第39話 十二月二十日早朝
「うるさいぞ、猫ども。もう少しおとなしく待っていてくれ」
腰板障子の向こうで鳴いている猫たちに、宏明は声をかけた。
今は夜明け直後。宏明は自宅でそばを打っていた。起きてすぐにそばの練習をするのが日課となっている。
そのそばをエサとして分けてもらえると知っているから、近所の野良猫たちはこの時間に集まってきているのだ。
「よし、上出来」
家では毎日打っているし、店ではそば打ちの良いお手本を見ることができるので、宏明の腕は大きく上達していた。自信もかなり付いてきている。
切ったばかりのそばを、沸騰しているお湯の中に放り込む。野良猫に食べさせる分は包丁下でも構わずに茹でてしまっている。力屋古橋で飼っている猫は舌が肥えているから嫌がるかもしれないが、野良猫は生煮えでも構わずに食べてくれるからだ。外でずっとニャアニャア鳴き続けられるのも近所迷惑なので、さっさとそばを与えて黙らせた方が良い。
「ほら、お待たせ」
宏明は洗ったばかりのそばを皿に乗せて、腰板障子を開けた。
すると、二匹の子猫が彼の足下に駆け寄ってくる。
宏明が地面に皿を置くと、我先とそばを食べ始めた。
その様子を少し離れた場所から見守っていた母猫も、ゆっくりと皿に近づいてきて、そばを口にする。
「残さずに食えよ」
言い残して、宏明は家の中に戻った。
まだ茹でていないそばを木箱の中に入れて、その上に布をかける。そして、まだ薄暗い外へ再び出た。
「寒いっ」
思わず声が出てしまった。今日は少し風が強いようだ。
宏明は身を縮こまらせながら三軒隣の家に向かった。
目的の家の戸口から煙が漏れ出ているのを確認して、彼は戸を叩く。
「おはようございます。約束のそばを持ってきました」
こう呼びかけると、すぐに二十代前半の女性が顔を出した。この家に住むおかみさんだ。
「いつもありがとうね。助かるよ」
練習で打ったそばをもらってくれる人も、ちらほら現れ始めていた。人間に食べてもらえる方が、猫のエサにするよりもやる気が向上するから、ありがたい話である。
「うちのガキンチョどもが宏明さんのそばを気に入っていてね、楽しみに待っているんだよ」
「そう言ってもらえるだけで、打った甲斐があります」
「そばを打てるんだから、お店で修行なんかしていないで、屋台を担いで商売を始めてみたらどうだい?」
「俺は汁を作れないですからね。まだまだ修行不足です」
「なら、早く汁を作れるようにならないといけないね。宏明さんは麺だけならそこらの屋台に負けていないんだから。これってそば粉をうどん粉より多く使っているんだろ?」
「三杯一杯と言って、そば粉三に対して小麦粉一の分量です」
宏明は実家のそばと同じ割合で作っている。
「やっぱり立派なそばだったよ。そば粉一・うどん粉四くらいのを扱っている屋台もあるらしいから、宏明さんも早いところ商売始めちゃいなさいって」
「――それって、そばじゃなくて、うどんですよね」
例外はあるが、現代日本ではそば粉を三十パーセント以上使用した麺が「そば」と名乗って良いと定められている。江戸ではそういう基準がないようだが、いくらなんでも酷すぎである。
「全ての屋台がそうじゃないんだろうけどさ、どうせ客は分からないって腹なんだろうね」
「小麦粉の方が多いそばでもそれっぽい味になりますしね。市販の乾麺とかカップ麺とか」
「それって八王子のそばのことかい? それはさておき、うちの亭主の話を聞いておくれよ。宏明さんのそばを食べて『そば粉よりもうどん粉の方が多く入っているに違えねえ』とか抜かしていたんだよ。何を偉そうに語っているんだか、あの半可通が」
おかみさんが大笑いする。
「食べただけで分かる人なんてほとんどいないでしょうから……」
宏明はフォローを入れておく。
二百年後の日本でも、そば粉と小麦粉の割合を当てようとする人が存在する。飲食店のレビューサイトの覗いてみると、「この店は二八そばだ」とか「店は十割そばと称しているが、実は七三そばに違いない」とか書き込まれているのが散見される。
宏明が知る限り、実家のそばの割合を正確に言い当てた人はいない。それくらいに、小麦粉はそばの風味を打ち消さない食材だということなのだろう。
「お店の方はどうだい? 近頃は明神下の人通りも戻ってきているから、忙しくなっているんじゃない?」
「そうですね。煤払いの日あたりから、お客さんが増えています」
辻斬り事件の犯人は未だに捕まっていないが、町は日常に戻り始めていた。やはり日々の生活もあるから、いつまでも恐がっていられないのだろう。
「今日と明日は明神様で歳の市が立つから、さすがに賑わうだろうねえ」
「えっと、歳の市って正月用品とかが売り出されるんでしたっけ?」
現代まで続いている行事なのだが、宏明は名前くらいしか知らない。
「他にも色々と売られるよ。とにかくあちこちから人が集まってくるはずさ」
「町が賑わうなら、辻斬りなんかできないかもしれませんね。すぐに取り押さえられちゃいそうだし」
「とっとと捕まって欲しいんだけどねえ。ガキンチョを外で遊ばせるのも心配になるわけだから」
「あれ以来一回も出没していないから、どこか遠くへ行っちゃったかも」
「そうだと嬉しいんだけどねえ。――そうだ。うちで作ったお味噌を持っていってよ。いい感じに出来たからさ」
「ありがたく頂きます。あ、すごく良い匂いですね」
おかみさんから味噌を受け取り、宏明は自分の家へ戻っていった。
家の前では、そばを食べ終えた子猫たちが駆け回っていて、その様子を母猫が地面に横たわって見守っている。なんとも微笑ましい光景だ。
猫の餌やりに使った皿を回収しようとした時だ。路地の向こうから誰かが走ってくるのが見えた。
「――お藤さん? どうしたんだろ、こんな時間に?」
よく見知った女性だった。
彼女が勢いよく近づいてきているので、これに驚いた野良猫たちは慌てて物陰に隠れてしまう。
「はあ、はあ……。 宏明さん、大変だよ!」
そう言う彼女の顔色は蒼白であった。
「父ちゃんがいなくなっちゃった!」
お藤の言葉に宏明が仰天する。
「いなくなったってどういうこと?」
「父ちゃんがなかなか起きてこないと思って様子を見に行ったら、既に寝床はもぬけの殻だったんだよ」
「どこかへ出かけただけなんじゃない?」
「そうじゃなくて、書き置きが残してあって――。あ、ここに持ってくるのを忘れていたよ!」
「店に行こう。話の続きはあっちで」
二人は小走りで力屋古橋へ向かった。
そば粉の方が多く入ったそば。小麦粉の方が多いそば。江戸では屋台だけでなく店売りでも後者の方が多かったようです。
腕自慢の店と、安さが売りのそば屋が混在していたのでしょう。
現代でも小麦粉の割合が多い立ち食いそば屋があちこちにあります。(そば粉の方を多く使っている立ち食いそば店もあります)
良いそば粉をたくさん使う高級店と、庶民の味方の安いお店が同じ町に並ぶのは、江戸の昔から変わらない風景なのかもしれません。
現代のそばの定義がそば粉30パーセント以上と本文で書きましたが、干しそばの場合だと29パーセント以下でもパッケージにその旨を記載すれば販売可能だそうです。30パーセント以上なら何も表記せずに「そば」と名乗れるとのこと。
そして、外食で提供されるそばには30パーセントルールが適用されていません。安すぎるそばは、実は色が付いただけのうどんなのかも……。




