難しいって知っているでしょ?」
当然ながら、お藤が驚く。
「だけど、何もしないで待っているってのも間違っていると思う」
「この店がなくなっても、宏明さんは別に困らないんだよ? やどやに戻って次の店に行けばいいんだし」
「拾ってもらった恩もあるし、短いけど何ヶ月か働いて愛着もわいているし、そして何より俺は力屋古橋のそばが好きだからね。ここで味が途絶えるなんてもったいないよ。百年、二百年、もっと長く千年先まで伝えていって欲しい」
実際に江戸時代からの味を守り続けているそば屋が、二十一世紀の東京にいくつもある。力屋古橋の味も未来まで残り続けるかもしれないのだ。そのためにはこの難局を乗り越えなければならない。
宏明の言葉を聞いたお藤の口に、小さな笑みが浮かんだ。
「――うちの店を褒めてくれてありがとう。父ちゃんが聞いたら喜ぶと思うよ。顔には出さないだろうけど」
「できるかどうかは分からないけど、とにかく頑張ろう」
「そうだね。諦めたらお終いだもんね」
お藤も彼に賛同してくれた。
「グスッ……。ありがとう、ヒロお兄ちゃん……」
こうして、力屋古橋営業再開に向けての動きが始まったのであった。




