表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/69

第40話 松三郎の行方

「――あ、ヒロお兄ちゃんいらっしゃい」


 店では、力ない笑みを浮かべたお梅が出迎えてくれた。


「父ちゃんの書き置きはこれだよ」


 お藤が宏明の前に一枚の紙を差し出した。


「……ごめん。ほとんど読めない。考えるまでもなく、俺がわざわざここに来る必要なんてなかったね」


 客席に座って話ができるので、多少は気持ちが落ち着くという効果はあるにはあるが。


 お藤によると、手紙には「何日か家を空ける。大晦日までには戻る。その間はお菓子だけを売っておけ」と書いてあるとのことであった。


 今日は十二月二十日。十日ほど家を空けるつもりなのだろうか。


「これだけじゃ全然分からない。何か他に手がかりはない?」


「笠とか脚絆とかが家からなくなっているから、どこか遠くへ行っているかもね」


 宏明の質問にお梅が答える。


(どこへ行ったんだろう? 本当に何日もかかるような旅に出たのかな?)


 昨日の松三郎の様子を思い返してみる。


 彼はいつも通り台所でそばを打っていた。暮れの六つ(およそ午後六時)頃に腕の痛みでそば打ちができなくなって閉店となってしまったが、ここ最近は毎日のことなので別段大きな変化ではない。それから、片付けを済ませて宏明は帰宅した。それ以来、松三郎と一回も顔を合わせていない。


「店を閉めるまでは、旦那はいつも通りだったと思うけど、その後に何かあったりしなかったかな?」


「そういえば、父ちゃんは醤油問屋に出かけたね。帰ってきたのはかなり遅かったかな。木戸が閉まる前(およそ午後十時)には戻ってきたはずだけど」


 江戸では治安のために、夜間は各町内の木戸が閉まって道が封鎖されてしまうのだ。


(木戸門のことを考慮すると、旦那はまだ遠くへ行っていないはずだ。夜が明けるまでは開かないわけだし)


 まだ近くにいるのかもしれないが、どの方角にいるのかは皆目見当が付かない。それさえ分かれば連れ戻すことも可能になるのだが。


「旦那がどうして醤油問屋に行ったのかは分かるかな、お藤さん?」


「そりゃあ、醤油が近頃なかなか入ってこないからだよ」


「答えが見えてきたぞ。醤油の残りは少ないの?」


「少ないどころか、もうスッカラカンだよ。今日のうちに『かえし』を仕込まないと、汁を作れなくなっちゃうのに」


「そんなに長いこと醤油が届いていなかったんだ」


「ここしばらくお客が減っていたり、父ちゃんの腕が痛んで店を早めに閉めていたりで、そんなに『かえし』を使わなかったけど、そろそろ新しく作らないと看板を出せなくなるだろうね。いくら冬とはいえ、もうすぐ使えなくなるから。このままだと大晦日にそばを売れないそば屋って笑いものになっちゃうよ」


 醤油に砂糖を煮溶かす「かえし」は、二週間程度で賞味期限になってしまう。


「醤油問屋さんが手がかりっぽいかな。急ぎで日本橋まで話を聞きに行ってくるから、お藤さんとお梅ちゃんはここで待っていて」


 二人を残して、宏明は日本橋の醤油問屋へ向かった。


 歩いているうちに、だんだんと松三郎への怒りがわき起こってきた。誰にも行き先を告げずに出かけるなんて勝手すぎる。娘たちが本気で心配することくらい分かっていたはずだろうに。


「古橋さんですか? 朝一番でここへ来ましたよ」


 醤油問屋の旦那がにこやかに答えてくれる。


「こちらに来ていたんですか。今はどこにいるか分かります?」


「もちろんですとも」


 目星を付けた通り、醤油問屋が正解を知っていたのだ。


「古橋さんは、手前の店の手代と一緒に銚子へ向かっていますよ」


「ちょ、銚子? うちの旦那はどうしてそんな所に?」


挿絵(By みてみん)


「その様子だと何も聞かされていないようですね」


「はい。全く知りません。教えてください」


「古橋さんのところに卸している醤油が、川越(埼玉県川越市)の蔵から届かなくなってしまいましてね。手前どもと致しましても困るので、何度も文を送って、しまいには人を出して催促したのですが、信じられないことに蔵に醤油が全くないということが分かったんですよ。これは一昨日にやっと知り得たことです」


「製造している蔵に醤油がない? 腐らせちゃったんでしょうか?」


「いいえ、どこかの問屋が買い占めてしまったようです。長く店をやっていますが、こんなことは初めてですよ。――ふう。商いというのは銭のやり取りだけでなく、心のやり取りもあるというのに」


 醤油問屋の声に怒りが少し混じった。長い付き合いを無視して、別の問屋に商品を全て売ってしまった醤油蔵への怒りだろう。


 不満を見せたのはほんの一瞬だけで、彼はすぐに元通りの笑顔となる。


「この話を昨晩古橋さんにお伝えしたら、醤油を変えると仰いまして」


「そうせざるを得ませんよね。手に入らないんだから」


「古橋さんが前々から気にしていた醤油があるということで、すぐに話は進みました。しかし、間の悪いことに手前どもの店に件の醤油がほとんど残っていなくて。それで、今日の朝一番で手代を銚子に出すことにしたんです」


「うちの旦那はどうして一緒について行ったんでしょうか?」


「向こうで仕込んでから江戸に持ってくると仰っていました」


「ああ、そういうことか」


 やっと合点がいった。そば汁を作るには時間がかかるのだ。江戸に醤油が到着するのを待ってから作り始めるより、生産地で仕込んで江戸に持ってくれば時間の短縮につながる。松三郎がわざわざ現地に赴いたのはそういう意味があったのである。


「ありがとうございます。ようやくうちの旦那のことが分かりました。ところで、銚子まで何日くらいかかるのでしょうか?」


「行きは二日もあれば向こうに着きますよ。帰りは早くとも五日か六日は見ておいた方がよろしいかと」


「どうして行きと帰りでそんなに違うんですか?」


「帰りは利根川を遡らないといけませんから、どうしても日数がかかってしまうんですよ」


「そっか、醤油みたいに重たい物を運ぶとなると、水運頼りなんだ……」


「川の水が少ない時は馬に積んで運びますが、どうしても舟より遅くなりますね」


「となると、年内に帰ってこられないかもしれないんですね」


「よっぽど運が悪くなければ間に合いますよ」


「そうですか。少し安心しました。それにしても、舟で五日か六日って日数が絶妙ですね。力屋古橋の汁取りを考慮すると」


 力屋古橋の場合、醤油に砂糖を煮溶かしてから六日間寝かすのだ。醤油が変わったことで期間が多少長短するかもしれないが、だいたいちょうど良くなっているだろう。


 大晦日に営業するために、松三郎は最善を尽くしているのだ。そば屋が大晦日に商売をしないなんて、現代日本の東京では考えられない。江戸でも同じなのだろう。

 醤油が江戸に到着するのを待っていたら、大晦日に店を開くのは不可能になってしまうのである。


 だからと言って、無断で出かけていったのは大問題だが。


 宏明は醤油問屋にお礼を言って帰路についた。松三郎を無理矢理連れ戻すという考えは、既に消え去っている。


(今の話を聞かせたら、お藤さんもお梅ちゃんもひとまず安心してくれるだろう)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 醤油問屋への顔見せがあってからの、醤油の買い付けとか天才か。買い付けに川を使うとか、想像膨らむ。 [一言] 妨害に対応していく展開も良い。もしネタがなくなったら、異世界居酒屋のぶみたいに常…
[一言] 滅茶苦茶面白かったです。 キーワードに料理を追加してみてはどうでしょうか。
[良い点] 某大手カップ麺もJANコード変わる度に細かな味変はしてるらしいし最近変化したドライビールみたいな大多数の歓迎する味変は有りかと思います。勿論行動力が斜め上なのは困りますが
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ